秘剣 侶鶴雪香(ひけん りょかくせっこう)

冲令子

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師弟の契り1

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 任永芳じんえいほうは微かな物音に目を覚ました。
 寝台から降りると手燭を持ち、部屋を出る。
 真っ暗な通路の片隅でうずくまっていた塊が、突然灯りを突きつけられて飛び起きた。揺らめく焔に光る瞳は一瞬不安の色を浮かべたが、すぐに永芳をキッと睨んだ。

「こんなところで寝ては風邪を引くだろう。私の部屋に来なさい」

 永芳が細い腕を取ると、余雪よせつはそれを乱暴に振り払った。

「……師兄に、ここで寝ろと言われました」

 永芳は、俯いて呟く余雪の側にしゃがみ、もう一度手を取る。

「わたしは、お前の師兄の兄弟子だよ」

 飛鶴派ひかくはでは、長幼の序列は絶対である。
 余雪は渋々といった体で起き上がると、永芳について彼の部屋に入った。

「こんなに冷え切って、震えているじゃないか」

 秋が深まり、日が落ちれば冬の訪れを感じる時期の夜中である。南方出身の余雪にとっては、慣れない寒さだろう。冷気が這い上がってくる土間で横になっていた余雪は、カチカチと鳴る歯をグッと噛み締めた。

「雪児、何があった?」

 永芳の問いかけに、余雪は俯いたままじっと黙っている。

「話しなさい」

 穏やかに命令すると、余雪はようやく重い口を開いた。

「……布団に水をかけられました。寝小便をしたと言われ、濡れた布団では眠れないだろうから、土間で寝ろと部屋から出されました」

 随分と幼稚なことをするものだと、永芳はため息をついた。
 余雪は数ヶ月前、永芳の父である総帥が南方を訪れた際に連れて帰ってきた孤児だった。
 総帥は時折、慈善の心から余雪のような孤児を拾ってくる。大抵は子どものいない家庭や、働き手の欲しい屋敷に引き取られるが、余雪はその気の強さからか、なかなか貰い手が見つからなかった。
 南方訛りを馬鹿にされて話し相手もおらず、一人でぽつねんと過ごすことも多い。

 見かねた永芳が試しに稽古をつけたところ、思いのほか筋が良かったため、今まで下男部屋にいたのを、数日前に幼い弟子たち暮らす部屋へ移ってきたのだが、それが兄弟子たちの妬みを買ったのだろう。
 余雪の気が強いのも、兄弟子たちの反発の一因だった。いじめられてしおらしくべそでもかけば、周囲の溜飲も下がるのだろうが、余雪は相手が誰だろうと、怒りのこもった目をして掴みかかり、必ず負けるとわかっていても取っ組み合いの喧嘩を始めてしまう。

 永芳は余雪を寝台に引き入れようとするが、余雪は身を固くして拒んだ。

「……汚れてしまいます」

 土間に寝転がっていた余雪の服は泥まみれだった。

「では脱ぎなさい」

 有無を言わせない永芳の態度に、余雪は仕方なく内衣だけになって寝台に潜り込んだものの、小さな体を縮こませて端から落ちそうになっている。
 懐に引き寄せようとする永芳の胸を、余雪は突っぱねて、さらに体を丸めた。

「お前を迎えにいって、私まで冷えてしまった。二人くっついて暖まらないと、風邪をひいてしまう」

 内功(気を操る力)に優れた永芳にとって、体を温めるのは容易いことだったが、恩着せがましく言って無理やり胸に抱え込むと、余雪も今度は抵抗せず、永芳の腕の中に収まった。骨ばかりの体は冷え切っているせいで、余計に憐れに思えた。

「眠れそうか?」

 余雪は黙り込だまま、じっと体をこわばらせている。
 正確な年齢は余雪自身もわからないと言っていたが、おそらく七つか八つといったところだろう。健康状態が悪かったせいか、余雪は同じ年頃の子弟より貧弱な体をしていた。

「兄弟子たちには、今日のようなことはよくされているのか?」

 骨の浮いた背中を抱きながら永芳が尋ねると、余雪はフンと鼻を鳴らした。

「あいつらはクソ野郎だ。やられた以上に仕返ししてやってる」

 予想外の返事に、永芳は閉口してしまった。
 武術を嗜む者として、飛鶴派の一門には英雄好漢であることが求められる。兄弟子たちも基本的には皆、心根の善良な子ばかりだが、まだ精神的に未熟なために、集団生活の中では些細な悶着が多い。
 ちょっとしたことで均衡を崩す幼い集団に、都会育ちで奔放な性格の余雪が入ったことで、落ち着かない危うい空気になっているのは永芳も感じていた。

「……お前に剣の修行をさせたのは、間違いだったのかな」
 
 飛鶴派は規律が多く、稽古も厳しい。
 深い考えもないまま、余雪に稽古をつけてしまったが、いくら剣の筋が良くとも、門派の子弟としての生活は、余雪にとって不自由なのかもしれない。

「……俺は、福州に帰されるの?」

 心細げな声に、永芳はハッと我に返った。

「すまない、そんなつもりで言ったわけじゃないんだ。ただ、お前が稽古で辛い思いをしているんじゃないかと心配しただけだ」

 余雪は何も言わず、布団の中でじっと俯いていた、怒りからか、もしくは悔しさからか、余雪の肩は微かに震えていた。
 慌てて永芳が小さな体を包もうとすると、余雪は腕を突っ張って拒絶した。

「……稽古は辛くないか?」

 永芳の問いに、余雪は小さく頷いた。
 剣を振るう時だけは、余雪は生き生きとして楽しげに見えた。

「では、お前を一人で福州に帰すなんて、そんなことはしない。お前が望む限り、お前は好きにしていいんだ」

 永芳が力任せに抱きしめると、余雪は永芳の胸の中で肩を震わせ、唇を噛み締めていた。
 今まで孤児として一人で逞しく生きてきたといっても、まだ幼い子どもだ。いくら気が強かろうが、永芳が思う以上に、心細い思いをしたことだろう。
 思うように泣くことすらできない背中をそっと撫でると、永芳の胸中に三年前、自身が覚えた孤独が不意に甦った。どうにもできない悔しさや惨めさで胸が詰まる思いは永芳も体験したことなのに、余雪を傷つけてしまった。

「兄弟子の言うことをきくのも修行の一つだよ」
「……馬鹿げたことを言われても、黙って従わないといけないのか」

 声を震わせて呟く小さな体を、慰めるように強く抱き寄せた。余雪は永芳の腕の中でもがいていたが、やがて静かに眠りに落ちた。
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