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三章

新たな疑念①

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 摩訶不思議な能力を宿した奇妙な少女―――神崎さよとの出会いから間もなく一週間が経過しようとしていた。
 今日も外では相変わらず、うだるような暑さが続いている。
 昼休み。
 俺はクーラの効いた図書室で、静かに本を読む彼女の隣に腰かけていた。
 相変わらず古びた本の匂いが立ち込め薄暗い室内だが、ここは快適だ。何と言っても涼しい。
 教室にはエアコンが設置されていない。どの学年、どの教室にもだ。
 そのため特に今日のような猛暑日には夕方までむしむしとした熱気が教室全体に立ち込めているのだ。
 そんな教室に比べれば、この図書室は何倍にも過ごしやすい。本などは手に取ることすらしないが、俺はこの冷涼な空気に包まれたくて、昼休みの間中はずっと図書室に居座っていた。人は少ないので迷惑になることもない。彼女のお陰でいい場所を見つけることができたと、俺は内心で少し喜んでいた。
 ちらりと、隣に座る彼女を見る。
 彼女とこの図書室で会ったあの日から、俺は毎日のようにここへ足を運んでいる。
 最初の頃こそ、彼女は迷惑そうな顔で、
「気が散るので帰ってください」
 と、冷たく俺のことをあしらっていたが、いくら言っても聞かない俺に呆れたのか、最近では特に何も言ってこなくなっていた。
 まあ俺自身、彼女と会って話すようなことは特に何もないのだが、昼休みになると何故か自然とこの図書室に足が向いてしまうのだ。
 それが、ただ単に避暑地となるこの図書室に魅力を感じているだけなのか、それともいつか彼女が言っていたように、俺とあの放火事件には何らかの因縁があり、その真相を俺が無意識のうちに追い求めている故なのかはわからない。
 だが、もしも後者ならば、俺はどうすればいいのだろうか。
 二年前のあの事件を除けば、俺はこれまで、普通の人たちと何ら変わらない人生を送ってきたつもりだ。それなのにどうして突然、霊力や呪いやらが関連した事件と俺に関わりがあるという話になるのだろうか。
 ……できることなら、このまま何事もなく穏便に収束していって欲しい。もしも本当に放火ならば、早いところ犯人には捕まってもらいたいと思った。
 俺は図書室へと赴く度、その後の進捗を彼女にそれとなく訊ねていたのだが、特にこれといった進展はないようだった。
 放火事件とクラスメイトの死亡事故から、今日でちょうど一週間だ。あれからというもの、特に目立った事件や事故等は起こっていない。細かい点に目を瞑れば、いつも通りの日常が流れている。
 外では蝉が鳴いている。うるさいくらいに。
 平和だ。
 そう感じた。
 もしかすると、俺は考え過ぎていたのかもしれない。
 呪いという言葉に変に敏感になっていたせいか、俺はこの間のような放火事件がまた起こるのではないかと、心のどこかで密かに危惧していたのだ。
 でも、そんなことは誰も言っていないし、何か具体的な根拠があるわけでもない。完全なる俺の思い込みだ。
 胸の内にとぐろを巻くこの漠然とした憂心は、杞憂に終わるのかもしれない。
 時間の経過と共に、俺は徐々に安堵感を抱き始めていた。これ以上、悪いことは何も起こらない。そう思い込み始めていた。
 ……だがそれこそ、誰が言ったことでもなかったのだ。


