たこ焼きラプソディー

銭屋龍一

文字の大きさ
上 下
51 / 55

たこ焼きラプソディー 51

しおりを挟む
 期末試験も終盤となり、徹夜も珍しくない日々が過ぎていった。
 となれば、まもなく春である。春と言えば、次期部長の発表が待っていた。
「ではこれから部長交代と次期部長の発表を行なう。新体制になっても、力を合わせて、サークルの発展に邁進されることを願う」
 桜木は部室に集まった部員に、一通りゆっくりと視線を向けていく。
 桜木の後ろ、窓の外は、広場に降り注ぐ光がまぶしい。
ゆで玉子はサポートの意味があるのか、きょうは桜木の右に、久保田とともに控えている。
 桜木に向かって左側のブルーシートの上には、毎度おなじみの佐藤たち三人が腰を下ろしている。俺は松下と、反対の右側の床に直に座っている。
 空気に緊張感があった。それを十分意識して桜木は、
「では発表する。次期部長は」そこで一度ためを作り、「佐藤」
「やりぃ」
 佐藤が嬉しそうな声を上げて立ち上がった。
 入学当初は、サークルの部長になりたいとは思っていなかった。ゆで玉子に、部長になってみせます、と告げたときも、しゃれだという気持ちの方が強かった。
 が、いつしか、部長になるとしたら、自分以外にはありえないと思い始めていた。
 だから、自分が選ばれなかったことに、想像していた以上にショックを受けていた。こういう結果もあるとは、あらかじめ自分に言い聞かせていたが、いざ本当にこんな結果となると、ショックを隠せないでいる。
 この一年間、同期の中では、一番サークル活動に真剣に取り組んできたという自負もある。だというのに、なぜ自分ではないのか? その思いが頭の中を占める。
「しっかり頼んだぞ」
 桜木の念押しに、
「はい。わかりました。微力ながら一生懸命努めさせていただきます」
 その返答に、満足そうに桜木はうなずく。
「副部長は、田中」
「おっ、きたか」
 田中も立ち上がり、先に指名を受けていた佐藤とハイタッチを交わした。
 俺は頭の中が真っ白になる。
「では、次に、部長交代を行なう」
 もうそれから後のことを、普段通りの精神状態で聞くことはできなかった。

 気がつくと、部室には、俺と桜木しか残っていなかった。
 桜木は、窓枠にもたれかかるようにして立っている。視線は俺に向いていた。表情からは、感情は読み取れない。けれども静かな目線であった。
 俺が、のろのろと立ち上がると、桜木が、
「ショックだったか」
 と訊いてきた。
「ここまでとは思わへんかったですね。なんか体に力がはいりませんわ」
 俺は素直に答えた。いまさら惚けても、まるわかりなのだから、悪あがきをして、より惨めにはなりたくなかった。
「久保田は、部長は君にと推したが、俺と梅上が反対した」
「今回の人事は、梅上さんの意向も入っていたのですか」
「それはそうだ。君たちを去年の春から、僕たちはずっと見てきたのだからね。誰を次期部長に選ぶかということは、同時に僕たちの能力も試される。だからうんと考えて、うんと悩んで、そして真剣に選んだ」
 そして、それは俺ではなかった。
「なぜ君を選ばなかったか、聞きたいかい」
「いえ、別に聞きたくありません。それをいまさら聞いたかて、どうにもならへんし」
「そうだな」桜木はうなずくと、「佐藤は部長になったら変わる。そして、部長になれなかったら、たぶん辞めると言い出しただろう。あいつはそういうやつだ」
「俺は部長になれへんでも、文研は辞めないって言いたいんすか」
「いや、辞めるかもしれないとは考えた。だが、高遠。君が目指しているものは、そんなもののずっと先にあると、俺と梅上は考えた。だから君を信じることにした」
 桜木は一拍間を取ってから、
「これが僕の言いたいことのすべてだ」
 俺は桜木に頭を下げると、部室を出た。

 サークル棟の薄暗い階段を下りていく。前の広場まで出ると、ゆで玉子と松下が待っていた。松下が、
「高遠。君に言っておかなきゃならないことがあるんだ」
 なんでもいいから、そんなことは、別のときにしてくれと思った。だから松下の脇を黙ってすり抜けようとした。すると松下は体を寄せて、その行く手を阻むと、
「同時代に生きる君とは、高遠のことじゃない。それは竹下のことだ」
 一言ずつ、はっきりとした口調で言った。
「それを今、俺に言うて、どないしょうっていうんすか」
 俺の心はさらに深く沈んでいく。
「勘違いさせてたら悪いからさ」
 松下は感情の読み取れない目で俺を見つめている。その瞳の色に寒気を覚えた。
「勘違いしてたかい?」
 それは勘違いもするだろう。あれだけ毎日手渡されて、それが別の人間に宛てられた手紙だと思え、という方が無理な話だ。
「わかりました」
 俺が松下をよけて、再び歩き出そうとすると、松下がまた行く手を阻み、
「僕の結婚式には竹下を呼ぶつもりだ。でも高遠がどうしても出たいというなら、カメラマンの役くらいなら振ってやってもいいぞ。どうする?」
 怒鳴り出したいのを我慢して、俺はジャージのポケットに手を入れた。ここで手でも出してしまったら、俺は一生自分を許せない。
「考えときますわ」
 ゆで玉子の視線に気づく。
 ゆで玉子は、ニコニコと笑っていた。
 その笑顔は、俺を、どん底にまで突き落とした。

