エンジェルノイズ

銭屋龍一

文字の大きさ
上 下
11 / 53

11 アカ 3

しおりを挟む
 岩山の要塞を出ると、もう陽は西に傾き、今まさに日が暮れるところだった。夜間の活動許可が出ることはまずない。だからジョージは駐屯地まで戻ると、担当官に一時間ほど外出してくると告げて、アカのミンシュウたちが住む村へと向かった。
 アカのミンシュウは、木々も伐採され、きちんと区画整理されたところに密集して家屋を建て、暮していた。どことなく武家屋敷が建ちんでいるかのような風情がある。基本的に家屋ごとに、ひとりの住人であった。
 ジャングルには場違いなソーラーパネルが集落を囲んでいる。さらに集落の中央に、ディーゼルエンジンを使った巨大な発電装置まである。お陰で常に電気は供給されていた。
 シロのミンシュウの方は、ゆったりとした広い範囲に、思い思いに家屋を建て、庭のように木々もいくらかは残して暮している。それがアカにおいては、一カ所に集められていた。それはそれだけ、アカの組織が、所属している人間の動向を、常に把握しておきたいという思いがあってのことであろう。
 人口は、アカ、シロ、ほぼ同数であるが、戦士の数は、アカの方が圧倒的に多かった。
 ジョージが目指しているのは、仲間純子の家だった。その住処は村の外れにある。そのために、誰にも見とがめられることなく訪れられることは都合がよかった。
「あら、ジョージ。ずいぶん怖い顔をしているじゃない」
 戸を開けて出てきた純子は、明るい口調で出迎えてくれた。その口調は、オニとの交渉で緊張していた神経をほぐしてくれる。何より、馴染んだ女という安心感がある。
 馴染んだ女。確かにそうだ。だが、この目の前の女は、ジョージに何を見ているのだろうか。本当の彼女自身であれば、縁がなかったであろう男であるジョージ。いや、エンジェルズヤードにやってきて、一度はジョージの方から彼女を口説いたわけだから、もしかしたら、本当の彼女自身であっても、今と変わらず、互いに愛し合うようになっていたかもしれない。ただし、本当の彼女自身をジョージが知るチャンスはなかった。出会ったときすでに彼女は、ジョージのよく知る仲間純子になっていたからだ。
 馴染みの仲間純子が、その実年齢の半分ほどの、二十代前半の若い女の体を手に入れていた。つまり、記憶がすり替わっていたのだ。記憶こそが人か、それとも肉体こそが人なのか。判じるには、なかなか難しいものがある。
「夕食、食べていくでしょ。おかげさまで、まだ肉のストックも充分あるし、ワインも少しはあるわ」
 純子は冷蔵庫から食材を選び出しながら声をかけてきた。十畳ほどのリビングダイニングキッチン。他には寝室だけ。アカのミンシュウの家として標準的な造りのものだ。
「ああ、いいね。ちょうど腹が減ってるところだった」
 ジョージは勝手に部屋に上がり込み、ダイニングキッチンのテーブルの席につき、純子が置いていた、たばこの包みから一本抜き出して火をつけた。
 エンジェルズヤードでは、自分の食い扶持は自分で稼がなければならない。だが、ここでは金は意味がない。たとえ意味があったとしても、そのサラリーを払ってくれる会社はどこにもない。緑深い土地ではあるが、獣の肉も果実も手に入れるのは至難の業だ。そもそもプログラムがそのようなものを潤沢にエンジェルズヤードに残して置くはずがない。ならば食い扶持はどうして稼ぐ。
 それには、誰にも平等に、満月の夜に門が開かれる、万能なショッピングセンターがある。食料だろうが衣料だろうが、果ては銃器や爆弾に至るまで、その万能センターに行けば、欲しいものが何でも手に入る。万能センターの支払いのルールは単純だ。生き残りさえすければいい。
 その万能センターを、人々はデビルズキャッスルと呼ぶ。
 アカとシロの居住区からみて、それぞれから12キロメートル、ほぼ中間に位置する場所にある円形劇場が、デビルズキャッスルである。先の戦争時には、司令部として使用されていたといわれている大小の部屋が、円形劇場中央の塔のような岩山を彫って作られている。それがまるで西洋の城の塔のようにも見えることから、キャッスルの名がついた。
 まさにその名の通り、悪魔の城だ。一歩その城に踏み込んだら、悪魔になりきれなければ、生き残ることは難しい。悪魔になりきって、敵を殺し続けさえすれば、たいがいの欲しいものは手に入る。そして、エンジェルズヤードでは、そうすることができる者を、優秀な人間と呼ぶ。
 俺は優秀な人間なのだろうか、とジョージは考えてみる。ここまでは確かに生き延びてきている。そのお陰で欲しいものもたいがい手にしてきた。そのほんのおこぼれを純子に回すだけで、こんなに喜んでももらえる。だが、デビルズキャッスルで生き延びる度に、ジョージは自分のことが、ひとつまたひとつと嫌いになっていく。
 冷蔵庫から布に包んでいた肉の塊を取り出すと、純子はレンジにフライパンをセットする。その作業を、たばこをくゆらしながら、目で追っていたジョージは、
「オニからの連絡を待っている。あまり長居はできないんだ」
「オニから? 何をしたの?」
