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▼第15章 ヴァルダナの栄光
▼15-4 曲女城の戦い
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お返しとばかりに敵から飛んできた矢が、象の鞍の天蓋に突き刺さった。一瞬肝が冷える。そういえば父のプラバーカラ王は度重なる白フン族との戦闘の中で矢傷を受けたことがあった。それでいて痛みに耐えつつ奮戦を継続し、国に戻っても王としての執務を普段通りに行っていた。ハルシャには到底真似できるとは思えない強靭な精神だ。今更ながらに父に対する尊敬の念を強くする。
象の護衛たちと襲撃者たちが入り混じって戦い始めた。ハルシャの象からは少し距離ができていた。油断はできないが、伏兵の奇襲に関しては乗り切れたかもしれない。奇襲の最初の一撃の時に護衛の歩兵ではなくハルシャに矢が命中していたら勝ち負けは逆転していたかもしれない。
「ハルシャ陛下、杖陣の胸が突出し過ぎています」
安心する間もなく、前方の情勢に関する報告が上がって来る。
陣形の乱れはどう対処すべきか。父と共に参加した演習を思い出す。あの時は進み過ぎた部隊の速度を落として全体の均衡を保つようにしていた。
だが今回は、何か指示を出す前に敵と衝突してしまった。
「もう指示を出すのも手遅れっぽいな。そのまま突進せよ。『杖陣』から『鷹陣』への移行を意識した感じの動きをすれば、相手の陣を中央突破できるぞ」
奮戦を促す指示を出しながら、ハルシャは護衛兵から使用した分の矢を受け取った。もしまた敵が迫ってきた時には自らの矢で撃退する意気込みだ。
後詰めのハルシャは高みの見物をするだけだが、本隊は既に激しい戦闘に入っている。象軍が相手を蹂躙する。それでも相手も護衛の兵をかいくぐって象の腹を攻撃する猛者もいる。
ハルシャが事前に指示していた、『杖陣』から『鷹陣』へ移行する感じでの前進が功を奏していた。シャシャーンカ王の軍は前後に分断され始めていた。鷹陣の胸部分に該当する象軍の精強ぶりが際立つ。大地に巨体の体重を轟かせて前進し、相手の歩兵は踏みつぶし、相手の騎兵は弾き飛ばし、相手の戦車は乗っている人間を鼻で巻き上げてしまい槍で刺して殺す。追われたシャシャーンカ軍は渦を巻くようにして逃げる。
「我が軍が優勢の模様です」
伝令からの報告を受けて、ハルシャはこのまま押し切るために成り行きに任せることにする。気を付けたいのは、一発逆転を狙っての捨て身の攻撃を仕掛けられることだ。ハルシャ自身、周囲に気を配り、もし刺客が襲ってきてもすぐに弓矢で返り討ちにできるよう気を張ったまま保っている。
「陛下、報告です。胸の象軍部隊が敵の歩兵部隊に包囲されてしまいました。周囲から矢を射かけられていて、象は無事ですが、象に乗っている兵士が次々と倒されています」
「なんだと。先ほどまで余裕で優勢だったではないか」
鷹陣であるからには、長所は中央突破力だ。特に胸の部分に象軍を配置していたのだから、その破壊力はインドでも最強だったはずだ。突破力に優れているからには、相手を突き抜けて敵を完全に両断してしまえば良かった。しかし、目先で逃げ惑う歩兵を倒して武勲を挙げるのに夢中になってしまって突破が疎かになり、敵の包囲網の中に誘い込まれてしまっていた。
やはりシャシャーンカ王は一筋縄ではいかなかった。
ハルシャは、自分が乗っている象の上で歯噛みした。周囲を見渡す。平原。ヴィンドヤースの森。曲女城たるカナウジの街。蛇行してガンジス河が流れ、支流のジャムナ河も離れた場所に流れている。