 その日は朝から分厚い黒い雲が空一面を覆い、憂鬱な気分になる天気だった。
 いつものように、みらいに心臓に悪い起こされ方をされた俺は、まだ眠い目を擦りながらリビングへと入った。
 何気なくテレビの電源を入れる。
 するといきなり、興奮した女性の声が俺の耳を貫いてきた。
 驚いてテレビを見ると、画面の左半分が黒一色で塗りつぶされていた。
 いや、正確には、その左半分の上側には曇天の空が広がっており、下側には焼野原が広がっていたのだ
 どこかで、似た光景を見た気がする……。
 それが昨夜、俺たちの住むこの町で新たに発生した火事の現場であることは、上擦ったアナウンサーの声によって明らかにされた。
 俺は、まさかと耳と目を同時に疑う。手に持っていたリモコンを床に落っことしそうになった。
 頭の隅から消滅しようとしていた懸念が復活し、再び現実のこととなった瞬間だった。
 テレビのすぐ前まで行って、俺はその内容に耳を傾ける。
 火は一週間前にあった火事と同様、まるで火の気のない場所から上がったようだった。平屋建ての家屋は全焼。死者こそは出なかったものの、今回はそこの住人が軽いやけどを負っていた。出火原因は未だわかっておらず現在解明中。
 犠牲者がいなかったことに、俺はひとまず胸を撫で下ろした。
 だが、奇妙な点が一つあった。
 今回全焼した家は一週間前に全焼した家とは異なり、鉄筋コンクリート製の家屋だった。
 にも関わらず、その家は原形を留めないほどに全てが焼け落ちてしまっていた。柱内部の鉄骨は溶け、歪み、捻じれ、美術館に鎮座しているような奇妙なオブジェへと化けている。
 異常だ。明らかに。
 木造ならともかく、鉄筋コンクリートの家屋がああも簡単に全焼するわけがない。
 何か、特別な要因が働いたのだ。確実に……。
 ―――呪い。
 その単語が浮かんできた時、さよの姿が脳裏をよぎった。
 俺は頭を振る。
 考え過ぎだと自分に言い聞かせる。
 さよに出会って以来、どうも俺はすぐに突飛な考えに頭が行きがちだ。
 呪いで放火―――
 そんな事例が、次から次へと出てきてはたまらない。
 悪い偶然が重なっただけだ。悪い偶然が―――
「どうしたのユウ君。考え事?」
 突然、ひょこっとみらいの顔が俺の目の前に現れた。
 慌てて、俺は笑顔を作る。
「いや、何でもない」
 立ち上がり、俺はテーブルの席に着く。
 テーブルの上には真っ白なご飯と、柔らかな湯気を立てた味噌汁が二人分並べられていた。優しく鼻孔を刺激する味噌の香りが、ざわつく俺の心を落ち着かせてくれる。
 手を合わせ、俺は箸を手に取った。
 ……だが変だ。いつまで経ってもみらいが隣に座ってくる気配がない。
 不思議に思って見ると、彼女は俺に背を向けた状態で、テレビに視線を落としたままその身を固まらせていた。
「どうしたんだよ。早く食べないと冷めちまうぞ」
 俺が声を掛けると、彼女の背中がビクッと震えた。
 そして、
「ユウ君は……さ。この火事のこと、気になる……?」
 俺に背を向けたまま、みらいがそんなことを訊いてきた。
 か細く、小さな声だった。普段の彼女からは想像もできない。
 俺は驚いて訊ねる。
「どうしたんだよ、急に」
「いや、ちょっとね……」
 みらいは言葉を濁らせる。
 いつものような陽気さが感じられない。俺に対する態度も妙によそよそしい気がする。
 こんな様子の彼女を見るのは、初めての事だった。
 俺は心配になり、
「なんだよ? どこか具合でも悪いのか?」
「いや、そうじゃないんだけど………」
「みらい……?」
 彼女の肩が小刻みに震えている。ただならぬ気配を感じた。
 すると、
「―――あ、あのね―――!」
 突如、胃の底から振り絞るような声と共に、みらいが振り向いた。
 しかし、その顔を見て俺は目を見張る。
 彼女の顔面が血の気を失って、真っ白になっていたからだ。
 胸の前で握られた小さな拳が、痙攣するみたいにぶるぶると震えている。
 必死に口を動かしてはいるが、ぱくぱくとしているだけで、まるで言葉になっていない。
「ど、どうしたんだよ。何かあったのか」
 いよいよ本気で心配になり、俺は箸を置いて立ち上がった。
「あっ―――」
 だが途端、彼女の表情に怯えが走る。
「どうしたんだよ。何があったんだよ」
 彼女に向かって一歩踏み出す。
 と、次の瞬間、
「―――ごめん!」
 悲鳴にも似た彼女の叫び声が、リビングに響き渡った。
 俺の足が、思わずその場に縫い付けられてしまう。
「み、みらい……?」
「ご、ごめん! 何でもない! 忘れて!」
「いや、でも―――」
「ごめん! ほんとに何でもないの! ちょっとした独り言だから!」
 ……いや、それは流石に無理がある。誤魔化し方に無理があり過ぎだ。あんな独り言を、俺はこれまでの人生で聞いたことがない。
 それに、こんな風に何度も何度も意味もなく彼女が謝ってくる時は、決まって何か疚しい事や、隠し事がある時なのだ。
 昔からそうだった。手を滑らせて俺のお茶碗を割ってしまった時、俺が貸した本をどこかに無くしてしまった時、俺がいない間に勝手に俺の部屋でくつろいで、布団の上に大量のジュースをこぼしてしまった時―――
 そんなとき、彼女は決まって、
 何でもない。ごめんね。
 を繰り返した。
 すぐに露呈するのに、後でばれて余計に怒られることはわかっているのに、彼女は咄嗟に嘘をついて、誤魔化するのだ。
 だから、きっと今だって―――
「………」
 だが、追求しようとして俺は思いとどまった。
 みらいの様子が、いつものそれとは違っていたからだ。
 震える唇が赤みを失って、紫に変色している。何かに怯えるように身を縮こまらせ、小さな身体を細かく振るわせている。
 ―――異常だ。
 恐らく、いつものように笑って済ませられるようなことではないのだろう。彼女にとって、その告白には大きな決意がいることに違いない。
 だったら―――
「わかった、もう訊かないよ」
 これ以上、食い下がっても意味はない。無理に問い質すことはないと思った。彼女が話したくなった時に話してくれればいい―――そう思った。
 みらいのいつもと違う様子は気になったが、俺は訊かないでおくことにした。
 こういうことに関しては、俺は彼女に信頼を置いていた。
「……ごめんね」
 みらいが今にも泣きそうな声で謝ってくる。
「なに朝から辛気臭くなってるんだよ。ほら、早くしないと朝ごはん冷めちまうぞ」
 再び席に着く。
 暗い空気を晴らそうと、俺はズズッとわざと大きな音を立てて味噌汁を啜った。うまいな、と声に出して言う。実際うまかった。
 だけど、それでもみらいはその場から動こうとしなかった。
 テラス窓から生ぬるい風が吹き込んでくる。レースカーテンが大きく膨らみ、傍にいた彼女の頬を霞めていく。
 ちりん―――……
 ソファの上に放置されていた彼女のスクールバッグから、小さな鈴の音が聞こえた。その正体は、彼女のバッグに付けられていた、小さな熊のキーホルダだった。
 寂し気な音だった。
 ……重たい時間が続く。
 得体の知れない不安が、俺の胸の内に湧き上がってきた。
 彼女は朝食を取らなかった。
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