裏十六国記

銭屋龍一

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漆黒の大地、火の定め 24

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 蓬莱、日本に、虚夜によって流れていっていた冠鬼麟は、自分が何者であるのか忘れてしまっていた。しかも獣である部分の証である角も失っていた。その地で穢濁を盛られ、血に染まり、少しずつ体に毒が溜まり、ゆっくりと死に向かっていたのだ。
 己が何者であるのか分らなくなった者は、それがたとえ天鬼麟であっても、こちら側に戻ることはできない。
 それでも何とかこちら側へ帰還させようとして、遠野岩国が天鬼麟の六鬼麟王泉とともに陽翔高は騎獣代わりにその六太鬼麟王泉の使令に乗って蓬山に赴き、碧優犀君にその方法を尋ねたのであった。二度目に具体的な方法を玉葉に尋ねに行ったときは、李斎も連れて、三人での訪問であった。
 もとより蓬山のある貴紳海には、本来なら、四つある門のひとつが年に一度開くチャンスを待って入るしかない。だがこのときはそのような悠長なことをしている場合ではなかった。だから雲海の上を騎獣鳥に乗り飛行して訪れたのである。
 そのようにして冠鬼麟をこちら側に戻す方法を聞きだし、それによってこちら側に連れ帰った。だがあまりにも冠鬼麟は病んでいた。それは本来のあるべき姿があまりにも損なわれていて、手の打ちようがなかった。血と怨詛。穢瘁である。いやそれは冠鬼麟自身に対する怨詛であった。
 それで再び蓬山に、救う方法をと、冠鬼麟自身を連れて訪ねたのである。ここまでになった天鬼麟を救えるものがいるとしたら、それは西王母しかいないと玉葉は言い、そのまま西王母に委ねたのであった。西王母は使令を預かると言い、穢れを清めてくれた。だがそれ以上のことは今はしないとも。
 それはいったい何であったのであろうか。あの時、李斎が言ったように、天に神がおわすとして、なぜその神々たちは苦しみに喘ぐ民をお救いにならぬのであろうか。あれほど生きていくことに難儀を覚えながらも、毎日廟に通い、祈りを捧げる民を、なぜ神々は捨て置かれるのであろうか。天には天の理があることはわかる。だがそれは何のための理なのであろうか。
 陽翔高はわずかな者しかしらぬ蓬山での出来事を思い出していた。
「冠鬼麟殿は指令を奪われた」
「使令を奪われたってどういうこと? 冠鬼麟様は何者かに襲われたの?」
 陽翔高の言葉に応えてきたのは鈴であった。
「我らには一生分らぬことであろう。天鬼麟は獣としてのそれと、人としてのそれを、併せ持つ者。そのいずれかが損なわれても、それはもう天鬼麟とは呼べぬのかもしれない。そのような定めを背負いしも、一国の未来を委ねられ、死ぬまで民の平和と安寧を祈らずにはおられぬ者。ある意味、哀れな生き物であるとも言える」
 鈴の問いには直接答えず、陽翔高は冠鬼麟のことを思ってそんな風なことを口にした。

