さんざめく思慕のヴァルダナ

kanegon

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▼第14章 金の兎耳の国

▼14-2 赤煉瓦の都

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 一行が目的地に到達したのは夕方近くであった。

 カルナ・スヴァルナ国はガンジス河西岸の西ベンガル地方に都城がある。

 ガンジス下流域ということで、湿度の高さは馬に乗って旅しているだけでも気になった。

 都城に到着する直前にはニグローダ樹が幾本も生えている小さな林を抜けた。ニグローダ樹は別名にバンヤンの樹とも呼ばれるベンガル地方の菩提樹だ。横に広く枝を広げ、枝から出た気根が垂れ下がって地面に到達し、そこから更に根を生やしてやがて幹になる。なのでニグローダ樹の隧道のようになっていて、林と思っていたのは、実は一本のニグローダ樹だった。

「スタネーシュヴァラ国のラージャー王陛下と、ご一行様ですね。お待ちしておりました」

 出迎えの者に案内されて、都城内に入る。街の大きさとしては、縦長のカナウジを正方形に縮小したような感じであった。

 カルナ・スヴァルナの土地の土壌が硬い赤土ということもあり、赤煉瓦の材料となっている。大城の隣のラクタマッティー僧伽藍をはじめとして、赤煉瓦で作られた建物が多く、常に街全体が夕陽を浴びたかのように真っ赤に燃えている感じだった。色が色だけに、見ているだけでも熱さを肌に感じるようでもあった。冬の寒さをあまり感じなくて済みそうではあるが、暑季の酷暑が大変そうではある。

「見たことの無いような珍しい果物が多いようですね。美味そうですね」

 随伴員の誰かが言った。多くの花が咲き茂り活気のあるカルナ・スヴァルナの街は、苛烈で奸智に長けたシャシャーンカ王の統治する街ではあるが、人口が多い上に豊かそうで至って平和そうであった。

 王城の敷地には広大な庭があり、サプタパルナの木が豊かに枝を広げて太陽の光を浴びて、チャンパの花が高い梢に咲いて風の中に揺れていた。王城は赤煉瓦造りの広壮な台閣であった。王城内に入り、いよいよシャシャーンカ王との面会の段となった。

 シャシャーンカ王は立派な髭をたくわえた長身の筋骨隆々たる戦士だった。まだ三〇歳にもなっていないくらいの年齢のようだった。

 最も目立ったのはシャシャーンカ王が頭に戴いている王冠だった。見る者に端的に兎の耳であるかのごとき印象を与えるものだった。月の光のごとき金色に輝いていて、王としての威厳を周囲に示すというよりは若干の親しみ易さと微量の滑稽さとが同居していた。

「我が王冠、そんなに珍しいですかな。いえいえ、正直に仰っていただいて結構ですとも。この金の耳を王冠として使うようになってから、我がカルナ・スヴァルナ国は金耳国とも呼ばれるようになっております。歴史上、このような王冠を戴いた王などどこにも居ないでしょう。ですが、我は既存のどんな王の模倣でもない、歴史上一人だけの王になるということです。我は得ることのできないものを求めて、求めもしないものを得ることの繰り返しでここまで来ました」

 シャシャーンカ王は胸を張って高らかに言い、ラージャー王と随伴の者たちを順番に見回した。交渉はまだ始まっていないが、優位に立つための駆け引きは始まっている。

「ベンガルの虎として高名なシャシャーンカ王陛下とお会いできて光栄です。聞くところによると、内政に力を入れておられて、水不足の地域に貯水池を作っていて、民からの感謝と崇敬の念を集めておられるとか」

「噂に流れているのはベンガルの虎、ではなく、ベンガルの狡猾な虎、ではありませんかな。我としては、狡猾な虎なんて生き物は想像しにくく、どちらかというと狡猾なのは砂狐じゃないかと思うのですが。まあそれはそうと、民からの支持は王として当然重要なことと我は考えています。なので宗教も民の支持を得ていない仏教ではなく、シヴァの神を祀っておりますぞ。宗教とは、己の生命を浸して流れる妙なる調べが何であるかは、ただ己と己の心だけが知っていればよい、ということです。宗教は関係なく、水は重要です。先日も、サラサンカに貯水池を造りました。我の仕事は貯水池を造る場所を定めて、長方形の四角の場所に竭地羅木の杭を四本立てるところまでで、後は土木担当の者に任せるのですが」

「ほう。王たる者、民に迎合する必要性は無いと思いますけど、シャシャーンカ王陛下は民を大事にされているのですな」

 ラージャー王は目を細めた。やはりシャシャーンカ王は油断ならない相手である。ラージャー王が仏教の方に心を寄せていることを知っていて挑発するようなことを言って牽制しているのだ。更にはいちいち詩的な表現を混ぜて煙に巻いて来る。

「まあラージャー王陛下もお供の方々も、長旅でお疲れのことでしょう。正式な和平交渉は明日からということにして、本日はお休みいただきたい。カルナ・スヴァルナの朝は、戸口に立った友のように微笑し、夕べは、森の外れの一本の花のようにうなだれるものです。今の時間から食事というわけにもいかないでしょうが、水が豊かで肥沃な地であるカルナ・スヴァルナならではの、果物でもお召し上がりいただきたい」

 謁見の間に簡易な卓が用意され、王の言う通り、あれこれと色とりどりの果物が運び入れられた。見慣れぬ果物も多い。

「この赤い果実は、見たことは無いが、美味そうだな。食べてみようか」

 ラージャー王は随伴者の一人に囁きかけた。カルナ・スヴァルナの関係者には聞こえないように配慮した小声だった。

「いけません。その果物は完熟していません。完熟していればほとんど黒っぽい色になります。完熟していれば美味しくいただけるのですが、未完熟の場合は食べたら腹を壊します。恐らく相手は最初から分かっていて、間違えた振りをして未完熟の果物を出してきたのです。想定以上に狡猾です」

「なるほど。やはりここはあくまでも敵の手の中なのだな。十六分の一の小さな油断が命取りになりそうだ」

 ラージャー王は赤い果実を素通りして、その向こうに置かれていたマンゴーに手を伸ばした。これは好物である。せっかく旅で余所の土地に来たのだから、その土地ならではの物を食べたいと思っていたのだが、こちら側に知識が無いことにつけこまれる形で罠を仕掛けられていたとは、油断もできない。

 ラージャー王がマンゴーを食べたので、他の随伴員たちもマンゴーを手に取って食べた。先ほどの赤い果実は誰も食べていない。

 マンゴーはしっかり熟していて美味だった。旅の疲れが甘さに溶けて行くようだ。

「皆さま、マンゴーがお好きですか。では、こちらはいかがでしょうか。花はその花弁の全てを失って、果実を見出すものです」

 シャシャーンカ王の言葉を受けて出てきたカルナ・スヴァルナの料理人が皿に載せて出してきたのは、無花果の実だった。

 先ほどラージャー王に警告した随伴員が再び小声でラージャー王に耳打ちする。

「陛下、これは怪しいです。皿に載せて出してきたということは、無花果の実の表面に毒を塗ってある可能性が高いです。料理人が触らないようにしているのです」

「なるほど」

 ラージャーは皿の上に盛られた無花果を睨むように眺めた。

 それを目の当たりにして、シャシャーンカ王は渋めの表情になった。

「おい、料理人よ。ラージャー王陛下ご一行のお気に召すような物をお出しできていないではないか。料理人よ、単独でいる者は無にすぎない。彼に実在を与えるのは他者であるぞ。他者に認められるような働きをせよ」

「も、申し訳ございません。こんなはずでは」

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