キボウのカタチ

銭屋龍一

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キボウのカタチ 9

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 梅はすぐにでもその場を立ち去りたかったが、ここで弦の前から逃げることは、何かとても大切なものを失う事のように思えて、必死でそれに耐えた。
 サッカー部の他のチームメンバーにとっても、城田弦という天才プレーヤーが自分たちのチームの仲間入りしたというニュースは、とんでもないビッグニュースであったようで、いつもよりずいぶん早く、すべてのメンバーがグラウンドに顔を見せた。
 梅はそんなメンバーたちと入れ替わるようにしてグラウンドを後にした。
 このまま社のオフィスに戻っても仕事は手につきそうもない。しかし、真藤が昼に語ったことも気になったし、そもそも真藤が自分に告げたかったことが本当は何なのかも確かめなければならないだろう。その話の内容によっては、次のプレゼンの中身を総入れ替えしなければならないほどの問題に発展するかもしれない。
 様々な思いを抱えたまま、梅は改札を通ってオフィスに向かった。

 オフィスに戻るとすぐに、梅の姿に気づいた加織が近づいてきた。
「昼間の真藤さんの話のことなんだけど、それとなく開出リーダーの交友関係を漁ってみたら、大学時代の友達が
ダンソーの開発部の課長をしているってわかったの」
 そんな話をどこから仕入れてきたのだろうか。それもこんな短時間に、そこまで核心に近い情報を突き止められるなんて、少し恐ろしい気がする。加織が城田弦と梅との関わりを知ってしまったら、たちどころに卓も含めた地獄図を探し出してしまうように思えた。
「開出さんは?」
 オフィスの中にその姿が見えなかったので、梅は訊いた。
「今、高田沢専務に呼ばれて専務室に行ってるわ。今の情報に関することで呼びつけられたのかもね」
「加織。適当なことを言うのは止めなさいよ」
 梅が睨むと、加織はぺろっと舌を出して、自分のデスクに戻って行った。
 少し逡巡したけれど、梅は近くのビジネスフォンで、真藤のデスクの内線番号をプッシュした。
 それはすぐに繋がった。受話器の向こうで名乗る真藤の声が聞こえている。
「華咲ですけど。昼間のお話しが気になったもので」
「ああ、梅ちゃんか。帰ってきたんだね。で、開出さんは事務所に居る?」
「見当たりません。加織の話では高田沢専務に呼ばれたってことですけど」
「そうか、高田沢専務にね。それにその話を告げたのが加織ちゃんだったんだね」
「なんか変ですか」
「変かどうかはわからないけれど、ちょっと周りの子に、開出さんの行き先を知っているかって訊いてみてよ。それから、電話は改めて僕からするから、席について待っていてくれないかな」
 どうやらこのままの電話機では話づらいということらしい。梅は承諾すると受話器を置き、一番近くにいた事務員の中村に、
「開出リーダーはどこに行かれたのかしら。知ってる?」
 と訊いた。
「どこからか電話がかかってきて、何かずいぶんあわてた様子で出て行かれましたよ。ビジネスバッグを持って出られたから、どこかお客さんのところじゃないですかね」
 行き先を告げずに開出が外出するのは日常茶飯事だったので、中村は大して気にも留めてない調子で教えてくれた。
「ビジネスバッグを持って社内じゃおかしいものね」
「そりゃおかしいでしょ。華咲さん何かあったのですか? 変なこと聞いたりして」
「いやいや。あの開出リーダーのことだからさ、そんな芝居を打って競馬にでも行ったんじゃないかと思ってさ」「ああ。それあり得ますね。だったら夕方にしょんぼりして帰ってきますね」
 自分の部下の課員から、こんな好き勝手なことを言われている開出のことが少し気の毒にも思えてきたが、そこは平生往生である。日頃の行いがものを言う世界は、どうしようもない。けれども開出に博才も運もないことは同情してあげてもいい。
 ちらりと視線を加織に向けると、まったく何事もなかったかのようにパソコンに向かって何かを入力している。
「加織はずっとここにいたの?」
「またまた変なこと聞きますね。本当にどうしちゃったんですか、きょう。この手の話は華咲さんの一番苦手なやつじゃありませんでしたっけ」
「ああ、変な噂話じゃないのよ。加織には色々お願いごとをしてるんで、そんなあんなでちょっとね」
「いやいや、噂話じゃないとしても、やっぱり華咲さんの苦手分野に突き進んでるみたいですけど。まあ、加織先輩が相手じゃ、心配になるのもわからないではありませんけどね。加織先輩はお昼に帰ってきてから、ずっとオフィスにいましたよ。あっ、おトイレとかくらいの席空きはあったかもですが、基本的には居ましたね」
「そうなんだ。ありがと」
 梅は、自分でも気持ち悪いとは思ったが、できるだけ親しみを込めて中村に笑いかけた。
 ここもまた平生往生である。中村はそんな梅を見て、額に手を当てて熱を測る仕草をしてから、
「お大事に」
 と返してきた。
 まったくやれやれだ。首を左右に振ってから、自分のデスクに向かってゆっくりと歩き始めた。
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