たこ焼きラプソディー

銭屋龍一

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たこ焼きラプソディー 25

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 体のあちこちが痛い。
 それでも、体力的に辛いということより、単調な作業の繰り返しに耐えることの方がきつかった。
「やっぱ、合わんでしたか」
 来たときと同じ担当者が運転するジープで山を降りていた。
「すみません」とゆで玉子が謝る。
 タコ部屋との認識でやって来たが、約束の期日でやめたいと切り出すと、あっけなく了承された。
 俺たちは黙り込み、それぞれの思いを抱えて、ジープから見える風景をみつめた。
「本当に観光はしなくていいんですか? 吉野にでもお送りしましょうか?」
 担当者の言葉に、俺たちは丁寧に礼を述べて、「大丈夫です」と答えた。
 駅まで送ってくれた担当者の車を、手を振って見送った。
 来る前には、帰りに、付近の観光でもしようかと話し合っていた。けれども今は、とてもそんなことをする気分ではなかった。
「なあ、高遠。今度はしっかりと覚悟を決めて、もっと長い期間、働いてみないか?」
 ゆで玉子が、ジープが消えた道の向こうに視線を向けたまま言った。
「ですね。なんかこんなん、すげぇ、腹が立ちますわ」
「だよな」
 振り向いて俺の顔を見たゆで玉子は、いつもの明るい笑顔であった。

 臓腑を下から突き上げるようなバスドラのビートを感じたと同時に、爆風が俺の体を押してきた。
 真弓のライブには、ゆで玉子を誘った。
 けれども待ち合わせ場所に現れたのは松下だった。
 圧倒的な音量は、物理的な風となって俺に襲い掛かる。足を踏ん張り、頭を前に傾け、俺は対峙する。
 それはそのまま誘いだった。
 スネアのビートが俺の体を切り刻んだかと思うと、ギターのうねりがそれらを新たな形に縫いあげる。俺を、ひとところに、じっと留まらせてはくれない。
 キーボードが音の厚みを創り出す。
 その中を真っ直ぐに、ハスキーだが高音のボーカルが、心に刺さってきた。
 真弓だった。
 なめていた。正直お嬢様の遊びだと思っていた。俺は一気に引きずり込まれた。
 隣で、松下が、ヘッドバンキングをしている。こいつがこんなにのれるやつだとは思っていなかった。少し見直す。
 ライブハウスはスタンディングで満員だった。ノリの具合から、リピーターも多くいそうだ。これだけの演奏を見せつければ、ファンもできようというものだ。
 ガールズバンドとしての特長を生かすというよりも、メタルの中に別のものを溶けこまそうとしているように聞こえた。新しいロックを模索しているような。
 激しいビートに、ディストーションをかました圧倒的にひずんだギター音。だが、メロディアスな部分がその中に内包されている。
 そのサウンドに揺られながら、心地よさを感じていた。異世界に繋がる回廊を歩いているような気がした。すぐそこに異世界が見えている。
 音楽とは不思議なものだ。直接言語で語りかけなくとも、鮮やかな色をした、いくつもの光の明滅などが見えたりする。
 真弓がシャウトしている歌詞は、終末世界を生きる人々の救いについてである。
 歌詞の言葉が、その言葉の意味のままだけで届いてくるのはつまらない。その言葉が俺の中で別の言葉に変換され、俺の心を解き放つとき、俺は異世界にトリップする。
 心地いい。と、そのとき、音の回廊の中にわずかな違和感を覚えた。ずれた。間違いない。そして、再び。
 しっかりと、とりこまれていた異世界から、俺は現実世界に引き戻された。もはや無条件であちらの世界には行けなくなった。
 おしい。あまりにもおしい。
 俺は真弓を確かめた。
 俺がたった今感じたものを、彼女自身がどう感じているのかは、その表情からはうかがい知ることができなかった。