 純子はフライパンから顔を上げ、驚いたような声を上げた。眉根を寄せ、そのくせ視線は定まらずに、虚空に泳いでいる。
「高遠一馬を迎えに行っていた」
「誰かに頼まれたの」
 純子の言いたいことはわかった。だから簡潔にまとめて、
「エンジェルボイスが囁いた。あるいは、エンジェルノイズだったかもしれない。まだどちらともわからない。わからないが、その高遠一馬を、シロのやつらに奪われた」
「シロが待ち伏せして高遠一馬を? それって本物の高遠一馬なの。つまり私たちと、向こうの現実世界で関係していた、その高遠一馬かという意味でだけど」
「それもまだはっきりとはわからない。本人は自分の名前以外、何も思い出していない状態だった」
 その後に、どうやら純子と同じ記憶パターンのようだったと続けかけて、寸前のところで口をつぐんだ。あの男が、純子とともに詐欺にかけ、有り金全部奪ったあげく、それら一連の詐欺の首謀者に仕立てあげ、社会的に抹殺してやった高遠一馬ならば、あの三十前後と思われる、若く、よく鍛えた筋肉に包まれた体は、いったいどこのどいつの肉体なのだろうか。
「記憶を奪われていたのね。でも何かを思い出したとして、それが自分の本当の記憶かどうかはわからないわ。私みたいにね」
 ジョージが言わずに抑制したことを、純子にさらりと口にされて、すうっと血の気が引いていくのを感じた。他人に聞かせられる会話ではない。仲間純子は、このエンジェルズヤードに在って、ある意味特別な存在であった。純子の記憶は、本来別の人間が持っているはずの記憶であったからだ。ただし、その事実を知っているのは、今のところ、ジョージとオニだけである。
 オニが、純子の秘密を知ることとなったのはまた別の理由からだが、ジョージがそれを知ることとなったのは、ジョージ自身の特異性からだった。ジョージには記憶の欠落がない。厳密に言えば、プログラミングされていた時のいくつかの記憶はないのであろうが、その前の、向こうの現実世界での記憶も、エンジェルズヤード行きの契約を交わしたときのことも、ここエンジェルズヤードにくることになった理由も、すべて記憶に残ったままである。自分のその状態が、ここエンジェルズヤードでは特異なものであると、すぐに気がついた。だからそのことは誰にも話さず、口を閉ざして過ごしてきた。
 純子と関係ができたのは昨年の秋である。ここエンジェルズヤードの人口はそれほど多くはない。アカ、シロ、合わせても、せいぜい五百人程度であろう。アカだけならば、小規模な小学校の児童数程度である。だから、純子の存在自体はその前から知っていた。そんなふたりを結びつけたのは、あろうことか、デビルズキャッスルであった。あの悪魔の城が、皮肉にも恋のキューピッドになったのだ。
 焼き上がった分厚いステーキが、クラッシックな厚手の陶器の皿にのって、目の前に置かれた。ブラックペッパーと肉汁が合わさってうまそうな匂いが漂う。純子が手渡してくれたフォークとナイフによって肉を刻むと、ソースはかけずに口に運んだ。焼き方がうまいのか、噛み応えがありながら、次第に溶けていく肉のうまさは最高だった。
 純子は大きめのワイングラスをジョージの皿の横に置き、それになみなみと赤ワインを注いだ。同じグラスをジョージと向かい合う席に置き、ボトルに残った赤ワインをそのグラスに注いだ。テーブルを回り、ゆっくりとエプロンを外すと、同じようにステーキが盛りつけられている皿を手に、ジョージの正面に座った。
 純子とともに、しばらく黙って肉を食らい、ワインを飲んだ。
「そうか。それでオニなのね」
 唐突に、何かに思い至ったように純子が言った。
「なんだ。オニがどうした」
「シロの陣まで行って、その高遠一馬を取り戻してくる気なんでしょ。その許可をオニに求めたのね」
 ジョージの顔に向けた純子の視線は、ややもするとそのまま下を向いてしまいそうな弱々しいものを含んでいた。
「大丈夫、死にはしない」
「でも、エンジェルノイズかもしれないって言ったわ」
「俺は死なない。たとえあれがエンジェルノイズだったとしても、俺の力でエンジェルボイスに変えてやるさ」
「そんなこと、できっこないじゃない」
 純子の視線は、もうはっきりと下を向いていた。
 立ち上がってテーブルを回り、純子の顎に右手を添えて顔を上げさせた。
「大丈夫。俺はこんなことで死にやしない」
 そう言ってからキスをした。最初は反応を示さなかったが、やがてむさぼるように舌を吸い上げてきた。歯の裏側、舌の付け根と舌先を動かし、それを相手の舌に絡めた。純子が体をあずけてくる。
「絶対死なないでね」
 返事の代わりに、首筋からうなじを軽く撫でるようなキスで往復してから、耳に唇を残した。無駄なノイズは聞かなければいい。髪を掻きあげ、指ですきながら、耳朶にキスを重ねていく。執拗に繰り返していると、純子がこちらの唇を追ってきた。深く長いキスをした。それから、熱を帯びた純子の体を抱き上げると、ベッドルームへと向かった。
 歩きながら、これから抱き合って、快感を分かち合うのは、記憶としての純子なのか、それとも肉体としての別の誰かなのだろうかと、そんなことを考えていた。
しおりを挟む

処理中です...