白鷹水滸伝

銭屋龍一

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2 双燕 1

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 水が地中に潜り、伏流水となったものが思いもよらない遠方の地で地中の岩盤にぶつかって、地上に湧き上がっている場所もある。
 緑ある地は、そのような水の恵みのある場所に限られていた。そしてまた、人々が生きてゆけるのもそのような土地だけである。
 今や、中原の秩序は乱れ、多くの土地は荒廃し、その中でかろうじて残る緑ある地に、巷の噂では百国とも二百国とも言われる国々が乱立している。
 そのような中にあって、馬国は特別の存在感を示していた。
 馬国は、ある意味奇形の国である。国の権力も中心も大きくふたつに分かれていた。ひとつは「マ」の総本山とされている龍谷山晨鶏寺とその末寺を含めた千七百に及ぶ寺院勢力に、そしてもうひとつが「マ」以前から続いている王族を中心とする勢力に、である。不思議なことにこのふたつはこれまでぶつかり合うこともなく、共存して国の中にあった。
 だが、そのふたつの勢力のバランスが崩れた。
 隣国である烈が急速に勢力を強め、馬国に圧力をかけてきたからである。
 烈にも「マ」の信者は大勢いた。よってその教えによって烈の圧力を弱める活動をするべきだという派と、そのようなものでは抗し切れない、こちらも王を中心にした武力によって対抗するべしという派に割れた。
 列の圧力は強まるばかりで、対抗策を悠長に議論している間もなかった。
 そして、それが不幸の始まりであった。