 弓削小夜子が楽屋に顔を出すというのに合わせ、俺たちはその後に続いた。
 松下は花束まで用意していた。
 楽しそうに、松下が小夜子に向かって話しかけている。コンパや合同合評会などを通して、懇意になったのだろうと思った。
 急用ができて、故郷に帰ったというゆで玉子と一緒に、最初の予定通り、もしこのライブに来ていたら、俺はどうしていただろうと考える。今のように、姉の小夜子が真弓に会いに楽屋に行くのに、こんなふうについてきただろうか。
それとも姿も見せずに黙ってライブハウスを後にしただろうか。ゆで玉子ならば、何をしようよ、と俺に告げただろうか。
 完全なライブパフォーマンスであったのなら、楽屋に行くことに、今のような抵抗感は覚えなかったはずだ。だというのに、俺は真弓の楽屋に向かっている。
 そこでいったい俺は何をしたいのだろう。
 狭くて薄暗い通路を奥に向かう。
 楽屋から、壁を蹴るかのような音が届いてきた。その後で怒号が聞こえる。それに対して別の怒号が応える。
 小夜子が立ち止り、俺に視線を合わせてくる。目が、どうする、と訊いている。
「行きましょう」
 俺の言葉に小夜子はうなずくと、再び歩を進めた。
 ノックしてから小夜子はドアを開けた。
 厳しい目をして真弓が立っている。
 その視線の先には、ハードケースにベースギターを納めているバンドメンバーがいた。
 ケースをロックすると、ベーシストは立ち上がった。
「どこへ、行くんだよ」
 真弓が吠える。ベーシストは、真弓に冷たい、皮肉を込めたような視線を返し、
「真弓がどれだけ頑張ったって、プロになんかなれっこない。真弓には決定的なもんが足りない」
 そう一気にまくし立てると、ケースを持ち上げ、俺たちをかき分けるようにして楽屋を出て行った。
「バカ」真弓がパイプ椅子にドカッと座った。
「真弓。追いかけなくていいの? 紫乃ちゃんとは中学からずっと一緒だったのに、こんなところでけんかしたままでいいの?」
 小夜子が言うと、それでようやく俺たちが誰なのかに気付いたような表情を見せ、
「おねえちゃんが心配するようなことじゃない」
「妹だから心配してるんじゃない」
「おじいちゃんの言いつけを素直に聞いてるだけのおねえちゃんには、私のことはわかりっこない」
 真弓が睨みつける。俺はその視線の先、小夜子の顔を見た。
 怒っているようにも、悲しんでいるようにも見える。意識して感情がそのまま顔に表れないように我慢している。俺にはそんなふうに見えた。
 真弓の方から先に視線を外した。一瞬足元に視線は落ちた。けれどもすぐに顔を上げると、俺を見て、
「金、返せ、って言いにきたのかよ」
 と毒づいた。
「あんたには、金を返さなあかんような理由があるんか?」
 俺は意地悪く訊いてみた。
「あんた、あのとき、顔をゆがめただろ。気づいたんだろ、あれに」
「だからけんかして、メンバーを追い出したんか」
「追い出してはいない。もっと上を目指すために指摘しただけだ」
 ライブ中にベースのリズムが狂っていた。漫然と聴いていれば気がつかない程度のずれだったかもしれない。けれども、その世界にトリップしていた俺は、気がついた。もちろん演奏していた真弓には、はっきりわかったことだろう。
 それにこの前、大学のキャンパスで始めて会ったときに、いいベースが見つかったと言ってなかったか。
 俺は楽屋の隅で、スティックで遊んでいたドラマーに視線を向けた。俺の視線に気づいたドラマーは、さあ、ね、というふうに両手を広げて見せた。
 キーボードに視線を移す。たちまち視線が絡み合った。俺が視線を向ける前から、キーボードは俺に視線を向けていた。そんなふうに感じた。
「もちろん返金はいい。料金分のパフォーマンスは充分楽しませてもらった」
 俺の言葉に、出番だと思ったのか松下が、
「すごくかっこよかったですよ」
 と花束を差し出した。真弓は、一瞬戸惑ったふうに見えたが、顔から怒りの表情を消し、「ありがとう」と受け取った。
 その花束をキーボードに手渡すと、
「小栗、すまない。やっぱり私、行かなくちゃ。行ってくる。ギター、頼む」
 真弓がキーボードを小栗と呼んだ瞬間から、俺はキーボードの顔から視線を外せなくなった。
「いいよ、真弓。任せて」
 小栗。そしてその声。俺はさらに強くキーボードをみつめる。頭の中でステージ用に塗られた化粧を落としていく。
「おねえちゃん、ごめん。お茶はまた今度にして。やっぱり、私、行かなきゃ」
 真弓が楽屋を走り出た気配を背中で聞いた。
 小栗がやわらかく俺に微笑む。なつかしい笑顔だ。
「小栗。あの小栗純子なのか?」
「高遠君。やっぱり私を探し出してくれたんだね。でも、来るの、遅いよ」
 小栗純子。それは、高校生のとき、腕時計を交換し合った女の子だった。
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