キボウのカタチ

銭屋龍一

文字の大きさ
上 下
56 / 64

キボウのカタチ 56

しおりを挟む
 監督はパラソルの下の保冷ケースからペットボトル入りのお茶を取り出して振る舞ってくれた。
 まあ、飲んでくださいと梅に勧めてから、監督も喉の渇きを感じるのかぐびりと一口飲んだ。
「最近はなでしこジャパンの活躍によって、年少であっても女子サッカーが行える環境が徐々に整備されてきていますが、少年サッカーに比べればまだまだそのプレー環境は整っていません。ワールドカップでなでしこジャパンが優勝したときの中心選手だった澤穂希さんも年少の頃はサッカーができる場所がなくて、少年サッカーのチームに所属してプレーしていました。それも入団時に女の子ということでかなり苦労されたようです。そのような調子ですから、わたしのところのような小さな少年サッカー団でも、入部させて欲しいという女の子の選手もおいでになったりします。それで過去には女の子の選手の入団を認めてきました。その中でも、ちゃんとした環境で育ててあげれば、日本を代表するような選手に大きく化ける、と思うような才能を感じたのがエミクミという美人姉妹です。姉が恵美子、妹が久美子なのでエミクミと呼ばれていました」
 その名でピンときた。
「それって茜文具さんのところのお嬢さんたちですよね」
「ああ、なるほど。色々調べはついているわけですな。ならば話が早い。その恵美子は弦と卓と同学年で、幼なじみでした。こどもの約束なので笑い話のようにお感じになるかもしれませんが、小学生の頃、恵美子は弦のお嫁さんになると堂々と宣言していて、当の弦もいいよと答えていたようです。卓も恵美子が好きでしたが、その思いは心に秘めて悟られないようにしていたようです。が、実際には、うまく隠せず周りの者には丸わかりでしたね。また、久美子は一学年下でしたが、彼女も弦のことが好きでした。まあこどもの頃の話で、三角関係だの二股だのと問題になりそうもありませんが、これがちょっとした心のすれ違いが発生して、そんな軋轢が起こったのです。その原因があなた。朝のお姉さんの登場によってです」
「でも歳もかなり離れていますし、つきあったという事実もありませんから、それはちょっと」
「なあに、あの年頃の男の子は年上の女性に憧れるものです。あなたの周りにも、先生が好きになったりした男子生徒はいませんでしたかな。まあ、何にせよ、卓はあなたに出会って、自分が心変わりしてしまうことを恐れた。このまま朝の姉さんと会い続けていたら、好きになってしまうかもしれない。そうなってしまえば、ずっと思い続けてきた恵美子と結ばれることは永遠になくなる、とね。そんなこと考えなくても、結ばれるときは結ばれるし、ダメなときは永遠にダメなもんです。だが卓はそういう風には考えなかった。さらに、その朝のお姉さんと会う役を弦に引き継がせれば、もしかすると弦が朝のおねえさんのことが好きになって、恵美子と別れることになるのではないか、とまあ、そんな風に考えたわけですな」
 監督は話しながら遠くを見るような視線をしている。昔の思い出が、まざまざと蘇っているのだろう。
「弦さんは卓さんに引け目を感じていたから、その要請を断ることができなかったということですね」
「実際弦は経済的には裕福でしたし、卓は極貧とまでは言いませんが、かなりの貧乏暮らしをしていましたのでね。弦は恵まれている自分を嫌悪し、何も持つことが許されないような卓に、逆に引け目を感じていました。すでに色々なところでお聞きになっているようですが。しかし弦は卓の申し出は断れない立場ではありましたが、それによって回された役柄を演じる場合、とてもドライに現実的に処理することができる子でした。ですから朝のお姉さんと会うことも数日間ほど続けて、後は適当な理由をつけて、解消してしまえばいいと思っていたようです」
「わたしは朝の少年が入れ替わったことにまったく気づいていませんでした」
「そうでしょうなぁ。ほんのちょっと会うだけでは、弦にしろ卓にしろ、その人間性まで推し量ることは難しいですからね。しかもその頃のふたりは本当にうり二つ。そっくりでしたからね」
「まさか双子だったなんて、思いもしませんでした」
「ですです。だが、弦の目論見はうまくいかなかった。ほんの数日会っただけ、それも早朝の5分程度なのに、弦はあなたに恋をしてしまいました。もう卓の代役ということは頭から消えていたようです。ずっとあなたと会っていたいと思っていたようですね」
 梅の胸の奥が少しうずいた。今にして思えば、梅も同じ気持ちを持っていた。結ばれるとか、恋人同志になりたいとか、そういうのとは違ってはいたが、あれもひとつの恋心だった。
「幼いと言っても、女性は好きな人のことになると特殊能力を発揮するようですな。弦と朝のお姉さんとの逢瀬はやがて恵美子の知るところとなりました。恵美子は天才サッカー選手として活躍する弦の邪魔にならないようにと、少し離れた場所からそっと見守ることだけに留めていたのに、弦はそんな自分の気持ちを裏切ったと思ったようです。もともとエミクミがサッカーを始めたのも、好きな人、弦に少しでも近づきたい一心からでしたから、そのときのショックは本当に大きかったようです。絶対に後悔させてやるとよく口にしていましたな。まったくくわばらくわばらです」
「でもわたしの方にはそんな人がいるような様子はまったくありませんでしたけれど」
「ええ、ええ。あなたたちは本当にいいタイミングでお別れになった。あれ以上逢瀬が続いていれば、本当に恵美子があなたを危険な目に合わせたかもしれませんからね」
「しかしそんな風におっしゃいますが、弦は7年ぶりに会ったとき、わたしのことが分らなかったみたいでした。わたしが話をして素姓がわかると、あれはあんただったのかって、怒りさえ伝えてきました」
「それは弦特有のシャイな部分からの反応と、ここで本心を見せてしまうと、卓や恵美子や久美子がどう感じ、何をするかわからないと、そんな風に思ってリスク管理のために芝居を打ったのではないでしょうか。だって弦はずっとあなたを探していましたからね」
しおりを挟む

処理中です...