 アパートの部屋に帰ると、すべてのカーテンを閉め、部屋の真ん中にへたり込んだ。
 何も考えたくなかった。
 世界のすべてが敵に回ったように思えた。
 遠くで鈴虫が鳴いている。
 しばらくすると、それは電話のベルの音だと気づいた。
 どれだけ時間が経ったのだろう。
 まだ部屋の真ん中に座り込んだままだった。
 放っておこうか、そう考えてもみたが、俺は立ち上がると廊下に出た。
 いつの間にか夕暮れになっていた。
 電話は女性からのものだった。このアパートの名を言う。それから、
「高遠さんはいらっしゃいますでしょうか」
 高遠、と言ったときの語感に覚えがあった。だがその相手は、この電話番号を知らないはずだ。それでも俺は、
「なんで真弓が電話かけてくんねん」
「なんだ、高遠かよ。そうならそうと、最初から名乗れよ」
「あいにく俺だけの電話じゃないものでね」
 そう言いながらも、俺は、救助船が現れたと思っていた。
「あしたとか、って、会えないかな」
「なんでや? またチケットを売りつける気か」
「そんなんじゃねぇよ。もういい」
 真弓は電話を切りそうな勢いであったので、俺はあわてて、
「わかった。どこで落ち合う? 大学か」
「ああ。じゃあ、明日の十一時にC館前でどうかな」
「かまへんで」
 俺たちは、待ち合わせの約束を交わして、電話を切った。
 真弓はいったいどんな用があるというのであろうか。これで真弓からも、拒絶されるような言葉が出ると、俺はもう、まともでいられる自信がない。
 頼むから、俺を助けてくれ。そう祈るしかなかった。

 しかしながら翌日に聞かされた真弓の話は最悪なものであった。
「なんやて。もう一回言うてみい」
 俺は絶望的な気分から逃れたくて、腹立ちを隠さなかった。周りの学生たちが俺と真弓に視線を向けていく。
「だから、編入するんだよ。春からは黄金坂にいく。じじいが体調、壊したんだ、こうするしかねぇじゃねぇか」
「そんなん。結局、金に流されただけやないか。音楽はどうすんねん。それもみんな放り出すんか。プロになる夢はどうすんねん。純子たちはどうしたらええんや」
 俺は真弓を責め続ける言葉を吐いている。けれども、心の中ではまったく別のことを思っていた。ここで真弓にまで、突き放されると、俺は、どこまで壊れてしまうかわからない。だから、そうならないように、ずっと側にいて欲しい。そんなふうに、だ。
 去って行ったオコゼ狸の顔が浮かぶ。サークルの部長を落選したことを伝える桜木の顔が浮かぶ。同時代に生きる君は、おまえじゃないと告げる松下の顔が浮かぶ。最後にそんな苦しみの中にいる俺を、ニコニコと笑っているゆで玉子の顔が浮かんだ。
「プロになれなきゃ、何の意味もねえんだよ。お嬢様のおままごとは、この際、きっぱりと止めるんだ」
「アホか。どいつもこいつもアホや。世界一、いや、宇宙一のアホばっかや」
 俺は叫んだ。今にも青い空が割れて、いく千もの欠片が降ってくるように思えた。
 けれどもそんなことはけして起こらず、本格的な春の訪れを予感させる柔らかな風が、穏やかに吹き渡っていくばかりである。
「とにかく、伝えたから。高遠に、ちゃんと伝えたからな」
 真弓は叫び返すような調子でそう言うと、もう振り返りもせず駆け足で去って行った。
 しばらく呆然として、真弓が去っていった校門の方をみつめていた。
 みんないなくなっちまう。みんな、やっぱり俺の前から消えていく。
 おふくろの予言がよみがえる。
 俺に親友と呼べる友人ができたのは、中学二年のときだった。それがうれしくて、その日のうちにその事実をおふくろに告げた。
「どのくらい保つか楽しみだねぇ。でも、おまえの前から、みんな最後には消えていくよ。おまえはそういう子だからさ」
 その友人とは一年間でつきあいが終わった。高校入試が迫っていた。俺は越境入学で、その友人だった男がいない、知り人のひとりもいない高校に進むことを決意した。
しおりを挟む

処理中です...