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序章 謎の紳士の正体は……
序章3
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それからというもの、毬瑠子はマルセルの言う「重大なこと」が気になって仕方がなかった。もう学校どころではない。
スマートフォンで検索しても、急に目が赤くなったり、犬歯が伸びたり、怪力になったりする病気は見つからなかった。
毬瑠子は自転車で「BAR SANG」に向かうことにした。事情を知っていそうなマルセルに話を聞いたほうが早い。
調べるとSANGはフランス語で“血”を意味していた。おかしな店名をつけるものだ。
九月初旬の午後はまだ残暑が厳しい。秋が短くなったと言われるように、まだ涼しくなる気配はなかった。
日中に外出すると日射病になったかのように弱ってしまうのだが、今日も案の定だった。毬瑠子は辟易してしまう。
自転車で約二十分。
高いビルが立ち並ぶ駅前から離れ、民家と個人商店が入り混じるようになった辺りの、大通りから外れた閑静な街並みの一角に、ひっそりとその店はあった。
木造りの扉の隣りにある黒地の看板に、銀色の字で「BAR SANG」と書いてある。しゃれたデザインだが外から店内が見えないので、一見は気後れしそうだ。
腕時計を見ると、針は三時過ぎを指し示している。いつ来てもいいとは言われたが、あまりに中途半端な時間に来てしまったかもしれない。
緊張しながらドアに手をかけると、鍵はかかっていないようだった。厚みのある扉は重量がありそうだが、力が強くなってしまった毬瑠子にとってはどうということはない。
「こんにちは」
声をかけながらゆっくりドアを開けると、カランと真鍮のドアベルが鳴った。
店はそれほど広くない縦長の空間で、カウンター席が八席あった。その奥には六人ほど座れるボックス席が一つある。赤と黒が基調色で金色の飾りがアクセントになり、高級感のある空間だ。まだ店が始まっていないせいか、フロアは薄暗い。
「毬瑠子! よく来てくれましたね」
カウンターの中にいたマルセルが歓喜の声をあげる。マルセルの存在に気づいていなかった毬瑠子は驚いてのけ反ってしまった。
「よかった、話をしたくて待ちきれませんでしたよ。わたしが誰なのか、もう察しているのでしょうね」
マルセルはカウンターから駆け寄ってきた。その勢いに毬瑠子は尻込みする。
「たぶん、私のお父さんの……」
「そうです、わたしはあなたの父親です! 抱きしめてもいいですか?」
お父さんの関係者、と続けるはずだった言葉は、腕を広げるマルセルに遮られた。
「イヤですっ!」
毬瑠子は慌ててドアに手をかけた。マルセルは「ああっ、帰らないでください」と急いで毬瑠子から距離を取った。
「あなたが私のお父さんのはずがないでしょ」
年齢が合わないと否定したばかりだ。しかしマルセルは別の意味に捕らえたようだ。
「……そうですよね。いきなり現れて父親面をしようなんて、虫がいいですよね……」
マルセルはがっかりとした様子で、とぼとぼとカウンター内に戻っていく。長身のイケメンが肩を落として歩く姿は一層の哀愁が漂う。
「毬瑠子、座ってください。大丈夫です、あなたには指一本触れないと誓います。順に話をしますから」
あまりに意気消沈させてしまったので罪悪感を覚えながら、毬瑠子はカウンター席に座った。
ちょっと言い方がきつすぎたかな。
毬瑠子はそう思いはしたが、父だと名乗るマルセルのことは信用できない。
マルセルは今朝と同じく黒く光沢のあるスリーピースを身につけている。カウンターの奥には洋酒がずらりと並び、薄明かりが灯されたライトに天井から下がったグラスが光を反射させている。こうしていると映画のワンシーンに入り込んだ気になる。
「その前に、乾杯をしませんか?」
「乾杯?」
マルセルはグラスを準備しながらうなずいた。
「あなたにとって、おそらく受け入れがたい話が続きますから、リラックスしていただこうと思いまして」
毬瑠子は息をのむ。どんな話が飛び出すのだろうか。確かに飲み物は欲しい。
手早くマルセルはなにかをグラスに注ぐと、カウンターの上に種類の違う二つのグラスをのせた。どちらにも澄んだ赤色の液体が入っている。
「キールです。白ワインとカシスリキュール」
「私はまだギリギリ未成年で、アルコールが飲めません」
「はい、承知していますよ。あなたのほうはラズベリー・シロップとグレープ・ジュースのノンアルコールカクテル“フォー・キール”です。フォーはフランス語で偽物の意味ですね。あなたが成人したら、本物のキールをご馳走しますよ」
さあ乾杯しましょう、とマルセルに促されて、二人はグラスを軽く重ねる。キンと小気味のいい小さな音が鳴った。
「どうしてわざわざノンアルコールカクテルにしたんですか?」
キールもどきのジュースは美味しい。しかしグレープ・ジュースだけでよかったはずだ。
