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片恋【書生・吹雪視点】
しおりを挟む「きゃあ!」
「亜希子お嬢さん!」
英語の本とにらめっこしながら歩いていた亜希子お嬢さんがつまづいて転倒しようとしていた。
それを目撃した俺は咄嗟に、彼女を庇おうと腕を伸ばした。
──ドタドタン!
「いっ…てぇぇ…」
……イマイチ決まらない。
予定では片腕で支えてあげる予定だったのだが、俺は亜希子お嬢さんを抱えたまま一緒に床に倒れ込んでしまった。
「う…」
「ご無事ですかお嬢さん。本を読みながら歩くのはいけませんよ」
「ごめんなさい…」
亜希子お嬢さんが呻きながら身じろぎした。彼女の柔らかい身体の感触に俺は動けずにいた。
本調子じゃないらしく、いつもの元気がない。この間から様子のおかしい亜希子お嬢さん。本人は平然を装っているつもりらしいが、バレバレだ。
そして、彼女を動揺させている人間も目星がついている。
「なんの音だ!?」
バタバタと大きな足音が響く。
あぁ来たな、と視線を上に向けると、あの男が逆さに見えた。俺が仰向けで床に倒れているせいである。
あいつは駆けつけるなり、俺達を見てハッとした顔をしていた。
「な…なにを」
俺たちの状況を誤解して顔をこわばらせたのがわかった。
ここの住み込み奉公人として働いている婦人の息子だというその男は旧知の仲とかで、頻繁に宮園家に出入りしている。今日も母親の顔を見に来たとか言ってやって来たんだったな。
「た、忠お兄様っ!?」
亜希子お嬢さんはぎょっとした顔で身体を起こすと、素早い動きで俺から離れた。
もう少しあのままでいたかったなと思ったのはここだけの話。
「…何していたの? 廊下で、抱き合って」
「抱きっ…違います! 転倒しかけたところを吹雪さんに助けて頂いただけです! なんですかそのいやらしい言い方!」
おーおー、わかりやすい嫉妬の仕方で結構ですね。俺のことわかりやすく睨んじゃって。この人結構あからさまだよな。
……だけど鈍感な亜希子お嬢さんには伝わらないと思うなぁ?
「そうだとしても、年頃の男女が抱き合うのはあまり感心しないな」
早乙女さんが冷たく突き放すように言うと、亜希子お嬢さんがぐっと口ごもり、一瞬泣きそうな顔をしていた。
……ガキかよ。亜希子お嬢さんが好きなら奪えばいいのに。
俺はこの亜希子お嬢さんが好きだ。
あわよくば、と思ったけど、この2人完全に想い合ってるもんな。とてもじゃないが、無理そうだ。
別に致命的な身分差があるわけでもないのに、なんで彼らはダラダラ両片思いをしているのだろうか。俺はそれが理解できない。
俺のことは牽制するくせに、本人に想いを伝えることはしない。結婚できる年齢の娘を前にして求婚すらしない。この早乙女という男。
そこのところ男としてどうなんだ。見ていてイライラしてしまう。
──そんなヘタレのままなら、俺が奪ってしまうぞ。
「お嬢さん可哀想に。誤解だと言っているのに大人げない人ですねぇ」
わざと芝居がかった声を出して、亜希子お嬢さんを慰めようと彼女の頭に手をやると、その手を阻止するように早乙女さんに掴まれる。先程よりもキツく睨まれるおまけ付きで。
ギリギリと握られる手。
イッテェェ……
あんたさぁ、こっちが一般人だとわかってる? あんたみたいな大男に手を掴まれたら俺の手が粉砕骨折しちゃうんですけど。
そもそも男に手ぇ握られても嬉しくねーよ…
俺の名は吹雪。現在この宮園家に下宿している大学生だ。下宿条件は宮園家での下働き。だけどここの仕事は楽な方だ。勉強できる時間はあるし、食事はちゃんと食べられる。給金だって別に出るんだ。
自分の生まれた家に比べたら天と地の差である。
俺の生家はとにかく貧乏だった。
毎日食料の争奪戦。上の兄弟にはいじめられ、下の兄弟はずる賢く、いいように利用される。真ん中の俺は損な役回りであった。
学のない親から生まれた両親はこれまた学のない人生を歩み、その子どもも同じ道を歩む。貧困の連鎖を繰り返していたわけだが、俺だけは成り上がってやる気持ちでいた。
だけどウチは貧乏。「どんなに勉強ができても無駄だ。生活費が稼げないやつは出て行け」と追い出された。
奨学生として大学への入学権利を勝ち得た俺の道を断とうとしてきたので、むしろ自分から家族を捨ててやった気持ちでいる。
下宿先と仕事を探していたところで宮園家の求人を見つけたのは運が良かった。その時出会ったのが亜希子お嬢さんだった。
