修羅の牌

銭屋龍一

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修羅の牌 19

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「足跡で荒れていた? はっきりといくつもの足跡がついていたということかね」
「ひとつひとつの足跡がはっきりとついていたわけではなくて、大人数が歩いた後のように荒れていたということです」
「普段から、そんなふうになるほど、寮に出入りする人間は多いのかね」
 下手を打ったのだと、ようやく気づいた。何もここで、足跡のことなど言わなくてもよかったのだ。なのに口を滑らせてしまった。この話し、どこに着地させれば、吉原にかけられる容疑を、最小限のダメージで抑えることができるのだろうか。
「寮には、通いの店員も、昼間は食事をとりに行きますから、延べ数にすれば、毎日七、八人は玄関前を行き来します。昨日の雨は昼過ぎから降り出したので、それだけの人数が行き来したならば、あんなふうに荒れる可能性は充分あったと思います」
「ならばなぜ、地面が荒れていたことに心がひっかかったのかね。おかしいじゃないか。いつもと違っていたから、心にひっかかったわけだろ。普段通りなら、気にもとまらなかったはずだ」
 だからその普段どおりが、どんな状態なのかがわからないのだ。なにしろ、昨夜初めて社員寮に行ったのだ。だがそのことをここで白状するわけにはいかない。ますます深みに嵌まっていく自分を感じる。早くこの話題から脱出しなければ、もっとまずいことを口にしてしまいそうだ。
「真っ暗闇ではないにしても、そこは真夜中のことですし。それに刑事さんが想像していらっしゃるほど強く、不思議に思ったというわけでもありませんから」
「どうもわからない話だね。まったく辻褄があってないよ。何を隠しているんだい?」
「何も隠してなんかいません。だから、足跡をじっくりと見たわけではなくて、自然にふっと視線が向いたとき、ああ、地面が荒れているな、と思ったという程度の、単純な話なんです」
「単純な話ねぇ。そうは思えないけれど。まぁ、いいだろう。このことに関して、また何か思い出したら、わたしたちに教えてくれるかな」
「新しい何かなんてないと思いますが。わかりました。何か思いだしたならば、お知らせいたします」
「よろしく頼む。さて、今までの話からすれば、寮には玄関から入ったわけだね。そのとき何か、気づいたことはなかったかね」
「雨脚が強くなった以外、特に変わったことはありませんでした」
「寮の住人は何人かね」
「四人です」
「君たちを除けば、残りはふたりということだね。そのふたりとは、誰と誰で、君たちが寮に帰ったとき、そのふたりはどこにいたのかね」
「残りのふたりは、森さんという夫婦者で、ふたりとも寮の部屋にいたと思います」
「なぜそう思うのかね」
 今まで話してきたことは、昨夜が初めてとはいえ、実際自分が経験したことだから、自信を持って話せた。だが森夫妻のこととなるとまったく別だ。客としてパチンコ店に通っていたとき、何度かはふたりを目にしているのだろうが、その森夫妻の顔さえも思い出せない。
「森さんの部屋の前を通るとき、明かりが廊下まで漏れていたからです」
「何か物音を聞いたかね」
「聞いていません」
「だったら部屋の中に実際にいたかどうかはわからないだろ」
「はい。正確にはわかりません。ただ森さんたちは、部屋に入ってしまえば、いつも静かでしたので、不思議とも思いませんでした」
「それは村田君も一緒に見たのかね」
「村田君が見たかどうかは分かりませんが、僕のほうから、森夫妻の部屋から明かりが漏れていると告げました」
「なぜ告げたのかね」
「深夜なのに、まだ電気をつけているんだなと思ったからです」
「普段の森夫妻は、そんな深夜まで電気をつけて、起きているような人たちではないのかね」
 また言わなくてもいいことを言ってしまったようだ。何度、下手を打てば気がすむのだろうか。それに今回は、話の接ぎ穂さえわからないときている。
「森夫妻は、部屋に入ったら、居ても居なくてもわからないほど静かな人たちなんです」
「君がふたりとも寮の部屋に居たと、たった今証言したばかりじゃないか。嘘をついたのかね」
「いえ、嘘はついていません」
「だったら矛盾し過ぎてやしないか。部屋に居ても、いつも物音ひとつ立てない人たちならば、ここでも心にひっかかるものはないはずだ。だのに君はわざわざ村田君に、森夫妻の部屋から明かりが漏れていたと告げたという。なぜわざわざ告げたのだろうか。それは告げなければならない理由があったからだ。つまり、君と森夫妻との間に、お互いだけが知っている秘密があったということなんじゃないのかね」
「そんな秘密なんて無いです」
「だったら辻褄が合わないじゃないか。なぜわざわざ森夫妻のことを持ち出す必要があったのかね」
