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一章 漫画家志望の猫山先輩

漫画家志望の猫山先輩 9

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しばらくその場から動けずにいて、なんとか家にたどり着いたころには、身体が重くなっていた。
 拓斗は高熱を出した。
 年明けには、大学入試が終わってから入学までの短期留学をかけたピアノのオーディションがあり、拓斗はほぼ内定していたのだが、コンディションが悪く辞退せざるを得なかった。尊敬する世界的なピアニストのレッスンを受ける機会を失っただけでも雄一郎を恨む理由には充分なのだが、しかし、雄一郎の告白でのダメージはこれだけではなかった。
 入試までには体調が回復し、大学に合格することはできたのだが、あの日から拓斗の頭にはノイズが埋め込まれた。
 このままピアノだけに邁進していいのだろうか、という迷いだ。
 それはまるで、三五〇度もあるという競馬の視野に、前方だけ集中させようと視界を狭めるためつけているブリンカーを外されたようなものだった。
 拓斗は四歳からピアノしかしてこなかった。それしか見えなかった。
 しかし、周囲にはピアノ以外のものがたくさん存在するのだと、ちらちらと視界に映って主張するようになったのだ。
 もしピアノができなくなったら、自分になにが残るのだろうか。
 拓斗は雄一郎のように器用な人間ではない。時間が経つほど、あらゆる可能性が消えていくのではないか。だから雄一郎はヴァイオリンを捨てたのではないか。
 日に日に、そんな焦燥感が強くなっていった。
 ――ピアノを弾くのが怖くなっていた。
 そんな気持ちになるのは生まれて初めてのことで、拓斗はどうしていいのかわからなかった。
 しかし、拓斗の頭が混乱していようとコンクールの日程は迫ってくる。ますます拓斗の心はざわついた。まったくピアノに集中できなかった。
 ピアノのレッスンで、先生から叱られる回数が増えてきた。先日は一音目から止められて先に進まなかった。そんなことも初めてだった。
 ピアノは限界なのではないか。向いていないのではないか。そう考えて拓斗は落ち込んだ。
 一週間ほどまえも、そんなことを考えながら、ぼんやりと公園脇の遊歩道を歩いていた。
「危ない!」
 そんな声に顔を上げた時、頭に衝撃が走った。硬球が直撃したのだ。
 拓斗は倒れ、意識を失った。
 気が付いた時には病院で、精密検査を受けた。結果はただの脳震盪だった。
 安心して家に帰ったのだが……。
 拓斗はピアノが弾けなくなっていた。
 ピアノに触ろうとすると、手が震えるようになったのだ。
 もう一度病院に行こうと言う母を締め出し、拓斗は部屋に引きこもった。
 神経に問題があるわけではないだろう。ピアノに触ろうとしなければ、指は普通に動くのだ。ならば精神的な問題だ。
 拓斗は自分に向き合う時期が来ているのだろうと思った。
 ピアノを弾けない恐怖。
 それと同時に、手が震えているうちは弾かなくてもいいという安堵もあった。
 どちらも拓斗にとっては本物の気持ちで、自分はどうしたいのだろうと考えていた。
 答えが出ないうちに、今日、雄一郎が訪ねてきた。
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