はじめは、金持ちのお嬢様だと少しばかり妬んでいたし、話しかけてくることを鬱陶しいと感じることもあった。
勉強好きで、好奇心旺盛の年頃の娘。世間では変わり者だと思われるであろう彼女だが、彼女はそれでも学びたい意志を曲げなかった。
女学校の教本は簡単すぎると言っては、俺が使用している教科書を読みに来たり、昔から可愛がってくれているという軍人の男から本を借りたり……
会話をすれば大人顔負けの返答が返ってくる。彼女は本当に賢い女性だった。…この時代に女として生まれてしまったのが哀れになるくらいに……
一度、彼女に尋ねたことがある。
そんなに勉強ばかりしていたら嫁ぎ遅れますよ? と意地悪な問いかけを。
そんな言葉、もう聞き飽きたとばかりに彼女が苦笑いして言った言葉が今でも忘れられない。
『これから時代は変わります。時に知識は武力にまさるのですよ。女にも学がなくては』
その考えには完全に同意だった。
確かに健やかな体さえあれば食うには困らないだろう。仕事さえ選ばなければの話だが。
だけど年老いたら、身体を壊したらどうだ? そうなった時どうするんだ? と俺はいつも考えていたんだ。
金は大事だ。
世の中キレイ事ばかりじゃない。
金がなければ勉強する機会すら奪われ、満足に食事もできない。そして負の連鎖が繰り返されるのだ。
だから俺はがむしゃらに勉強してきた。生きる術を身につけるために脇目もふらずに勉強してきた。
一人で生きていくと。家族なんて必要ない。自分さえ幸せならと思っていた。
なのに俺は彼女に恋をしてしまった。
生い立ちも違う、手の届かない高嶺の花のお嬢様。いつの間にか俺は彼女に惹かれていたんだ。
世間一般では変わり者扱いされる勉強家の彼女が俺には眩しい太陽のように見えた。
この宮園家では下宿である俺や奉公人全員が家族のような扱いを受けた。旦那様も奥様もお嬢様もみんな優しい人で……俺はあたたかい家族が欲しかったんだと初めて気づかされた。
未来を望んでしまった。
亜希子お嬢さんとの未来を。あたたかい家庭を築いた未来を。
だけど、彼女は別の男を想っている。
哀れな俺はそんな彼女を見て何も言い出せずにいるのだ。
……ヘタレなのは俺もだ。早乙女さんだけを責められない。
綺麗で優しくて努力家の可愛らしいお嬢さん。…亜希子さん。
もうしばらくはあなたを想い続けることを許して欲しい。
■■■■■
「おーい吹雪さぁん、あんたに手紙が来てるぞぉ?」
宮園家奉公人のマサさんから声を掛けられたのは、大学からの帰りだ。俺は礼を言ってそれを受け取ると、差出人を確認する。
「……さくら?」
誰だ?
名字もない……
俺は自分の部屋でそれを開封する。とりあえず中身を見てみなければ。なので手紙を読んでみたのだが…
……吉原の、遊女?
ますます理解できなかった。
俺はしがない大学生だ。賃金をもらってるとは言っても、そんな大金ではない。ましてや郭遊びなんかしたことがない。つまり遊女の知り合いなんざいないのだ。
手紙には「大事な話がある」と書かれている。
知らない相手からのそれは不気味さと罠の匂いを感じる。怪しすぎたので、俺はそれを見なかったふりをした。
まず、なぜ俺のことを知っているんだ?
知らない相手に大事な話? なぜそんな話をする必要がある? 赤の他人のことなんて正直どうでもよくないか?
くずかごに投げ捨てたその手紙を睨みながら俺は考えた。
──遊女。
一人だけ思い当たる人物がいた。
あの日だ。女学校の友人から影響を受けて恋愛ごとに夢見すぎている亜希子お嬢さんが吉原の大門付近で中を観察していた時のことだ。
早乙女さんと話していたあの遊女だ。
大門の向こうで一瞬見ただけだ。美しい顔立ちをしていた気がするが、あまり覚えていない。そもそも俺は会話すらしていないしな。
……なぜ、俺の名を、俺の居住地を知っているんだ?
早乙女さんが話した? …いや、話す必要はないだろう。
そしたら亜希子お嬢さんが? …そもそも遊女でない女人は通行手形がなければ吉原の中に入れない。接触すること自体難しいであろう。
金目当てにしても、俺みたいな貧乏学生を狙う理由はない……狙いは、この大商家の跡継ぎ娘であるお嬢さんか?
……わからない。
でもただ一つ言えるのは……あの日あの時、吉原のあの遊女はお嬢さんに嫌な目を向けていた。
客になりそうな男を奪われて腹を立てていたのかは知らないが、お嬢さんに悪感情を向けていたのは確かである。
なんだか、ひどく胸騒ぎがした。
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