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三章 家族で仲良く暮らしたい、城島啓太

家族で仲良く暮らしたい、城島啓太 10

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 拓斗はピアノに手をかざす。しかし、案の定ピアノに触れなかった。
「昨日となにが違うんだろう。啓太のための発表会なのに。昨日弾けたきっかけは、えっと、後ろ向きの『ねこふんじゃった』だ」
「トリッキーなことやってたんだな」
 雄一郎の呆れ顔なんて気にしていられない。拓斗はピアノに背を向けてみたが、今度は鍵盤に触れた指先がビリリと痺れて、拒絶されてしまった。
「これでも弾けない。どうしよう、時間がないのに」
 リビングダイニングの時計の針は、六時五十分を指していた。開始まであと十分。まだ隆は現れない。
「拓斗、落ちつけって。伴奏がなくても大丈夫だから」
「でも、ピアノの音もあったほうがいいよ」
「そりゃあそうだが」
 雄一郎は拓斗をピアノの椅子に座らせた。
「いいか、主役はお前じゃない。もちろん俺でもない。啓太だ。啓太が気持ちよく歌えるように演奏するのが俺たちの役目だ。だが繰り返しになるが、おまえはそこに座っているだけでもいい。スランプだってことは伝えておくから、無理するな」
 これは啓太のための発表会だ。
 上手く歌えたら、両親の関係が修復できると啓太は信じている。
 啓太にとって重要な場なのだ。
 部屋の壁時計を見た。
 もうすぐ七時になる。
 そのとき、リビングダイニングの扉が開いた。
「……啓太、見に来たぞ」
 少々息を乱した隆が会場に現れた。ドアに手をつきながら、ずれている眼鏡の位置を直す。
「パパ!」
 啓太に笑顔が広がって、大きく両手を振った。陽子は信じられないとでもいうように、部屋に入ってきた夫の顔を凝視している。
 観客は啓太の親族のほかに、数人の入居者もいる。
 大家は舞台をセットしたあたりの明かりのみ残し、部屋の照明を落とした。
 ここで本来、ピアノの伴奏を始めなければいけないタイミングだった。しかし拓斗の指が動かないことを確認して、雄一郎はイントロダクションからヴァイオリンで奏で始める。
 拓斗はきつく目を閉じた。
 啓太のために、最高の曲に仕上げてあげたい。
 そのサポートができるのは、今この場にいる雄一郎と自分だけなのだ。
 啓太のための特別な曲。
 拓斗は目を開き、そっと鍵盤に指をのせた。自然に指が動き始める。痺れはない。
 雄一郎とアイコンタクトをかわす。
 ――なんだ、やっぱり弾けるじゃねえか。
 ――どうにか指が動くようになったよ。
 あとは呼吸を合わせて、啓太にとって気持ちのいいメロディを紡いでゆくだけだ。
 ――星に願えば夢は叶う。運命はいつも優しさであふれている。
『星に願いを』とは、そんな歌だ。
 この『夢見ハイツ』の住人たちに、そして今の啓太にぴったりの曲だ。
 変声期前の天使のような少年の声がフロアに響き渡る。ジミニー・クリケットらしく、少々気取ったように啓太は踊った。その姿も愛らしい。
 ピアノとヴァイオリンの澄んだ音色と高い声のハーモニーが耳に心地よい。
 啓太は見事に歌い上げ、わずか数分のリサイタルは終了した。
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