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もうひとつの桃太郎 1
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土間からそのままあがりかまちに腰をかけ、痛みが走るのか、婆様がしきりに腰をさすっている。
さもあらんと、芝刈りからもどったばかりの爺様は思う。
婆様の腰の痛みの原因ともなったと思われる、土間の炊事場に置いてあるものに目を向ける。
これだけ大きなのものを川から家まで運んできたのだ。腰も痛んであたりまえであろう。
それはまな板はもとより、調理台からも転げ落ちそうな大きさである。頬をつねってみても消えないので、夢ではないらしい。
確かに婆様が言うように、それは桃である。だがこれほどの桃の実がなるとしたら、その木はいかほどの大きさになるであろうか。それこそこの世のものではあるまい。たぶん極楽浄土か天上界のものであろう。
この秋は、ひどく不作であった。稲と芋や豆だけでは年が越せそうもなく、ひえやあわも多く取り込んでいる。木の実や野草に茸も、干したり、塩煮にしたりして、食えそうなものはできるだけ貯蔵していた。そこにもってきての、これほど立派な桃だ。きっと普段の、婆様の行いや、爺様の行いを、仏様や神様が見ておられて、ご褒美に贈ってくださったものであろう。
「まあ、まあ、夕食の時分でもありますし、それでは切りましょうかの」
婆様は腰をさするのを止めると、「どっこらせ」と立ち上がってくると、桃の表面を何度かなでてから包丁を入れた。
たちまちぱっくりと桃がふたつに割れる。それと同時に藁葺き屋根が揺れるかのような激しい泣き声が響きわたった。
なんと桃の中で赤子が泣いている。
赤子を中心にして、家の中がぱっと明るくなった。
爺様は腰を抜かしていた。横を見ると、同じように婆様も腰を抜かしたものか、座り込んでいる。
だが、婆様のほうが立ち直るのが早かった。満面の笑顔である。体からも喜びがこぼれだしているほどに見える。だがその丸まった細い肩を見ると、これまでどれほどの重い荷物をその肩に担いできたのかと、爺様は思わずにはいられない。
「おお、おお。元気な赤子なことじゃ。おやおや、男の子じゃな」
立ち上がるとその手に泣き叫ぶ赤子を抱いた。すると不思議なことに赤子はたちまち泣くのを止めた。赤子自体が闇夜の星のように輝いて見える。
婆様の顔のしわさえいとおしく思う。子ができますようにと、どれほどの思いを抱いて、きょうまで婆様は生きてきたのか。鎮守様に、子を授かりますようにと、お百度参りを、爺様に気づかれないようにと、密かに行っていたことも知っている。あの日、離縁して欲しいと行ってきた婆様の肩をかき抱いたときのことが、昨日のことのように思い出される。婆様を手放さなかったことがこんなにうれしいことはない。
やおら爺様も立ち上がり、婆様の手の中の赤子を見る。赤子はとろけそうな笑顔でこちらをみつめ返してくる。
婆様の顔をそっと見る。早くもそれは母の顔になっているように思われる。これからこの子を立派に育てていくという決意さえ読み取れる。この顔をこれまで与えてやれなかった己を爺様は悔しく思う。だがそれもきょうまでのことだ。この今から、我らの夢見た生活が始まるのだ。
鼻の奥がつんとしてきた爺様は、婆様の顔から赤子の顔に視線を戻す、赤子の柔らかな頬を指で軽く突いてみると、爺様は自分も父となったのだという実感がわいてくる。父としてこの子を守っていかねばならない。爺様はすぐさま箪笥に走った。いつもはぼろばかりを着ている。何かのときのためにと取っておいた、一番程度のよい着物を取り出し、婆様と赤子のところにもどる。婆様は爺様から着物を受け取ると、嫁いできた日に見せたのと同じ、輝く笑顔を見せて、上手に赤子を着物でくるんだ。婆様の顔は今、あの若き日の笑顔に戻っているように、爺様には見えている。
「これは、これは。お腹が空いておりましょうぞ。米のとぎ汁ないと準備いたしましょう」
