エンジェルノイズ

銭屋龍一

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1 プロローグ

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 目覚めると同時に、
『エンジェルズサーガにようこそ』
 女性を思わせる、人工的な高い声が言い放ち、華々しいファンファーレが鳴り響いた。その高らかな音は、頭の芯を刺激し、体のいたるところに、興奮を伴うある種のしびれのようなものを感じさせた。
 長い長い夢を見て、目覚めたようにも感じられたけれど、目覚めると同時に鳴り響いた華々しいファンファーレによって、眠りの中身に関わる記憶は一気に霧散してしまっていた。何か大切なものが、夢の中に、眠りの中に、あったように思う。だがもはや、それらを思い出せる気配はなくなっていた。
 周囲に視線を走らせる。
 円筒形の部屋だった。窓も扉もない。壁に当たる部分は、内部に光源でもあるのか、白く発光している。電子部品に電流が流れているときのような、あの酸味を感じさせる独特の臭いが漂っている。空調が効いていて、さらりと乾いた空気が、快適な温度に保たれている。まさに、近未来の研究所の一室という感じであった。
 その部屋の中央に椅子がしつらえてあり、それに何の戒めも受けずに腰掛けていた。玉座と呼ぶのがふさわしい威厳を備えた豪華な椅子である。ここはどこなのか。なぜこんなところにいるのか。それを考えてみる。何も浮かんでこない。
 そもそも自分は誰なのか。
 その問いが、思わず強く胸を打つ。必死に記憶をたどろうとする。けれどもいくら考えてみても、自分の名前すら浮かんでこない。自分が自分であるところの記憶が、すっぽりと抜け落ちている。
 大きく膨らんだ、今にも爆発しそうな激しい感情が、記憶の欠落の裏側に潜んでいるように感じる。ただちに立ち上がり、壁を叩き、床を蹴り、大声で叫びながら駆け回りたい。だが何かは分からぬ何かが、そんな自分を静かに抑制していく。
 自分? 自分というものが在ることはわかる。その自分は、ベージュの綿パンに、紫のカットソーのヨットパーカー、足下は素足に黒のバスケットシューズ。若い男性向けのファッションだと思う。違和感はない。だが、そもそもそれが、年齢的にも、容姿的にも、自分に釣り合った衣服なのかを確かめる術がない。姿を映してみる鏡もなく、顔や年齢に関する記憶もない。
『あなたは覚えていらっしゃらないと思いますが、あなたは我々と契約をなさいました。もはやどのようなことがあろうとも、契約の破棄はできません。よって、これからのあなたの成すべきことはただひとつ。お客様に喜んでもらうこと。それだけです』
 人工的な声が淡々と伝えてくる。
 声が告げたように、契約などというものは記憶の中にはまったくない。そもそも自分の名前すらわからなくなっているのだ。どんな自分が、何を契約したというのか。想像してみるきっかけすらみつけられない。
 正面の壁に、縦二メートル、横四メートル程度の窓が開く。その窓の奥から大型のディスプレーが音もなく、ゆっくりと現れる。
『一見は百聞に違わず。なによりも見ていただきましょう』
 人工的な声が続ける。起動したディスプレーには、この部屋の内部が映しだされている。玉座に男が座っていた。だが、それは自分ではない。なぜなら服装が明らかに違っていた。年の頃は二十代の前半くらいだろうか。
 無音と思えていた映像から声が出た。
『汝は汝の成すべきことが分かるや』
 その人工的な声は、先ほどまでと同じ声のようだが、こもった声として聞こえたから、ディスプレーを通して伝わってきた声だと区別がついた。
 男は左右を見る。それから上を見上げ、しばらくそうしていたかと思うと、今度は下に視線を向けた。男はそのままの姿勢で何かを考えている風である。
 気づけば自分の口の中が乾いていた。喉が上下に大きく動く。無意識に、つばを飲み込もうとしたようだ。だが、飲み込めるだけのつばもないほどに口の中は乾き切っている。
 ディスプレーには、動きも音もない映像が映し出されている。いや、先ほどまでの動画は終わり、すでに静止画になっているのだろうか。と思ったとき、男が何かを思い決めたように顔を上げた。それから黙ったまま椅子から立ち上がろうとした。その瞬間、ピシュッと奇妙な音が響き、画面が朱に染まった。
 それを映し出しているディスプレーから目が離せない。体の奥で熱い塊がうごめき始める。その映像が意味しているものを理解しても、そんなものかと思う。不思議と、なつかしささえ覚える。血潮とともに細かく飛び散った肉片が、ディスプレーに映し出されていた。部屋の中には、男の影はなく、玉座だけがある。細かく飛び散った肉片と、真っ赤な血に染まった世界。それだけが静かに映し出されている。