「誰か、将軍一名、名乗り出よ。決死隊を組んで敵の大将であるシャシャーンカ王の首を取りに行け。王を倒せば我が軍の勝ちだ」
まさか数で勝っている自軍の方が乾坤一擲一発逆転狙いの手を打つことになるとは想定していなかった。
「残りの軍勢は、敵歩兵の包囲網を更に外側から包囲して殲滅せよ。囲まれた象軍がやられる前に敵を倒せ。この部隊は副官に指揮を頼みたい」
「ハルシャ陛下が指揮をとられるのではないのですか」
「余は、十名程度護衛の者を連れて、行くところがあるのだ。さあ、シャシャーンカ王討ちの部隊を指揮する将軍として名乗り出る者はいないのか」
ハルシャは乗っていた象から降りて自分の足でカーニャクブジャの大地に立った。側仕えの者から自分の弓と矢筒を受け取る。
「敵の王を倒して手柄を立てる役割、自分に立候補させてください」
聞き覚えのある声にハルシャが振り向いた。マーラヴァ遠征の時は司令官、カナウジ撤退戦の時はしんがり、今日の戦いでは囮軍を任されて危機に陥っていた将軍だった。いつもは損な役割を押しつけられて厭そうな表情ばかりしているという印象を抱いていたが、今は立候補なので晴れ晴れとした顔をしているようにハルシャには見える。
「よし、必ずかの砂狐よりも狡賢いシャシャーンカ王の首を持ち帰って来い。後は余について来る護衛十名の人選が済めば、すぐに出発する」
それぞれの部隊はハルシャ王の指示を受けて動き始めた。ハルシャ王自身も、護衛を引き連れて森に入った。目指すはカナウジの南西の塔だ。
特に問題も無く件の南西の塔が見える所まで来て、ハルシャは弓を構えた。目標は三階の窓だ。
以前に来た時には槍を持ったサムヴァダカと一緒だった。目標にしていたのは南東の塔の四階だった。敵に発見されるのを回避するために射撃の時間を厳選したが、結局見つかってしまった。
今回に関しては、見つかる心配はあまりしなくていいという目処だ。
空を見上げる。乾季の今は雨が降りそうな気配は無いが、気温の暑さの割には晴れなのか曇りなのか評価が分かれそうな雲の量だったが、問題は雲ではなく飛んでいる数羽の鳥だった。
「鴨かな。邪魔しないでくれよ。間違って当たらないでくれよ」
鴨を狩ることを目的としているのなら絶好の的だったが、今は単なる妨害にしかならない。
過去に一度は成功している射法だ。不可能ではない。ハルシャは自分に言い聞かせる。難しい射法ではあるが、練習を重ね失敗の数を積んで経験値を貯めてきたハルシャでなければできない特殊な技だ。
「行け」
ハルシャは空に向かって矢を射た。雲間から覗く太陽の光を反射して、括り付けた紅縞瑪瑙の指輪が煌めいた。
矢は飛んでいる鴨の側を鋭く通り抜けた。驚いた鴨たちは慌てて遠くに逃げ去る。矢は南西の塔の三階の窓を目がけて急降下する。四角の窓枠の上辺に少しかすって勢いを減じて、室内に飛び込んだ。
「よし、成功だ」
今回は、巡回兵の周期など細かいことを気にせずに矢を放った。にもかかわらず、不快な甲高い音の笛は鳴る様子は無い。カナウジの守備兵の一部が守将の方針を無視して武功に走って打って出てしまったため、警備が手薄になっているのだろう。
「バーニ大臣に指輪を返還したからには、用は済んだ。本隊に戻るぞ」
息せき切って主戦場に戻り、安全を確認しつつ後詰め隊に合流する。指揮を任せていた副官が乗っている象を発見して声をかけた。
「戻ったぞ。戦況はどうなっている」
「陛下、それが」
副官は厳しい表情だった。その顔を見ただけで、まだ敵に決定的な打撃を与えることもできていないし、シャシャーンカ王を討ち果たすこともできていないのだと悟る。兵力差では圧倒的に優勢のはずなのに、だからといって簡単に勝利を掴めるのではない。もどかしい。象に這い上がろうとして足を滑らせた。もどかしい。