婆様はそう言うと、爺様に赤子を手渡した。手渡してきたとき、婆様は目でうなずいたように思えた。これは私たちふたりの赤子なのだと。これからふたりで育てていくのだと。赤子は爺様に抱かれても泣き出しもせず、機嫌よさそうに笑っている。
すばやく小皿を二枚用意した婆様は、残った桃の果肉をそぎ落とし、それぞれの皿に盛った。その二皿を両手に持つと座敷の方に上がっていく。
そのまま爺様が見ていると、婆様は神棚にひとつ目の皿を供えた。
「これは神様のお導きでございましょう。子もできず、ただただ食うのに必死で今日まで生きてまいりました。それがこの歳で、これほどかわいらしい男の子を授かるなど。ほんにうれしいことでございます。ありがとうございます」
婆様はしばらく手を合わせて祈る。その祈りの深さがわかる爺様は、婆様の祈る姿に頭を下げる。
それから今度は、奥の、形ばかりのみすぼらしい仏壇の前に、残る一皿をお供えした。
「これも仏様の御心の賜物でござりましょう。この歳で、こんな婆が、これほどまでにかわいらしい男の子を授かるなど。ほんにありがたいことで。ほんにご先祖様からの贈り物じゃて。ありがたいことで、南無南無」
最後に婆様は表に向かった方の障子を大きく開け放つと、縁側にまで踏み出て、その場で頭を垂れて手を合わせた。赤子を運んできてくれた川への感謝の祈りを行なっているのであろう。
座敷から下りてきた婆様は、もうすっかり落ち着いた表情になっていた。まさに母親の顔である。桃の果肉と、米のとぎ汁とを合わせて、赤子に飲ませる乳を作った。それをとっくりに入れて人肌に暖めると、注ぎ口に布を丸めた吸い口をつけた。赤子が乳を吸いやすいようにとの心遣いであろう。
爺様は、自然と流れるような動作で婆様に赤子を手渡し、抱きかかえさせる。もうずっと赤子を育てでもきたかのような阿吽の呼吸であった。
「おうおう。元気じや、元気じゃ。どんどん飲みますぞ。なんともうれしいことじや。なんともありがたいことじゃ」
婆様の言葉に合わせ、爺様も、「ほんにほんに。ありがたいことじゃのう」と、婆様の作った乳を一生懸命飲んでいる赤子を目を細めて見つめ続けた。
この出来事は、爺様にとって生まれてから一番うれしい出来事であった。それはきっと婆様も同じであろうと、爺様は心が温かくなる心持ちで思っていた。
さもあらんと、芝刈りからもどったばかりの爺様は思う。
婆様の腰の痛みの原因ともなったと思われる、土間の炊事場に置いてあるものに目を向ける。
これだけ大きなのものを川から家まで運んできたのだ。腰も痛んであたりまえであろう。
それはまな板はもとより、調理台からも転げ落ちそうな大きさである。頬をつねってみても消えないので、夢ではないらしい。
確かに婆様が言うように、それは桃である。だがこれほどの桃の実がなるとしたら、その木はいかほどの大きさになるであろうか。それこそこの世のものではあるまい。たぶん極楽浄土か天上界のものであろう。
この秋は、ひどく不作であった。稲と芋や豆だけでは年が越せそうもなく、ひえやあわも多く取り込んでいる。木の実や野草に茸も、干したり、塩煮にしたりして、食えそうなものはできるだけ貯蔵していた。そこにもってきての、これほど立派な桃だ。きっと普段の、婆様の行いや、爺様の行いを、仏様や神様が見ておられて、ご褒美に贈ってくださったものであろう。
「まあ、まあ、夕食の時分でもありますし、それでは切りましょうかの」
婆様は腰をさするのを止めると、「どっこらせ」と立ち上がってくると、桃の表面を何度かなでてから包丁を入れた。
たちまちぱっくりと桃がふたつに割れる。それと同時に藁葺き屋根が揺れるかのような激しい泣き声が響きわたった。
なんと桃の中で赤子が泣いている。
赤子を中心にして、家の中がぱっと明るくなった。
爺様は腰を抜かしていた。横を見ると、同じように婆様も腰を抜かしたものか、座り込んでいる。
だが、婆様のほうが立ち直るのが早かった。満面の笑顔である。体からも喜びがこぼれだしているほどに見える。だがその丸まった細い肩を見ると、これまでどれほどの重い荷物をその肩に担いできたのかと、爺様は思わずにはいられない。
「おお、おお。元気な赤子なことじゃ。おやおや、男の子じゃな」