 ここで、昨夜初めて寮に行ったのだと言えたならば、どんなに楽だろうと思えた。だがそれを告げることは、自分にかかる容疑を、さらに濃くしてしまう行為となる。ここはなんとしても乗り切らなければならない。
「僕たちにしても、いつもはそんなに遅くまで起きているわけではありません。だのにそんな深夜に森さんたちの部屋から明かりが漏れていたから、それを話題にしました」
「森夫妻は君たちが主任のところで食事をごちそうになって帰ると知っていたかね」
「知らなかったと思います」
「店の他の人たちはどうだろう。誰かそのことを、知っていたと思われる人物はいなかったかね」
 どんどん答えづらい方向に質問が向う。そもそも店の中での人間関係など、何一つ知っていないのだ。自分が、明らかに口からでまかせを言っているのだという自覚はあった。こんな綱渡りの会話を続けていては、話が破綻するのも、もう目の前のように思えた。
「いなかったと思います。仕事で必要なことくらいは話しますが、プライベートのことまで話すような間柄ではありませんので」
「なるほど。で、寮の中で、ほかに気になる点はなかったかね」
「ありません」
「寮に戻ってから、それからどうしたね」
「午前一時を回っていた時刻なんですよ。もちろん寝ました」
「二人同時に眠ったのかね」
「二人同時に横になりましたが、先に眠ったのは村田君です。村田君が眠って、しばらくしてから僕も眠りました」
「村田君もそう供述している。先に寝てしまったので、君がどのタイミングで寝たのかまではわからないとね」
 ムラタンがそう供述していると言っても、麻雀のツミコミの練習をして、吉原が朝まで起きていたとは知らせてないはずだ。
「村田君が眠るのを確かめてから、君は深夜に寮を抜け出したのじゃないのかね」
「抜け出す、ですか? 何のために」
「それを聞きたいのはこちらだよ」
「村田君と部屋に戻ってからは、一歩も部屋から出ていません。村田君が眠って、ほどなくして僕も眠りました」
 落ち武者髪の刑事は質問を止め、じっと視線を合わせてきた。こちらが動揺していないか確かめているのだろう。下腹に力を込め、じっと見つめ返した。
「何時頃目覚めたのかね」
「午前七時半前です」
「どうしてその時刻だと分ったのかね」
「村田君が教えてくれました。彼は眠るときも腕時計をつけたままにしていたので、時刻が分ったのだと思います」
「目覚めたのはどちらが先かね」
「僕のほうが先に目覚め、すぐに村田君も目を覚まして、七時半だからそろそろ店に出る支度をしようと言いました」
「君が先に目覚めたのは、何か物音を聞いたからではないのかね」
「何も変わった音は聞いていません」
「君がもっと早くに目を覚ましていて、部屋から出て行き、またそっと戻ってきたんじゃないのかね」
「そんなことをしたら、村田君が気づいたと思います」
「どうしてそう思うのかね」
「僕たちの部屋のドアは、蝶番が錆びているのか、開け閉めするとき、キイキイと派手な音を立てるからです」
「窓から出ることもできたのではないかね」
「ほとんどはめ殺しのような窓ですよ。あの窓から出て、隣の建物との隙間に降りるなんて無理だと思います」
「本当に無理かね」
「やってできないことはないかも知れませんが、さすがにそんなことをすれば、村田君が気づいて目を覚ましたと思います」
「なるほど。で、目を覚ましてからどうしたのかね」
「寮の食堂に朝飯を食べにいきました。ふたりで食堂に行くと、越田さんが朝食の準備をしていました」
 ここからがまた問題だ。ムラタンが言いそうなことは予測できても、会長の越田がなんと言ったかなど、まったく予想もつかない。ただ店長が前もって、吉原は今日から店に出ることになっていたことにしようと告げてきていたから、おそらく越田もその線に沿った供述をしたに違いないと思われる。
「越田さんは君たちに何か言ったかね」
「朝のあいさつを互いにしただけで、他には何もおっしゃいませんでした」
「越田さんの雰囲気などに普段と変わったところはなかったかね」
「ありません。いつものように越田さんは調理したおかずをテーブルに並べられていました。僕たちの分を除いても、まだ二人分残っていましたから、森夫妻はこれから食事をするのだなと思いました」
「食堂に森夫妻はやってきたかね」
「僕たちが食堂を出るまでには、来ませんでした」
「同じ勤務シフトに入ってたんだろ。その時間に森夫妻が来ていなかったら、不思議だとは思わなかったのかね」
「思いませんでした。寮から店まではすぐですし、勤務開始時刻にはまだ間がありましたから」
「寮から店までどうやって行ったのかね」
 ここはより重要なところだ。ムラタンは裏口から出ることが常習となっていたと思われる。だが靴を隠したり、身を潜めて裏口に向ったり、その行為を店側には秘密にしていたのは間違いない。その秘密の行為を、ここでありのままに話しただろうか。