『死を賜り、終焉いたしました』
 こもった人工的な声が言い、ディスプレーはやがて砂嵐を映し出し、ついには電源が切れたように真っ黒になった。ディスプレーがふたたび音もなく奥に向かってゆっくりと戻っていくと、開かれていた窓が閉じ、のっぺりと白く発光したただの壁に戻る。
『あなたの体内にも、この男と同じプラスティック爆弾がすでに埋め込まれています。あなたは多くの記憶を失っている状態です。けれども、大切なことは常にあなたの中にあります。あなたがあなたを貫き通せば、それが正解です。正解すれば生き残れます。そして正解を重ねる内は、あなたが我々と契約した取り決めに従い、希望された対価が希望通りに支払われます。ただし誤れば、あなたもこの男と同じ運命をたどることとなります。よろしいですね』
 ボーカロイドのような人工的な声は、そこで止まった。しばらく待ってみたが、後に続く言葉はない。となれば、これが最初の問いなのであろう。契約? 契約とは何だ。そもそも自分は誰なのだ。なぜここにいて、これから何をしようとしているのだ。ぐっと気を込めて、記憶を呼び覚まそうとする。けれども、何も浮かんでこない。
 記憶を操作されているのだろうか。催眠術やサブリミナル効果のことなどが頭に浮かんでくる。こういった記憶は、思い起こすのに何の苦もなく当たり前のように思い出せる。それがまた妙だ。これほどまでに領域を細かく分けて、記憶のあるなしを仕分けられるものなのだろうか。
 過てば死。心臓の鼓動がはっきりと伝わってくる。口の中がさらに乾き、舌が上あごに張り付いている。奥歯も強くかみしめ過ぎて痛い。次の行動を、無意識に行いかけて寸前で止めた。実際に行なうかどうかを考える。それからゆっくりと目をつむった。目をつむるほどの些細なことですら、死を賜る可能性がある。そう考えたのだ。
 頭の芯に痛みを感じるほど強く、気を込めて考える。人工的な声が告げたことを頭の中で反芻する。あなたがあなたを貫き通せば、それが正解だと言った。こんなとき、自分ならばどうする? 執拗に考えていると、やがて、答えが出た。ゆっくりと目を開ける。それを待っていたかのように、
『汝は汝の成すべきことが分かるや』
 人工的な声が訊ねてくる。もう迷いはなかった。
「お客様に喜んでもらうことだ」
 一字一句かみしめるように口にした。
 華々しいファンファーレが鳴り響いた。正解したようである。
『あなたはエンジェルズサーガのスタートゲートである『運命の門』にたどりつかれました。おめでとうございます。お祝いとして、最初のアイテムをお渡しいたします。どうぞお受け取りください』
 玉座の右側の肘掛けが振動した。掛けていた右肘を上げると、上部がスライドして穴が空く。その穴の中から、何かがせり上がってくる。そこに現れたものは、スマートフォンのような形状のものであった。
 視線を上げ、室内に変化はないかと、体の左右を一応確かめてから、手元のそれを取り上げる。ストラップに真っ白な天使像がついている。背中に小さな羽があるから、まず天使で間違いあるまい。取り上げると、軽快な呼び出し音が流れた。もう一度左右を確かめてから、通話ボタンを押して耳に近づけた。
『ようやくこちら側の入り口にまでこられたのですね。お待ちしておりました』
 それは人工的なものではなく、肉体を持っている女の声だと感じられた。どう応えるか一度考えてから、
「あんたは誰?」
『それはいずれわかります。とにかく早くこちらにおいでください』
「こちらとは?」
『エンジェルズヤードです』
「どうすればいい?」
 女はくすくすと笑ってから、
『ご自分のお名前を明確にされるだけですよ』
「その名前がわからないだろ」
 と口に出してみると、高遠一馬という名が思念の中に在ることに気づいた。
 なかったものが、唐突に、存在した。生まれたではない。記憶が蘇るでもない。そこにそもそも在ったことに唐突に気づいた。そう表現するしかない。
「俺は高遠一馬なのか?」
 華々しいファンファーレが高らかに鳴り響いた。同時に右側の壁に大きな長方形の穴が開く。室内の空気が表に出て行き、それと入れ替わりに、むわっ、と湿度の高い暖かな空気が流れ込んでくる。どうやらそれが出口らしい。
 その先は、うっそうと植物が生い茂る、緑のジャングルであった。樹木や湿った土から発せられる濃密な臭いが、早くも入り交じって漂ってくる。
『さあ、どうぞこちらに』
 女の声に促されて、玉座から立ち上がり、歩を進めた。
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