裏十六国記

銭屋龍一

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漆黒の大地、火の定め 5

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「この存在を知るものはそれほど多くはおりません。ただ伝説には、楽遥山の山頂の楽園には仙の住む祠に通じる幻の道が続いている、とあります。その伝説が言うところの幻の道がこの空間なのかは定かではありませんが、最初にここを見つけ出した者はここで確かに仙人が奏でたと思われる笛の音を聞いたといいます。と言っても、それもまた伝説のようなものなのですが・・・・・・。なんせ、五千年は前からの話と言いますからね」
「そんな伝説が示しているような場所をよく知っていましたね。李斎がみつけたのですか?」
「いえ。私ではありません」李斎は優しく微笑んだ。「その話はおいおいするとして、まずは騎獣鳥たちを休ませてやりましょう。もちろん我々も休息を。どうぞこちらへ」
 李斎はしだの綱と垂れた糸の束の特に太いものの方にゆっくりと進んだ。近づいてみると、それはまるでこの空洞を支えている柱ででもあるかのように見える。
「ゆっくりと下へ」
 李斎は言うと、自らもゆっくりと下降していく。冠鬼麟は下降していく先に視線を向けた。柱のように見えるしだと緑の糸の結びつきの根元辺りには騎獣鳥に乗ったままゆうに着陸できる大きさのある蓮の葉に似たお盆のような形の植物がいくつかある。
 そのひとつに李斎は騎獣鳥ごと乗った。わずかに揺らいだが、すぐに元に戻った。冠鬼麟も李斎が乗った隣の葉に同じように降り立った。やはりわずかに揺らぎを感じる。それは水面に置かれた小船に乗る感覚に近しい。
「さぁ、騎獣鳥たちを休ませてやりましょう」
 李斎はそう言うと、軽く飛んで騎獣鳥たちが乗っていない葉に移った。冠鬼麟もそれをまねた。李斎の移った葉に飛び移る。二人が離れるのを待っていたかのように二羽の騎獣鳥は首を伸ばし、葉のふちを舐め始めた。いかにも渇きに渇いているのだろう。一心に舐め続けている。
「李斎。あれは?」
 冠鬼麟は騎獣鳥たちのしぐさを指差して訊いた。
「水を飲んでいるのですよ。王泉もよろしければどうぞ」
「水? ですか」
「騎獣鳥たちを真似て御覧なさい」
 冠鬼麟は恐る恐る葉のふちに口を近づける。そして軽く吸い上げてみた。口のなかにまさしく水が流れ込んできた。うまい。とてつもなくうまい。
 それもそうであろう。水袋に入れた水を持ってここまで旅して来たといっても、いつどこで新たな水が手に入るかわからないのだ。おのずと加減しながら水袋の中の水を飲んできた。受け継がれた技術で作られた水袋といえども、水の鮮度をずっと保てるわけでもない。
 それが今はどうだ。新鮮な湧き水のような味のする水を、それも飲む量を気にすることもなく飲めるのである。これほどの贅沢があろうか。
 自らが思っていた以上に渇きに飢えていたようだ。冠鬼麟は何度も喉を鳴らして水を飲んだ。すっかり堪能するまで飲むと、冠鬼麟はやっと我に返った。
「ああ、生き返るってこんな感じを言うのでしょうか?」
 冠鬼麟はいくぶんはにかみながら李斎に言った。
「私はまだ死んだことがこざいませんので、生き返る感じがどんなものなのかわかりかねます」
 李斎はいたずらっぽい光を瞳に浮かべて、笑みながら応えた。
「もう李斎。僕が子供だからって、そんな風にからかって面白い?」
「まぁ、面白いと言えば面白いですね。ただ王泉のような高貴な方にお返しする言葉としてはかなり度を越していますが」
 そう言いながらも、少しも悪びれた風もなく、李斎は笑みを浮かべたままである。
「李斎は飲まないの?」
「これはこれは。王泉は隣でかぶかぶと私も飲んでいたのにお気づきではなかったのですか?」
「えっ」
 心地よい笑い声が響いた。
「はい。私も生き返ったような心持でございますとも」
「李斎ったら」
 冠鬼麟はそう言いながら真っ黒な髪を指で梳いた。短い。あまりにも短い。泰麒の黒髪は本来鬣なのである。天鬼麟の鬣。そのように思ってみると、冠鬼麟のそれは痛ましいほど短い。それでこの二人での旅の本来の目的を改めて思い出した。
「これは失礼いたしました。今はこのようにふざけているような時ではございませんでしたね」
 そう言うと、李斎は深々と頭を垂れた。
「そんな。頭を下げるなんて止めてください。確かに僕たちは戴顕林国を救うためにこの国に帰ってきた。戴顕林国を平和な国にするために、行方知れずになられた戴顕林国王彩関親王様をお探ししようとしている。ですがだからと言って、我々の旅自体を悲壮なものにしたとしても、それは何の役にも立ちません。笑えるときは笑いましょう。それでこそ力が沸いてくるというものです」
 李斎は改めて冠鬼麟の顔をまじまじとみた。やはり幼いといえども、何年間も蓬莱に流されていたとしても、冠鬼麟はやはり戴顕林国の天鬼麟なのだ。今はその力を痩せさせ、存在感自体さえも薄れているように感じると言っても、その根本はやはり揺るぎがないのだ。
「わかりました。私もそう努めるといたしましょう。さぁ、では。休憩の気慰みに、この場所についてのお話をそろそろ?」
「ああ、そうでした。ぜひ、李斎」
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