 当時の烈の西の国境がそのまま馬国の東の国境であった。北はともに崑崙山脈にふさがれた形であり、南部は広大な中原へと開かれているが、河川もなく、乾いた大地があるばかりである。烈の七代当主双燕が非凡な才を持ち合せており、それまで何かと内戦のあった国内を落ちつかせ、その武の矛先を国の外に求めた。
 東側には崑崙山脈の裾野に沿うように楠、寧、麓と三つの国があったが、それぞれにけん制し合い、日頃からそれぞれの軍隊の鍛錬を怠っていなかった。双燕としては、三つの国が連合しているより抗し易しと見ていたが、それでも万が一、三国と一度に対峙することになっても対応できるよう準備を進めていた。
 攻め入る口実となる大義名分など腐るほど作ってやれるとも思っていたが、開戦した後の背後が気になる。背後とは、そのまま馬国のことである。
 馬国は中原にその名を知られ、特に「マ」という剣でも弓でも抗しきれない教義という武器を持っていると思っていた。自分から進んでは攻めてはこないだろうが、「マ」の教義を受け入れている国から救援の要請があれば動く可能性があると思えた。
 だがここからが双燕の非凡さの所以である。馬国を攻める姿勢を見せるべしとした。馬国は「マ」の教えがあることから、中原では一目置かれた存在である。その国に対しても何の遠慮も恐れも抱かず攻め入るということは、中原すべてに宣戦布告をするようなものであった。三国に向かって進軍できるよう国境沿いの砦を整備しながら、その間に馬国に圧力をかける。
 双燕の策は見事にはまった。それまで平和の中にあった馬国の軍のひとつが、経験不足から判断を誤り、国境上で烈の軍と戦闘となったのである。
 戦闘自体はあっけなく終わった。常に本当の戦いを想定して訓練し、内戦も含め実際の戦闘経験がある烈の軍隊と、規模こそ大きいものの、実際の戦闘経験のない馬国の軍隊とでは比べるべくもなかった。せめて馬国の軍の将だけでも才があればよかったのだが、判断を誤った軍が乱れるにまかせ、立て直すことも出来ない有様である。
 そしてここでまた双燕の策略である。
 局地的な戦闘にあっさり勝利を収めた己の軍隊をそのまま進軍させることなく、逆に自国に二十里程度後退させたのである。と同時に、それ以外の国境沿いの軍をそれまでより強く馬国に圧力をかけさせた。外からみれば、戦を仕掛けたのは馬国の軍の方であり、それを防衛した烈の軍は圧倒的に強かったことを知らしめたと同じであった。
 双燕は中原での評価が、ほぼそう下る勢いを見せはじめても、馬国に進軍することを抑えていた。何しろ目的は馬国を滅ぼすことではなく、国の東側に広がる楠、寧、麓を初めとする中原の諸国を手に入れることである。その戦いの最中に背後から馬国が自国に攻め入らなければそれでよいのである。そして双燕には、馬国は侮れない力を持つ国だという正しい認識があった。
 一方馬国の国内では様々な思いが交錯していた。
「マ」とは単に葬儀などを司るものではなく、生きてある今に力点がある教えである。仏の中にも、もっぱら破戒を行う仏も含まれていた。仏の世界を図式化した曼荼羅の中心付近に、力をもって折伏する明王部の仏たちが居並んでいることからもその教えの強さが分かる。さらに、「マ」の僧侶たちは、自分の左胸、心臓あたりに卍を付けている。相手に向かっている卍が、表卍である。それの意味は、慈愛と優しさ。つまり相対する相手には愛と優しさを持って接するとの意思表示である。だが胸に付けた卍を己側から見れば、それは逆さまの裏卍となる。それの意味は力と忍耐。つまり他人に愛と優しさで接するには、己を強く忍耐強いものとしなければ叶わないという教義そのものを示していた。
 そのような「マ」の教えの総本山たる馬国が、隣接するたった一国からの圧力で屈するわけにはいかなかった。
 戦いも厭わずという教義の「マ」であれば、その寺々には戦いを主な職務とする僧兵が少なからずいた。国の危機とあって、その僧兵たちの動きも大きくなりつつあった。
 だがその動きをそれ以上大きくさせてはならぬ事情が馬国の王の側にはあった。二つの大きな勢力が自国にあっても、これまでは共存共栄を貫いてこられた。がしかし、それは国が平和であったからに他ならない。水面下で力の押し合いが続いていたが、頃合いとみて放った双燕の次の策略によって、馬国の国史最大の悲劇が起こったのである。
 馬国は中原の学問の中心地であることから、国外から勉学のために入国する者も大勢いた。それはこの有事においても変わらず続いていた。それはつまり、双燕にしてみれば間者を何人でも易々と馬国の内深く送り込めることを意味していた。
 内部に放った間者から、僧兵と王の軍が揃い立って国境付近に終結しつつあるとの報が双燕の元に届いた。折りしも、本当の意味で侵攻すべしと思う三国に相対する砦の整備もやり終えたところであった。
 鬨を得たり。
 双燕は、砦を守る最低限の兵を残し、残る全軍に、ただちに馬国との国境に集結せよと号令をだした。さらにその動きを隠密裏に行うのではなく、逆に誇張するくらいの派手さで行えとも命じた。
 烈の全軍が馬国との国境に向かって進軍を始めたという報は、その日の昼を待たずに馬国国内に届いた。
 日和見をかこって座して待てば死。ならば打って出て活路を見出すべし。
 最初の戦闘で叩き伏せられたためか、消極的な守りの陣形を取るばかりであった王軍の諸将も、ようやく腹をくくった。大掛かりな進軍を始めた敵の援軍が到着する前にと、敵の最前線に向かって進攻したのである。
 今度の戦闘は熾烈を極めているかに見えた。
 大規模な援軍が到着する前に雌雄を決したい馬国軍は執拗に攻めたてた。烈の軍はその攻撃を一応は受けるものの、応じては引き、また応じるという動きを繰り返していた。
 鳥にでもなって戦場を俯瞰すれば、烈軍の思惑はすぐに知れた。馬国軍をなるべく深く自国領に引き入れてから、鶴翼の陣に変化して敵軍を包み込み殲滅する。至極明確な作戦によって最前線の烈軍は動いていた。
 がしかし、そのような作戦が成功するには、己の思うままに兵を操り、陣形を変化させることができる将としての飛びぬけた器と才覚を持った人物が必要である。烈に傑出した人物が多いのか、まさに烈軍は陣形となったものが、すでにそのようなひとつの生き物でもあるかのように水が流れるこどく自然に変化し続けていた。
 異変に最初に気づいたのは馬国の僧兵たちであった。
 彼らは、馬国の王軍の進撃と呼応するように動いてはいたが、その指揮下に入ったわけではない。さらに、通常の陣形とは違う独自の兵法に基づく集団として展開していた。
 僧兵たちの判断は早かった。さらに行動も。引く。そう決めると自国に向かって退き始めた。
 まるでそれが合図でもあったかのように、烈軍は馬国軍を囲い込むように展開し、総攻撃に転じた。
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