立ち上がるとその手に泣き叫ぶ赤子を抱いた。すると不思議なことに赤子はたちまち泣くのを止めた。赤子自体が闇夜の星のように輝いて見える。
婆様の顔のしわさえいとおしく思う。子ができますようにと、どれほどの思いを抱いて、きょうまで婆様は生きてきたのか。鎮守様に、子を授かりますようにと、お百度参りを、爺様に気づかれないようにと、密かに行っていたことも知っている。あの日、離縁して欲しいと行ってきた婆様の肩をかき抱いたときのことが、昨日のことのように思い出される。婆様を手放さなかったことがこんなにうれしいことはない。
やおら爺様も立ち上がり、婆様の手の中の赤子を見る。赤子はとろけそうな笑顔でこちらをみつめ返してくる。
婆様の顔をそっと見る。早くもそれは母の顔になっているように思われる。これからこの子を立派に育てていくという決意さえ読み取れる。この顔をこれまで与えてやれなかった己を爺様は悔しく思う。だがそれもきょうまでのことだ。この今から、我らの夢見た生活が始まるのだ。
鼻の奥がつんとしてきた爺様は、婆様の顔から赤子の顔に視線を戻す、赤子の柔らかな頬を指で軽く突いてみると、爺様は自分も父となったのだという実感がわいてくる。父としてこの子を守っていかねばならない。爺様はすぐさま箪笥に走った。いつもはぼろばかりを着ている。何かのときのためにと取っておいた、一番程度のよい着物を取り出し、婆様と赤子のところにもどる。婆様は爺様から着物を受け取ると、嫁いできた日に見せたのと同じ、輝く笑顔を見せて、上手に赤子を着物でくるんだ。婆様の顔は今、あの若き日の笑顔に戻っているように、爺様には見えている。
「これは、これは。お腹が空いておりましょうぞ。米のとぎ汁ないと準備いたしましょう」
婆様はそう言うと、爺様に赤子を手渡した。手渡してきたとき、婆様は目でうなずいたように思えた。これは私たちふたりの赤子なのだと。これからふたりで育てていくのだと。赤子は爺様に抱かれても泣き出しもせず、機嫌よさそうに笑っている。
すばやく小皿を二枚用意した婆様は、残った桃の果肉をそぎ落とし、それぞれの皿に盛った。その二皿を両手に持つと座敷の方に上がっていく。
そのまま爺様が見ていると、婆様は神棚にひとつ目の皿を供えた。
「これは神様のお導きでございましょう。子もできず、ただただ食うのに必死で今日まで生きてまいりました。それがこの歳で、これほどかわいらしい男の子を授かるなど。ほんにうれしいことでございます。ありがとうございます」
婆様はしばらく手を合わせて祈る。その祈りの深さがわかる爺様は、婆様の祈る姿に頭を下げる。
それから今度は、奥の、形ばかりのみすぼらしい仏壇の前に、残る一皿をお供えした。
「これも仏様の御心の賜物でござりましょう。この歳で、こんな婆が、これほどまでにかわいらしい男の子を授かるなど。ほんにありがたいことで。ほんにご先祖様からの贈り物じゃて。ありがたいことで、南無南無」
最後に婆様は表に向かった方の障子を大きく開け放つと、縁側にまで踏み出て、その場で頭を垂れて手を合わせた。赤子を運んできてくれた川への感謝の祈りを行なっているのであろう。
座敷から下りてきた婆様は、もうすっかり落ち着いた表情になっていた。まさに母親の顔である。桃の果肉と、米のとぎ汁とを合わせて、赤子に飲ませる乳を作った。それをとっくりに入れて人肌に暖めると、注ぎ口に布を丸めた吸い口をつけた。赤子が乳を吸いやすいようにとの心遣いであろう。
爺様は、自然と流れるような動作で婆様に赤子を手渡し、抱きかかえさせる。もうずっと赤子を育てでもきたかのような阿吽の呼吸であった。
「おうおう。元気じや、元気じゃ。どんどん飲みますぞ。なんともうれしいことじや。なんともありがたいことじゃ」
婆様の言葉に合わせ、爺様も、「ほんにほんに。ありがたいことじゃのう」と、婆様の作った乳を一生懸命飲んでいる赤子を目を細めて見つめ続けた。
この出来事は、爺様にとって生まれてから一番うれしい出来事であった。それはきっと婆様も同じであろうと、爺様は心が温かくなる心持ちで思っていた。
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