象の鞍の上に座り込んでようやく人心地着いたところで、変化はカナウジの街の方から空に黒く立ち昇り始めた。それも一カ所ではなく、ハルシャが視認できる範囲でも四本の煙が上がっている。
象の護衛たちと襲撃者たちが入り混じって戦い始めた。ハルシャの象からは少し距離ができていた。油断はできないが、伏兵の奇襲に関しては乗り切れたかもしれない。奇襲の最初の一撃の時に護衛の歩兵ではなくハルシャに矢が命中していたら勝ち負けは逆転していたかもしれない。
「ハルシャ陛下、杖陣の胸が突出し過ぎています」
安心する間もなく、前方の情勢に関する報告が上がって来る。
陣形の乱れはどう対処すべきか。父と共に参加した演習を思い出す。あの時は進み過ぎた部隊の速度を落として全体の均衡を保つようにしていた。
だが今回は、何か指示を出す前に敵と衝突してしまった。
「もう指示を出すのも手遅れっぽいな。そのまま突進せよ。『杖陣』から『鷹陣』への移行を意識した感じの動きをすれば、相手の陣を中央突破できるぞ」
奮戦を促す指示を出しながら、ハルシャは護衛兵から使用した分の矢を受け取った。もしまた敵が迫ってきた時には自らの矢で撃退する意気込みだ。
後詰めのハルシャは高みの見物をするだけだが、本隊は既に激しい戦闘に入っている。象軍が相手を蹂躙する。それでも相手も護衛の兵をかいくぐって象の腹を攻撃する猛者もいる。
ハルシャが事前に指示していた、『杖陣』から『鷹陣』へ移行する感じでの前進が功を奏していた。シャシャーンカ王の軍は前後に分断され始めていた。鷹陣の胸部分に該当する象軍の精強ぶりが際立つ。大地に巨体の体重を轟かせて前進し、相手の歩兵は踏みつぶし、相手の騎兵は弾き飛ばし、相手の戦車は乗っている人間を鼻で巻き上げてしまい槍で刺して殺す。追われたシャシャーンカ軍は渦を巻くようにして逃げる。
「我が軍が優勢の模様です」
伝令からの報告を受けて、ハルシャはこのまま押し切るために成り行きに任せることにする。気を付けたいのは、一発逆転を狙っての捨て身の攻撃を仕掛けられることだ。ハルシャ自身、周囲に気を配り、もし刺客が襲ってきてもすぐに弓矢で返り討ちにできるよう気を張ったまま保っている。
「陛下、報告です。胸の象軍部隊が敵の歩兵部隊に包囲されてしまいました。周囲から矢を射かけられていて、象は無事ですが、象に乗っている兵士が次々と倒されています」
「なんだと。先ほどまで余裕で優勢だったではないか」
鷹陣であるからには、長所は中央突破力だ。特に胸の部分に象軍を配置していたのだから、その破壊力はインドでも最強だったはずだ。突破力に優れているからには、相手を突き抜けて敵を完全に両断してしまえば良かった。しかし、目先で逃げ惑う歩兵を倒して武勲を挙げるのに夢中になってしまって突破が疎かになり、敵の包囲網の中に誘い込まれてしまっていた。
やはりシャシャーンカ王は一筋縄ではいかなかった。
ハルシャは、自分が乗っている象の上で歯噛みした。周囲を見渡す。平原。ヴィンドヤースの森。曲女城たるカナウジの街。蛇行してガンジス河が流れ、支流のジャムナ河も離れた場所に流れている。
「誰か、将軍一名、名乗り出よ。決死隊を組んで敵の大将であるシャシャーンカ王の首を取りに行け。王を倒せば我が軍の勝ちだ」
まさか数で勝っている自軍の方が乾坤一擲一発逆転狙いの手を打つことになるとは想定していなかった。
「残りの軍勢は、敵歩兵の包囲網を更に外側から包囲して殲滅せよ。囲まれた象軍がやられる前に敵を倒せ。この部隊は副官に指揮を頼みたい」
「ハルシャ陛下が指揮をとられるのではないのですか」
