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第2話

残花の色ー5

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 アッシュブラウンのウェーブがかった長い髪をした、黒スーツの女性。

 すらっとしていて、背が高く、パンツスタイルがよく似合っていた。

 モデルのような体系と、整った顔立ちに、芸能関係の人だろうと思った。

 ジャケットの前ボタンを開けていて、無地の赤いネクタイに止めらた、シルバーのネクタイピンまで見える。

 ここにいる全員の視線が、彼女に集まっていた。

 初めに動いたのは、菖武の父親で、菖武の手を引きながら、立ち去ろうとする。

 殴られた驚きと、見知らぬ女性の出現に、僕は完全に困惑をしていて、動きだせないでいる。

 すると、近くにいた桜花が忍びのような速さで、彼の菖武の手を握っていない方の手を掴んだ。

「待ってください!」

 菖武の父親は鋭い目で桜花を睨む。

「放せっ!」

 男は、掴んだ手を勢いよく、振りほどこうとしたが、桜花はびくともしていない。

「はる君に謝ってください!」

 桜花の声音からは、怒っているように感じた。

 自分のために怒ってもらえたことが、純粋に嬉しかった。

 けれど、それで彼女に、危険な目にはあってほしくない。

「うるさい! いい加減に……うあぁぁぁ! い、痛いっ!」

 先ほどまで怒号を放っていた男の声が、突然うめき声に変わる。

 どうやら、彼女は掴んだ手の力を強めたようだ。

 桜花には、菖武を軽々持ち上げるくらいの力があるわけで、その腕力で握られれば、痛くないはずはないだろう。

 男は菖武の手を放して、顔を真っ赤にしながら、必死な表情で桜花の手を引っぺがそうとしている。

 けれど、その抵抗は虚しく、桜花の手が緩むことはない。

「謝って!」

 追い打ちをかけるように、桜花がさらに手に力を込めたことで、男はようやく観念する。

「わ、わかった! 謝る! 謝ればいいんだろ……速く放せっ!」

 桜花が手を放すと、男はすぐさま、先ほどまで掴まれていた箇所を確認し、舌打ちをする。

 菖武の父親は、呆然と立ち尽くす僕の前にやってきて、目線は合わせずに、小さく頭を下げる。

「すまなかった」

 表情からは反省はなく、無理やり謝らせただけ、という不服の感情だけがこちらに届いた。

 だが、心からの謝罪を要求するつもりはなかったので、僕個人は、許すことにした。

「いえ。菖武君のことを叩かないって約束してくれるなら、いいですよ」

 僕が殴られたことは、どうでもいい。

 菖武の問題解決が第一だ。

「……」

 僕の言葉に対し、彼はイエスかノーかは答えず、沈黙という回答をした。

「お願いです! 菖武君を叩くのはやめてください!」

 桜花もこちらに寄ってきて、菖武の父親に訴えかけた。

 それでも、口を開こうとしない彼に対して、先ほど現れた女性が口を開く。

「ちょっといいかしら?」

 再び、彼女に視線が集まる。

「菖武君は、この男の子のことでいいのよね?」

 彼女は優しく、菖武の頭に手を置く。

 僕と桜花は首肯する。

「叩くというのは?」

 最初からいたわけでもない彼女が知らないのは、無理もない。

 彼らの家庭において、僕と桜花が部外者であるように、彼女もまた、この場における部外者だ。

 僕は彼女にこの場の当事者の権利を与えるために──などという傲慢な発想は一切なく、味方になってくれないかな、という小さな願いを込めて、菖武の身に起きていることを簡潔に話した。

「なるほど」

 彼女は、膝を曲げ、菖武と目を合わせる。

 菖武は父親を庇うためか、シャツをめくられないように、力強く抑えている。

「そう」

 こちらからでは、彼女がどんな表情をしていたのかは、わからなかった。

 女性は立ち上がると、僕たちのいる方へ歩いてくる。

 黒のプレーンタイプのパンプスが、アスファルトを踏み進めるたびに高い音を鳴らす。

 菖武の父親の前で音が鳴り止み、睨みながら彼女は言う。

「あんたみたいなやつは、一度、痛い目にあわないと、人の痛みを知れない」

 彼の首元に右手を伸ばし、力強く掴む。

「ぐっ……」

 息が詰まった声を彼が上げると、同時に彼女はそのまま持ち上げる。

 彼の足が宙に浮かんだ状態となり、僕は目を丸くする。

 あの細い腕のどこにそんな怪力が!?

「くっ……うわぁ……」

 声にならない声を上げる彼。

 驚いてる場合じゃない。

 このままだと彼が……

 そう思った次の瞬間には、菖武が駆けだしていた。

「や、やめろっ!」

 菖武が女性の足を掴むと、すぐに彼を解放した。

 まるで、菖武がそうすることを初めからわかっていたかのように。

 男は腰を抜かし、細かった目を目一杯開いて、首を抑えながら呼吸を整えている。

「冗談よ。君、優しいのね」

 呆れたような表情で、女性は言った。

「そうです。菖武君は優しいんです」

 彼女の言葉に反応したのは、桜花だった。

 菖武の父親の方を向きながら、言葉を続ける。

「菖武君が、私たちに背中のあざのことを話してくれた時、菖武君は一度もご両親を悪く言わなかったんです」

 それどころか、彼は自分を責めてすらいた。

 本当に、優しい子だ。

 だからこそ、余計に胸が痛い。

 勉強ができない自分が悪いからと、余計に自分を追い詰めて……

 彼が負っているのは、背中のあざだけじゃない。

 心はもっと深く傷ついているはずだ。

 まだ、小学2年生なのに。

 菖武の父親が驚いたような表情で、菖武に視線を送る。

「なんで……」

 菖武は泣くことをこらえ、顎に皺を作っている。

 菖武の父親の発言に僕は驚いていた。

 菖武の父親の心の中に、酷いことをしている自覚が、責められて当然だと思う自覚が、あったことに。

 彼を肯定するつもりはないけれど、気持ちは理解できる。

 人間、ダメだと理屈でわかっていても、感情でやってしまうことがある。

 それは仕方のないことで、誰しもが理屈で感情を完全に抑制できるのなら、この世界はここまで複雑化することはないだろう。

 けれど、それは人を傷つけていい免罪符にはならない。

「僕のせい……だから。僕が、お兄ちゃんみたいに勉強ができないから……ごめんなさい……」

 菖武は糸が切れたように泣き出した。

 嗚咽をしながら、俯いて泣いている。

 菖武の父親は涙を流す彼に近づき、自分の手のひらを一瞥した後、躊躇うような様子を見せながらも、菖武を抱きしめた。

 菖武は彼の背中を握りしめ、やっと年相応な大きな声で泣いた。

「菖武……ごめんな……本当に……ごめんな……」

 自分の過ちを責めるように、彼は涙声で何度も謝罪の言葉を菖武に言っていた。

 雲に隠れていた太陽はいつの間にか顔を出し、地上は光を取り戻していた。
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