裏十六国記

銭屋龍一

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漆黒の大地、火の定め 59

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 柏潜が声をかけたからというより、いきなり始まった小競り合いをとりあえず終わらせるきっかけとして各人受け取ったようであった。
 巌直と李斎はいつでも相手に襲いかかれる距離を保って睨みあっている。蕪水もそんな二人と等間隔の距離に立ち、何かことあれば参戦する構えである。
 柏潜は冠鬼麟の顔を覗き込んだ。そこには怯えも厭うような表情も浮かんでない。それを確認すると、柏潜は顔の表情を緩めた。
「天鬼麟は仁なるが性。争いごとが目の前であってはかないますまい。ひとつ間違えれば血も流れておったかも。もうしわけありませんな、冠鬼麟様」
「柏潜殿、気にしていただく必要はありません。僕がどんなにがんばっても、本来持っている性によって行動なり思考なりが規制されるのなら、所詮、僕はそのような力無き者なのです。今は目の前で争いがあったようですが、僕は何も感じなかった。ただ不思議なものを見るという気持ちでした。ですから気にしていただくことはありません」
 冠鬼麟ははっきりした口調で応えた。
「ふん。それこそおぬしができそこないの証拠よ。そんなことでどうして悪魔となった阿選を討つ。戦いのたびに震え、血を見るたびに倒れておったのでは何もできまい。どうだ。反論することがあるか?」
 巌直が冠鬼麟に向かって言った。
「まったく他人の話を少しも聞かない人なのですね。同じことをもう一度言わせるおつもりですか? それにはもう僕は答えたはずです」
 泰麒は凛とした声と表情で答えた
「ふふふ。巌直様は冠鬼麟様を怒らしてみようとなされておるのかな? それはもうその配下につくというお返事か?」
 蕪水が揚げ足を取るように言った。
「おまえこそ、そもそも武の者でもあるまい。同じ臆病者同士仲良くやるがよいわ」
「僕に戦いに向かない性があることは否定しません。しかし、僕は臆病者と呼ばれる筋合いはありません。謝っていただきたいと思います」
 冠鬼麟はそれまでの冠鬼麟では考えられない激しさで言葉を挟んだ。
「思います、だと。俺に謝らせたかったら、力ずくでやってみるがよい? はいそうでございますか、などと俺が言う筈もあるまい」
「これは巌直殿のほうこそ卑怯者の上に臆病者とのご返事ですか。ならばそう承りますが」
 冠鬼麟は言葉を続ける。
「言わせておけば、戴顕林国の天鬼麟と言えども俺は許さぬぞ」
 言葉と同時に巌直が冠鬼麟との間合いを詰めようとした。しかし李斎が牽制して、その場からうかつに動くことができない。
「やはりまずはうぬを倒さんと先に進まぬか」
 巌直は忌々しそうに言葉を吐き捨てた。
「巌直殿。李斎を切って、その後僕を切ったとして、あなたには何が残るのですか?」
 冠鬼麟が静かな調子で訊いた。
「何が残る? そんなことなど知らぬわ。我らは真の成すべき者をただ待っているだけ。その者が我らの力を引き出してくれよう。さすれば、我らの取るべき道もおのずと分るというもの」
「なるほど。つまり僕が巌直殿にとって、成すべき者なのかどうかを知りたいということなのですね?」
「知るも何も、天鬼麟に王がわかるように、我らにはその者が自然と分ると柏潜様は言われた。そして柏潜様はおまえをその成すべき者として扱っておられる。だが、我にはおまえがそうであると分らぬ。分らぬなら知ろうとする。不思議でも何でもあるまい」
「僕が成すべき者であるのかどうかは僕にもわかりません。しかしどうやら僕が戴顕林国の天鬼麟であることは間違いないようです。その天鬼麟として、この国に対する義務を果たそうと僕は思っています。僕に四神が必要だとは思いません。けれども四神が僕とともに国をあるべき姿に戻そうと働いてくれるのなら、僕は四神とともに戦おうと思います。僕にとってはただそれだけのことです」
「ほう。それぞれの方位の守護神である四神などいらぬというのだな」
「僕には方位の守護神である者が何を天から託されているのかわかりません。ですから、僕はその守護神がともに行く者であって欲しいと望んでいるわけではありません。そう申し上げているだけです」
「ならばなぜ朱雀の守り神と青龍の守り神を連れている?」
「この者たちがその守り神だから連れているのではなく、僕にとって志を同じくする者たちだと思うから一緒にいるだけです」
「志を同じくする、か。おまえたちの志とはなんだ?」
 巌直は、激していた感情は今は消え、ただ素直にものを問うという感じで訊いた。
「戴顕林国国王彩関親王様を救い出し、偽王である阿選を討ち、戴顕林国の民に平和な日々を取り戻させること。言葉にすればそのようなところでしょうか」
 冠鬼麟はゆっくりと考えながら言葉をつむいだ。
「戴顕林国の民に平和な日々を取り戻してやるのに、彩関親王を助けたり、阿選を討ったりすることが必要なのか?」
 巌直は、皮肉とかではなく、心からそう訊かざるを得ないという調子で改めて訊いた。
 冠鬼麟は唇を噛んで黙り込んだ。何かを深く考えているようであった。誰も声をかけたり、動き出そうとはしない。かなり経ってからようやく冠鬼麟は口を開いた。
「これもやはり次なるものを持たず、山から民を引き連れて帰ったのと同じことなのでしょうか?」
 冠鬼麟の問いに、巌直と蕪水は柏潜の顔を改めて見やった。
「同じことじゃ、とワシが言うたらどうするつもりじゃ?」
 声を返してきたのは柏潜であった。
「今度はこの街に住まう人々皆を危険な目にあわせることになったのですね。僕はいつもちゃんとした考えを持たないで何でもしてしまう。その結果、多くの人々に迷惑をかけてしまう。自分の愚かさを呪います」
 冠鬼麟の声は暗く陰気なものであった。
「高里よ。いや冠鬼麟殿。あなたが己を呪ったとして、それで何になるのかの。この街の民が前面に出ざるを得なくなったのは確かだ。だがその民たちはあなたに何を贈った。それを考えてみられるがよい」
「歓声と期待に満ちた目で出迎えてもらいました」
「ならば、ここにきて、まだ泣き言をいうおつもりか。その民たちを裏切ると言われるか」
「そのようなことが許されるはずもありませんし、そうするつもりもありません」
「ならばそなたが取るべき道は自ずと見えるのではないのか?」
「しかし、最初に柏潜殿が子供を凍った池に落とされた答えをまだ自分がみつけてないことに、今、気がつきました」
「なんと。まだそのようなところを彷徨うておいでか。本当にこの街の者すべてを死に至らしめるおつもりか」
 柏潜は厳しい目で冠鬼麟をみつめた。
 冠鬼麟はふたたび唇を噛み締め、その柏潜の顔を真っ直ぐにみつめた。
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