「余は、十名程度護衛の者を連れて、行くところがあるのだ。さあ、シャシャーンカ王討ちの部隊を指揮する将軍として名乗り出る者はいないのか」
ハルシャは乗っていた象から降りて自分の足でカーニャクブジャの大地に立った。側仕えの者から自分の弓と矢筒を受け取る。
「敵の王を倒して手柄を立てる役割、自分に立候補させてください」
聞き覚えのある声にハルシャが振り向いた。マーラヴァ遠征の時は司令官、カナウジ撤退戦の時はしんがり、今日の戦いでは囮軍を任されて危機に陥っていた将軍だった。いつもは損な役割を押しつけられて厭そうな表情ばかりしているという印象を抱いていたが、今は立候補なので晴れ晴れとした顔をしているようにハルシャには見える。
「よし、必ずかの砂狐よりも狡賢いシャシャーンカ王の首を持ち帰って来い。後は余について来る護衛十名の人選が済めば、すぐに出発する」
それぞれの部隊はハルシャ王の指示を受けて動き始めた。ハルシャ王自身も、護衛を引き連れて森に入った。目指すはカナウジの南西の塔だ。
特に問題も無く件の南西の塔が見える所まで来て、ハルシャは弓を構えた。目標は三階の窓だ。
以前に来た時には槍を持ったサムヴァダカと一緒だった。目標にしていたのは南東の塔の四階だった。敵に発見されるのを回避するために射撃の時間を厳選したが、結局見つかってしまった。
今回に関しては、見つかる心配はあまりしなくていいという目処だ。
空を見上げる。乾季の今は雨が降りそうな気配は無いが、気温の暑さの割には晴れなのか曇りなのか評価が分かれそうな雲の量だったが、問題は雲ではなく飛んでいる数羽の鳥だった。
「鴨かな。邪魔しないでくれよ。間違って当たらないでくれよ」
鴨を狩ることを目的としているのなら絶好の的だったが、今は単なる妨害にしかならない。
過去に一度は成功している射法だ。不可能ではない。ハルシャは自分に言い聞かせる。難しい射法ではあるが、練習を重ね失敗の数を積んで経験値を貯めてきたハルシャでなければできない特殊な技だ。
「行け」
ハルシャは空に向かって矢を射た。雲間から覗く太陽の光を反射して、括り付けた紅縞瑪瑙の指輪が煌めいた。
矢は飛んでいる鴨の側を鋭く通り抜けた。驚いた鴨たちは慌てて遠くに逃げ去る。矢は南西の塔の三階の窓を目がけて急降下する。四角の窓枠の上辺に少しかすって勢いを減じて、室内に飛び込んだ。
「よし、成功だ」
今回は、巡回兵の周期など細かいことを気にせずに矢を放った。にもかかわらず、不快な甲高い音の笛は鳴る様子は無い。カナウジの守備兵の一部が守将の方針を無視して武功に走って打って出てしまったため、警備が手薄になっているのだろう。
「バーニ大臣に指輪を返還したからには、用は済んだ。本隊に戻るぞ」
息せき切って主戦場に戻り、安全を確認しつつ後詰め隊に合流する。指揮を任せていた副官が乗っている象を発見して声をかけた。
「戻ったぞ。戦況はどうなっている」
「陛下、それが」
副官は厳しい表情だった。その顔を見ただけで、まだ敵に決定的な打撃を与えることもできていないし、シャシャーンカ王を討ち果たすこともできていないのだと悟る。兵力差では圧倒的に優勢のはずなのに、だからといって簡単に勝利を掴めるのではない。もどかしい。象に這い上がろうとして足を滑らせた。もどかしい。
象の鞍の上に座り込んでようやく人心地着いたところで、変化はカナウジの街の方から空に黒く立ち昇り始めた。それも一カ所ではなく、ハルシャが視認できる範囲でも四本の煙が上がっている。
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