修羅の牌

銭屋龍一

文字の大きさ
上 下
35 / 62

修羅の牌 35

しおりを挟む
 体を揺すられ目が覚めた。ツミコミの練習をしていて、いつの間にか寝落ちをしていたようだ。こたつの天板の上の麻雀牌に突っ伏して眠っていた。
「早番やから、そろそろ出んとあかんで」
 声のするほうへ顔を向けると、ムラタンがいつもの綠の芋ジャージをすでに着込んで、吉原の顔を覗き込むように中腰で立っている。
「ああ、すっかり寝てたわ。にしても、体の節々が痛うてたまらんわ」
「その姿勢で眠ってたんや。痛うてあたりまえやろ」
 ムラタンは腰を伸ばして立ちあがった。
「僕が寝てる間に、僕に四の字固めとか、せえへんかったやろな」
 ムラタンがいつも口にしている、ギャグ返しのつもりで言うと、ムラタンは、
「そんなんしとるわけないやろ。なんで俺がそんなことわざわざせなあかんねん」と真顔で言い返してきた。
 その言いざまに違和感を覚える。そんなに必死になって否定するようなことだろうか。
「やってないんならええけど。そっか朝か。今朝は僕にも朝飯あるんやろか」
「きょうは正式にヨシハンもシフトに入ってるんや。そりゃあるやろ」ムラタンの表情が、心なしか暗く沈んだように思えた。

 ムラタンと連れ立って食堂に行った。
 越田が食堂のテーブルに腰をかけ、窓のほうを見ながら、ぼんやりとした表情でたばこを吸っていた。
「越田さん。おはようございます」ムラタンと吉原は、ほぼ同時に挨拶をした。
「ああ、あんたらがいたのだったね」越田は「よいしょ」とかけ声をかけてテーブルから腰を上げ、流しの横に置いていた皿をふたつ手にすると、
「今朝はカレイの一夜干し。上等ものだよ」とテーブルに向かい合わせになるように、その皿を並べた。
「なんや、ぼんやりされてましたけど、何かあったんですか」
 吉原が席につきながらそう訊くと、越田は、
「昨日は色んなことがあったからね。ちょっと疲れてるだけだよ。あんたらの食事が終わったら、昼寝でもするかな。それですっきりできるだろうよ」と吸っていたたばこを水道の水で消してから、流しの三角コーナーに捨てた。
 越田は温めた味噌汁と大ぶりの茶碗に盛った飯を渡してくる。それから吉原と向かい合うように、ムラタンの横の椅子に腰掛けた。
 事件を自分から必死になって調査する気はないけれど、越田あたりから聞ける情報くらいは聞いておきたいと思い、
「昨日は、森さんたちの朝食も用意されてましたけど、結局、森さんたちは食べなかったのですか」と訊いてみると、越田は身を乗り出してきて、
「そこなんだよ。いつも森君たちは早起きなのに、昨日の朝は遅いなと思ってたんだけどね。これが一昨日の夜の内に寮を出ていってたみたいなんだよ」と、いくぶん興奮した口調で返してきた。
「それには、まったく気づかれてなかったんですか」
「ぜんぜん気がつかなかったね。三日前は元気に笑ってご飯を食べていたし、今度の休みに串本に遊びにいきたいとか、そんなことも言ってたくらいだから、何も悩みもなくて、順調なんだろうなと思っていたさ」
「今度の休みって、いつのことですか」
「本来なら、きょう明日の二日間だね。特別希望休を取ってたはずだよ」
「串本ってどこにあるんですか」
「和歌山。本州の最南端だよ」
「和歌山ならここから近いですよね」
「近くもないけど、まあ一泊二日ならば十分な観光地だね」
「ほな、串本行きは決まってたことやないんですか」
「どうだろ」越田は首をひねる。
「串本では、どこに泊まるとか、そういうこと言うてませんでしたか」
「ああ、そう言えば、二人でどこそこに泊まれるといいなぁ、みたいなことも言っていたけれど、まさかこんなことになるなんて思いもしてなかったから、まともに聞いてなかったね。もしかしたら、何かの拍子に、思い出せるかも知れないけれど、今、すぐすぐには無理だね」
「このこと、刑事は訊かなかったんですか。昨日尋問受けたんでしょ」
「ああ、尋問は受けたよ。何度もしつこく訊かれたけれど、串本の話は出なかったね」
「でも森さんのことはかなり訊かれたと思うんですけど」
「その通り。何度も何度も訊いてきたね。だけど、本当だね。なんで串本の話が出なかったんだろ」
「わざと刑事には話さなかったとかではないんですね」
「なぜそんなことしなければならないのさ。こっちだって被害者じゃないの。今みたいに訊かれてたら、やっぱり今みたいに答えてたさ」
「他に何か、森さんたちが寮から出ていった理由とか、何でもええんですけど、森さんたちの失踪に関して、何か思い当たるものはないんですか」
「それがさ。あたしは森君たちのことを何にも知ってなかったんだなと、刑事に尋問されて初めて気がついたのさ。昨日は、その質問を、何回されたかわからないほど繰り替えしされたのにね」
「と、言わはりますと?」
「おや、ヨシハン、あんた関西弁しゃべるようになったんだね」
 越田は、ようやく吉原が関西弁を使っていることに気づいて、指摘してきた。
「使う理由がわかりましたから、偽関西弁ですけど、がんばってますわ」
 ありのままを話した。その言葉だけで、越田は吉原が関西弁を話す理由に合点がいったようで、
「ほう。それならば仕事のほうもしっかりと覚えたんだろうね。昨日はドタバタして確認できなかったけれど」と感心したような表情になった。
「約束どおり、一通りのことはできるように仕込みましたわ」
 ひとり飯を食っていたムラタンが、ようやく会話に参加して胸を張った。
「そういえば店長も、筋がいいと言っていたねぇ」
「ほんまですか。それ、うれしいなぁ」心の底からうれしく感じた。「ほんで、森さんたちのこと、何も知らなかったってどういうことですか」
「あの子たち、森君たちだけど、自分たちのことを何もしゃべらなかったんだなってことさ。たとえばこのムラタン。まだうちの店で働き始めて一ヶ月だけど、もう、出身は広島県尾道市やとあたしは知っている。そういう世間話は普通にしてるわけだよ。だけど森君たちはうちの店にきて三年くらい経つけれど、そういう世間話でも、自分たちのことは話さなかったんだろうね。何も記憶に残ってないんだよ。もっともあたしも従業員の身元調査のようなことをするわけでもないからさ。そんなふうに秘密にされたとしても、こんなふうに事件でも起こらなきゃ、そのことは別に気にもならないんだけどね」
「なるほど。今の串本の話、刑事に教えはりますか」
「向こうから訊きにきたら、それは教えるだろうけれど、こっちからわざわざ教えたりはしないさ。そんなことしたら、もっとこっちの立場が悪くなる気がするからね」
「了解です」
「あかん。もうこんな時間や。早うに飯食って店に出えへんと」
 ムラタンが大声で言う。そう言うムラタンは、あらかた食べ終えていた。
「最後にひとつだけ。南谷醤油商会の肇さん。昨日は、この寮にくるはずやったんやないんですか」
「そうだよ。ビールと醤油の配達を頼んだからね」
「もうほんまにアウトやぞ。店に行かな」
 ムラタンの催促に、茶碗の飯に味噌汁をぶっかけ、ネコマンマにして、かき込んだ。上等だと言われたカレイの一夜干しが食べられなかったのが心残りだが、致し方ない。それ以上の収穫はあった。
しおりを挟む

処理中です...