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終章 2人が歩むプレリュード

2人が歩むプレリュード 3

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「オレに興味を持ったって指導者は結構名の知れた権威ある人で、なんか気に入ってくれてさ。俺がその気なら大学に来いって言ってくれたんだよ」
「すごいじゃないか。……でも雄一郎、大学に行ってないよね?」
「……迷ってたんだ」
 雄一郎は小さくブランコを揺らしながら空を見上げた。
「長年全力で頑張ってきたヴァイオリニストの夢が絶たれて、次にまた挫折したら、今度こそ立ち直れないと思うだろ。……怖くてさ」
 最後のほうは、あまりにも小さくて消えてしまいそうな声だった。
 常に自信に満ち溢れていて、飄々としていて、ちょっと皮肉屋で。
 雄一郎はそんな男とばかり思っていた。
 彼から怖いなんて言葉を聞くとは思わなかった。
「ずっと悩んでいたんだが、そんなとき、拓斗の調子が悪いって噂を聞いた」
 ピアノのことだろう。疑問を持たずに淡々とピアノを弾いていた拓斗は、雄一郎にノイズを吹き込まれてから、思うようにピアノを弾けなくなっていた。
「タイミング的に、俺がヴァイオリンをやめると言った影響だろうと考えた。悪いことをしたかなとも思ったし、バカなヤツだなとも思った」
「バカとかひどいよ。そうだよ、雄一郎のせいだったんだからね」
「いつかフォローしてやろうと思ってはいたんだが、俺だって自分のことで手いっぱいだったからな。そのうち、おまえの親から連絡があって、ピアノが弾けなくなって引きこもっているから助けてほしいって頼まれたんだよ。耳を疑ったし、爆笑した」
「えっ、ひどすぎない? 笑うところじゃないよね」
 拓斗は身を乗り出して抗議した。
「悔しいから言わなかったけどな。おまえは才能の持ち腐れだなってずっと思ってたよ」
「どういうことだよ」
「拓斗ほどの腕があったら、とっくにデビューしていてもおかしくなかった。でもずっと精密マシーン止まりなのな。それは壁にも障害にもぶつからずに、なにも考えずにそれなりに弾けちまってるからだ。一度デカい山で遭難してみろってずっと思ってた。そうしたら、みごと大穴に落っこちて動けなくなってるじゃないか」
「そうだよ。笑えないじゃないか」
「その穴から自力で這い出したら、拓斗は随分と変わるんだろうなって思った」
 雄一郎は拓斗に目を向けた。その眼差しがあまりにも優しかったから、拓斗はなにも言えなくなってしまった。
 ただ「そうだったんだ」とつぶやいた。
 実際に拓斗は変わった。自分でもそう思う。
「だからおまえを迎えに行くとき決めたんだ。拓斗が完全に復活したら、俺も再出発しよう。本気で指揮者を目指そうって」
「それで、コンクールで入賞しろって言ったんだね」
「そうだ。まさか腱鞘炎になるなんて思わなかったよ。悪かったな」
「それはいいんだってば。事故だから」
「無自覚のままおまえの中に消化不良として溜まっていたエナジーみたいなものが、一気に噴き出してきたのかもしれないな。でもこれからは制御していけるだろ?」
「うん。もうこんなに痛い思いしながらピアノを弾きたくないからね。このコンクールが終わったらきちんと腱鞘炎を直して、これからはオーバーユースにならないように気をつけるよ」
「やっぱり本選も出るのか?」
「当たり前でしょ。狙うは一位だよ」
「そうか」
 雄一郎は笑顔で立ち上がった。
「それを聞いて安心した。もう一人で大丈夫だな」
 拓斗が見上げると、頭上に浮かぶ大きな月が雄一郎の黒髪を照らしている。
「明日にでも大学に向かうよ。そろそろ準備をしないと、九月の入学式に間に合わないからな」
「九月に、入学式?」
 繰り返した拓斗は、はっと目を見開いた。
「まさか、雄一郎の行く指揮科の大学って……」
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