「それは確かに麒麟は国にとって大きな役割をするものであるし、私たちとは住む世界もその高貴さも違うけれど、でもなんだが一番私たちに近い者である気がするの。であるのに、私たちは私たちにとって大切な何かを奪う者がいたら、命も顧みず、その者を倒さんと武器を手にするけど、麒麟はそれができない。それって、私たちの中にも獣としてのそれと人としてのそれがあるってことじゃないのかしら。麒麟とは違う形でだけど。そう思うと、麒麟の哀れさもいくらか分るような気がする。あくまで気がするだけで、本当に分っているわけではないけど」
 いつもの鈴らしくないもの言いであった。けれどもそれだけ思うところがあったということなのであろう。
「陽子。あなた、私たちに何か隠し事してるのね。だからさっきから分るような、分らないようなことを繰り返し言うのね。何? 何を隠しているの? 話して御覧なさいよ」
 さすがに祥瓊はするどい。ずばりと核心を突いてきた。
 陽子もこうして訊かれてみると、それこそを待っていたかのように思えた。黙っていなければならないことである。己の心にだけ秘めておかねばならないことである。そうは思う。けれどもそれをひとり抱えておくには重たすぎた。だから話してしまおうと思った。
「祥瓊と鈴は李斎将軍がこの金波宮で養生していたときお世話していたから、いろいろなことを耳にしていることと思う。もちろんすべてを知っているわけではないと思うけれど、他の誰かよりはずっと知っていると思う。それに私たちは主従であると同時に友達だ。だから私は話そうと思う。私を苦しめているもののことを。私がおこなったことが本当にそれでよかったのかを。私はみすみす死なすようなものだと承知で二人を送り出したのだ」
 陽翔高は吐き捨てるように言った。
「それは謀反に合い、偽朝が覇権を取っているような国なんだもの。危険は承知の上のことでしょう」
 祥瓊は即座にそう応じた。
「それは分っている。それも冠鬼麟王泉が本来のお力を持たれたままで、李斎将軍が今も武人として立つことができるものであれば、こんなには悩まない。だが私が送り出したふたりにはそのいずれもなかったのだ」
「確かに李斎殿は陽翔高に助けを求めに来たとき、妖魔などを切り伏せながらの旅であったため、その利き腕をなくされてしまっていた。それは武人としては大きな損失であったことでしょう。しかし、それを成されたことで、戴顕林国の天鬼麟である冠鬼麟王泉を救い出されたのではありませんか。失ったものとは比べられぬにしても、それはもっとも李斎殿が望まれていたこと。それを陽翔高は親身になって助けた。何せこの十六国が始めてそれぞれに助け合ってひとつのことを成さんとしたのよ。そのようなことは今だかつてなかったこと。確かに参加していただけなかった二国はあったにしても、残る天鬼麟のいる国は協力してくださったではありませんか。それがどれだけこの世界において大きな一歩であったか。そのことを思ったほうがいいのじゃなくって」
 さすがに祥瓊はかつて王族のひとりであったから、陽翔高の成したことの大きさがよくわかっている。
 しかも祥瓊の父は王の座にあり、正しき道を歩まんとして、逆に民たちから恨まれる政へと突き進んで行ったという経緯もあり、国に謀反や粛清が起こる仕組みも十分過ぎるほど分っている。
 だからその言は上っ面を撫でただけのものではなく、心底から思っているということが十分汲み取れる重さのあるものであった。
 だがしかし、だからこそ、陽翔高はさらに辛さを感じてしまう。
「私が何を成したかということは、それを受け取ったと思う者が判ずるべきもの。私が私自身で何かを成したのだと胸を張るようなものではない。
 これから季節は冬に向かう。ここ慶地元国でも民は寒さに震えることであろう。ならば戴顕林国の民はいかほどであろうか。
 偽朝、いや偽王の圧政は今も止んではいまい。いやさらに過酷なものになっているのではないだろうか。そうであるなら国は荒れ、いたるところに妖魔は跋扈しておろう。
 それがなくとも戴顕林国は酷寒の地である。民たちはおそらく蓄えもなく、この冬をどう乗り切ろうかとほとんど絶望の中で自らにできるささやかな仕度をしていることであろう。
 それをわずかでも私は助けてやれぬ。それどころか私は我が国の民にすら十分なことがしてやれない非力な王だ。
 もっと言えば、戴顕林国国王彩関親王殿は、わずか半年の間にそんな民たちのために、愛慈を残された。それは初勅を発布するよりも先に行われたことなのだ。王宮の中の宮木に願い、絶白花という植物を天から得られたのだ。もともとは貴神海の泰山にしか育たぬそれを戴顕林国でも育つものにされたのだ。
 それは春から秋までの長い間、季節を問わず白い花をつけ、花が落ちると実を結ぶ。その実を乾燥させれば炭の代わりになる。それがかつかつの生活の民たちの冬を支えているのだ。
 彩関親王殿が姿を消されて三年もしない内に、国中の土手で絶白花の白い花が見えぬところはないという有様になったという。民たちは愛膳城におられた尊い方が恵んでくださった慈しみだと、・・・・・・だからそれを愛慈と呼ぶのだと。
 そのようなものこそ、成されたものと呼ぶべきものではなかろうか。私のようにみすみす死なすだけのような旅に、故国を思う、力をなくした天鬼麟と、隻腕となった女将軍を、己の心の慰みだけのために旅券と路銀を渡し、ここから出て行かせるなど、恥じるしかないことではないのだろうか」
「なぜそのように自らを貶め、苦しめるようなことばかりを考えるの。王といえども様々な王があるでしょ。確かに彩関親王様は愛慈を残され、民たちが冬を生き延びる術をお与えなされた。しかし、その彩関親王様は今、戴顕林国の玉座にお座りではない。国の玉座に天啓を得られた王がいらっしゃるのといらっしゃらないのでは雲泥の差。様々なことがあってのことでしょうが、彩関親王様はそうすることができずにいらっしゃる。それは民たちにとってとても不幸なことでしょ。物事を、ただ一方向からだけ見るのではなく、多方向から見るのがいいのじゃなくって」
 陽翔高のことを思って言ってくれる祥瓊の言葉はやはり嬉しい。だがそれをそのまま素直に受け取れないのが今の陽翔高である。
「冠鬼麟殿は、もはや天鬼麟とは呼べないものであったのかも知れぬ。角も使令もなくし、獣形は取れず、ただの人となったと言ってもよい。そんな冠鬼麟殿のことを分っていながら私は・・・・・・」
「それでいいのでは。戴顕林国のことはやはり戴顕林国の民が考えること。何かしてやれると思うは、もしかすると不遜なのかも」
「不遜。不遜なのであろうか。だが無事にとは祈らずにはいられないな」
「それは私とて同じこと。おふたりのご無事をずっと祈っているわ」
「私も祈っています」
 陽翔高と祥瓊とのやりとりに口を挟めなかった鈴がようやくそれを口にした。
 そうか。もう送り出した後なのだ。何を思おうが、己の至らなさを曝け出そうが、それで結果が変わるというものでもない。そんなものは単なる自己憐憫、自己満足でしかないのだ。己にできることは、今は祈ることのみ。陽翔高はようやくそこに落ち着いた。だからこれまでよりも更に強くふたりの無事を祈った。
 遠く戴顕林国の首都ではその冬最初の雪が降り始めていた。
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