「毬瑠子はカクテル言葉をご存じですか?」
「カクテル言葉?」
マルセルはにっこりと微笑む。
スマートフォンで検索しても、急に目が赤くなったり、犬歯が伸びたり、怪力になったりする病気は見つからなかった。
毬瑠子は自転車で「BAR SANG」に向かうことにした。事情を知っていそうなマルセルに話を聞いたほうが早い。
調べるとSANGはフランス語で“血”を意味していた。おかしな店名をつけるものだ。
九月初旬の午後はまだ残暑が厳しい。秋が短くなったと言われるように、まだ涼しくなる気配はなかった。
日中に外出すると日射病になったかのように弱ってしまうのだが、今日も案の定だった。毬瑠子は辟易してしまう。
自転車で約二十分。
高いビルが立ち並ぶ駅前から離れ、民家と個人商店が入り混じるようになった辺りの、大通りから外れた閑静な街並みの一角に、ひっそりとその店はあった。
木造りの扉の隣りにある黒地の看板に、銀色の字で「BAR SANG」と書いてある。しゃれたデザインだが外から店内が見えないので、一見は気後れしそうだ。
腕時計を見ると、針は三時過ぎを指し示している。いつ来てもいいとは言われたが、あまりに中途半端な時間に来てしまったかもしれない。
緊張しながらドアに手をかけると、鍵はかかっていないようだった。厚みのある扉は重量がありそうだが、力が強くなってしまった毬瑠子にとってはどうということはない。
「こんにちは」
声をかけながらゆっくりドアを開けると、カランと真鍮のドアベルが鳴った。
店はそれほど広くない縦長の空間で、カウンター席が八席あった。その奥には六人ほど座れるボックス席が一つある。赤と黒が基調色で金色の飾りがアクセントになり、高級感のある空間だ。まだ店が始まっていないせいか、フロアは薄暗い。
「毬瑠子! よく来てくれましたね」
カウンターの中にいたマルセルが歓喜の声をあげる。マルセルの存在に気づいていなかった毬瑠子は驚いてのけ反ってしまった。
「よかった、話をしたくて待ちきれませんでしたよ。わたしが誰なのか、もう察しているのでしょうね」
マルセルはカウンターから駆け寄ってきた。その勢いに毬瑠子は尻込みする。
「たぶん、私のお父さんの……」
「そうです、わたしはあなたの父親です! 抱きしめてもいいですか?」
お父さんの関係者、と続けるはずだった言葉は、腕を広げるマルセルに遮られた。
「イヤですっ!」
毬瑠子は慌ててドアに手をかけた。マルセルは「ああっ、帰らないでください」と急いで毬瑠子から距離を取った。
「あなたが私のお父さんのはずがないでしょ」
年齢が合わないと否定したばかりだ。しかしマルセルは別の意味に捕らえたようだ。
「……そうですよね。いきなり現れて父親面をしようなんて、虫がいいですよね……」
マルセルはがっかりとした様子で、とぼとぼとカウンター内に戻っていく。長身のイケメンが肩を落として歩く姿は一層の哀愁が漂う。
「毬瑠子、座ってください。大丈夫です、あなたには指一本触れないと誓います。順に話をしますから」
あまりに意気消沈させてしまったので罪悪感を覚えながら、毬瑠子はカウンター席に座った。
ちょっと言い方がきつすぎたかな。
毬瑠子はそう思いはしたが、父だと名乗るマルセルのことは信用できない。
マルセルは今朝と同じく黒く光沢のあるスリーピースを身につけている。カウンターの奥には洋酒がずらりと並び、薄明かりが灯されたライトに天井から下がったグラスが光を反射させている。こうしていると映画のワンシーンに入り込んだ気になる。
「その前に、乾杯をしませんか?」
「乾杯?」
マルセルはグラスを準備しながらうなずいた。
「あなたにとって、おそらく受け入れがたい話が続きますから、リラックスしていただこうと思いまして」
毬瑠子は息をのむ。どんな話が飛び出すのだろうか。確かに飲み物は欲しい。
手早くマルセルはなにかをグラスに注ぐと、カウンターの上に種類の違う二つのグラスをのせた。どちらにも澄んだ赤色の液体が入っている。
「キールです。白ワインとカシスリキュール」
「私はまだギリギリ未成年で、アルコールが飲めません」
「はい、承知していますよ。あなたのほうはラズベリー・シロップとグレープ・ジュースのノンアルコールカクテル“フォー・キール”です。フォーはフランス語で偽物の意味ですね。あなたが成人したら、本物のキールをご馳走しますよ」
さあ乾杯しましょう、とマルセルに促されて、二人はグラスを軽く重ねる。キンと小気味のいい小さな音が鳴った。
「どうしてわざわざノンアルコールカクテルにしたんですか?」
キールもどきのジュースは美味しい。しかしグレープ・ジュースだけでよかったはずだ。
「毬瑠子はカクテル言葉をご存じですか?」
「カクテル言葉?」
マルセルはにっこりと微笑む。
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