 ありのままに話すことが有利と思ったならば、ムラタンの性格ならば、秘密は秘密として、話すことを選択しただろう。この場合、裏口から出たと話すことと、玄関から出たと話すことと、どちらが事件により関連することになるのだろうか。実際の事件現場はどこなのか。路地に関わる地点であることは間違いなさそうだ。だったら、その事件現場からは、裏口のほうが離れていそうだ。しかし、ならばなぜ、裏口を選択したのかを説明しなければならない。そうまでして、実は裏口近くで事件が起こっていたとなると、これはもう、目も当てられない失態となる。
「玄関から出て、昨夜と同じように景品交換所の路地を抜けて出勤しました」
「昨夜とは違って夜も明けていたんだ。今度は人目も気になるはずだがね。だのにまた違反したというのかね」
 落ち武者髪の刑事は、あきれたような口調で言った。
「早朝ですし、景品交換所の路地に、誰かがいる可能性は低いですから」
 負けるわけにはいかない。ここは自分の主張を真っ直ぐに通すところだ。
「玄関を出るとき、何か気づいたことはないかね。昨夜よりもよりいっそう地面が荒れていたとか」
「ありません。一晩寝たので、地面が荒れていたこともすっかり忘れていました。普通に表に出て、店へと急ぎました」

 スタッフルームのドアがノックされた。
 落ち武者髪の刑事は立ち上がると、ドアを閉めたまま、「どなたですか」と訊いた。
「店長の金原です。至急お伝えしたいことができましたので」
「わかりました。どうぞ」
 ドアがゆっくりと開かれた。
 入室してきた店長の金原は、がっちりした体型で長身の、背筋がしゃんと伸びた姿勢のよい四十がらみの男を連れていた。
 刑事の角野と佐藤があわてた様子で立ち上がる。書記をしていた若い男も立ちあがった。
 店長が連れたきた姿勢のいい男が、落ち着いた歩みで、角野と佐藤たちのほうへ近づいてくると、手を広げて二人を囲い込み、その耳元で何事か囁いた。角野と佐藤は驚いた表情になり、姿勢のいい男の顔をじっとみつめた。少し間をあけ、姿勢のいい男は大きくひとつ、うなずいた。
 それを受けて佐藤が店長に視線を向け、
「聞き取り調査を行なう場所までご提供していただき誠にありがとうございました。貴重な情報が得られました。感謝いたします。我々はこれにて失礼いたします」と深々と頭を下げた。角野もそれに倣った。
 あまりにも急で、取ってつけたような態度だった。金原が連れてきた姿勢のいい男が何者か気になった。角野たちの反応から、上司にあたるのか、あるいは警察権力をも動かす力のある何者かであるはずだ。そんな力のある人物を、一介のパチンコ店の店長が連れてこられるものなのだろうか。
 姿勢のいい男と二人の刑事と若い書記官が出て行くのを見送ってから、金原は、
「刑事から尋問を受けていたというのに、あまり緊張していないようだね」と笑った。
「そんなことはありません。下手なことは言わないようにと気を遣って、むちゃくちゃ緊張しました。うまく切り抜けられたのか、自信もありません」
 吉原はソファーから立ち上がった。
「刑事たちは、君が昨夜初めて社員寮を訪れたという事実を訊きだしたかね」
「いえ。それについては大丈夫でした。今のあの方、どういった関係の人なんですか」
「彼は古い友人だ。そうか訊き出されなかったか。ならば今は、それだけでいい。さあ、ホールに戻って仕事だ」
「助けてくださったのですよね」
「そういうわけでもない。そろそろ退散してもらわないと仕事に差し障るのでね」
「本来僕は、店員の人数として想定されていなかったはずですから、いくら不在であっても関係ないのではないですか」
「森君たちが消えなかったらね」
「その森夫妻は僕が尋問された事件と関係ある人たちなんですか」
「わたしは関係ないと思っている」
「だったらどうして逃げだしたんですか。森夫妻は逃げ出したんですよね」
「こういう業界に入ってくる人間は、往々にして過去に知られたくない秘密があったりするからね。採用するときに、彼らはその口だろうと思っていたよ」
「それでも採用されたんですか?」
「店に迷惑をかけるタイプじゃないと読んだからね。今回も、迷惑をかけまいとして消えたんじゃないかと思っている」
「逃げる方が、迷惑をかけることになるんじゃないのですか」
「それは隠している過去の秘密の大きさと種類によって答えの変わる質問だな。それに、人ってものは結局、使ってみないとわからないものだからね」
 吉原は自分のことを顧みて、納得せざるを得なかった。
 金原に向って深く頭を下げると、その金原の横をすり抜け、ホールに向った。
 ホールに戻ると、すぐにムラタンを探した。ムラタンがどのような尋問をされ、どのように答えたのかを、吉原の回答とつきあわせたかったからだ。
 だが探し出したムラタンは、口の前にひとさし指を立て、
「店内じゃ話せへん。話は後でな」と、表情ひとつ変えず、冷静な口調で言った。
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