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コンセントにも都合というものがある 18

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 蝕蛾のニュースは最近途絶えていた。

 かすみちゃんにしろ、春樹君にしろ、己が思うままに筆をふるっている。もちろん言葉のひとつひとつに神経を通わせ、選びに選らんだ言葉で文章を紡いではいるのだろうけれど、絶対的なタブーは彼らにはない。

 わたしにもそんな時代があった。
 わたしが書きものを意識し始めたのは小学校でのある出来事からだ。
 小学校の五年生、十歳のときである。国語の授業で作文を書く機会があって、夏祭りの神輿のことを書いた。これが担任教師から大絶賛された。クラスメートにも読んであげなさいということで、教室で朗読すると、これまた多くの仲間から称賛された。
 それまで他人から認められるような経験がまったくなかったわたしは、それが生まれてからもっともうれしい出来事になった。
 担任教師も調子にのったものか「君は将来きっと文章を書く仕事に就く。だからそれに必要な文字の練習をもっとやった方がいい」と宣言した。
 わたしは普通ではちょっと考えられないくらい字が下手であった。
 担任のその宣言以降、クラスメートが習字をしている時間に、担任教師の指導でわたしは書き方のお稽古をやるようになった。ひらがな文字が点線で書いてあり、それを鉛筆でなぞって文字を完成させるドリルである。
 当時、そんな学習をするのは小学一年生であった。いくぶんの恥ずかしさはあったものの、それよりもその必要性を指摘されている誇らしさの方が勝っていて、わたしは真面目にその書き方のお稽古をやり続けた。

 それ以後、何かを書くということは常にわたしの中にあった。わたしはそろりそろりと己の意味を確かめるかのように習作を書き続けた。
 そんな風にして、しかし小説を書く以外はごく普通の学生として、わたしは成長した。

 そんなわたしは、大学の最終学年となってもまだ浮世離れしていた。社会人となって立っていくということを理解していなかった。ばかりか、真剣に考えてもいなかった。卒業が一週間後となり、さすがに職を決めた。
 進学で郷里から出てきていた大阪に残ることにした。けれども社会を無意識なままでなめきっていたわたしに、まっとうな会社勤めができるはずもなかった。半年でケツを割り、逃げるように故郷に戻った。
 戻ってみると、ほんの一週間ほどで、わたしのような人間は、生きていくためには必死になって働かなくてはならないことをようやく理解した。

 地元の小さな肥料製作会社に仕事をみつけた。皮肉なもので、そうなると同時に執筆欲が異常なほどに強まった。とにかく小説を書きたいと思った。書いてどうこうしようということではない。純粋に小説自体が書きたかった。

 故郷に戻った当初は、飲み会やディスコクラブなど、旧友からの誘いもいくらかあった。けれどもわたしは、友人か小説かを選ばなくてはならない局面になると、常に小説を選び続けた。
 もともと偏屈なわたしに友人は多くなかった。だから友人が一人もいなくなるのにそれほどの期間は必要ではなかった。
 ただ小説を書いた。どこかに投稿してみようということは思いつきもしなかった。ただただ小説が書きたかった。書くことがすべてであった。

 そのようにして過ごしていると、ひとつの光景が度々わたしの頭の中に浮かぶようになった。
 三十歳になったわたしが、出版された己の本を手に持って微笑んでいる。何かの授賞式のようであった。
 書いた作品をどこかに投稿してみようということは思いつきもしないくせに、わたしは三十歳で己の小説を書いて世に出るのだと、おかしなことに確信していた。
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