すべてが叶う黒猫の鈴

雪町子

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第一章

猫と少女

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 目に飛び込んできたのは、アスファルトの灰色を彩る赤、青、黄色――。
 その目に眩しい色たちがひどくうっとおしい。こんなものいらないのに、と何度思ったことだろう。こんなもの、自分には必要がないのに。
 本来なら猫には見えないはずの色まで、その黒猫にははっきりと見えた。遠くのものまで、輪郭もくっきりとみることができる。代わりに夜目はてんできかない。
 まるで人間みたいと言われたこともあるけど、心外だ。あんなくだらない生き物と一緒にしないでほしい。
(まあ、)
 黒猫は塀の上、ぺろりと前足を舐めながら、この世の摂理とも言うべき光景を見下ろしていた。
(弱肉強食という点では、人間もおんなじか)
 すっかり桜も散り終わり緑がぐんと匂い立つ歩道の片隅で、くすくす笑う女の子たちに囲まれて、三つ編みの女の子がひとりしゃがみこんでいた。絶望的な視線の先は笑う少女の足元にある。可愛らしい靴によって踏みにじられた箱から、鮮やかな色が無残にも転がり落ちてていた。
「もうさあ、クレヨンでお絵かきとかやめたら? 幼稚園じゃないんだから」
「わたしたち小三だよ? 見てて恥ずかしいんですけど」
 ボキッ、くすくす。ボキボキッ、くすくすくす。クレヨンが砕けるたび、笑いがもれる。一方、三つ編みの女の子は顔をうつむけているので、どんな顔をしているかはわからない。
「あっ、そろそろピアノ行かなきゃ」
 唐突にひとりが声をあげると、「あたしも」「わたしも」と輪唱のように次々声があがった。
 人間は大人だけではなく子どもまでずいぶんと多忙らしい。すっかり興味がうつったのか、実はもう飽きていたのか、呆気ないほどにさっさと立ち去ってしまった。呆然と砕けたクレヨンを見つめる、三つ編みひとりを残して。
 みじめな光景だなあ、と見るともなしに見ていたら、三つ編みと目が合ってしまった。げっと思ったときには、時すでに遅し。へらっと媚びるような笑みを向けられた。そういうのが一番嫌いなんだよな、と避けるようにそっぽを向いた。やがて砕けたクレヨンでも拾っているんだろう、鈍い動作が視界の隅に映り込む。
「……ごめんね。大切に使うって約束したのに」
 ひとりで何言ってるんだか。とぼとぼ歩き去る後ろ姿をなんとなく見送る。昼寝するはずが、なんだか目が冴えてしまった。黒猫は塀の上、よいしょと立ち上がると、三つ編みとは逆方向へ足を踏み出した。ちりりん、首元の鈴が音を立てる。
(あいつも鈴さえあれば、あんな思いしなくてすむだろうに)
 一瞬の物思いはまばたきが終わるころには消えていた。
 その黒猫は首輪をしていた。鈴がついている。魔法の鈴だ。
 ちりりんと鳴らし、願い事を口にするだけでいい。至極簡単、すべてが叶う。

 お腹が空いたらどうする? ――商店街に行けばいい。
 ぶさいくな魚が飛び跳ねる看板が見えるころ、あたりは食欲をそそる匂いで満ちている。黒猫は軽く首を振るうと、呟いた。
 ちりん、ちりりりん。『魚が食べたい』。
 ほら、黒猫の存在に気づいた魚屋の男がにやりと笑った。あとは店の裏手に回り、おりこうに待っているだけでいい。
「美味いだろ? でも、人間さまの食べるもんとしちゃ、ちょっと質が劣るのよ」
 廃棄されるはずだった鮭の刺身を頬張りながら、人間はどれだけ欲深かなんだろうと考える。
 生きることが保証され、食べることまで保証されると、今度は美味しいことにまで保証が欲しくなる。そのキリのなさ。傲慢さ。……まあ、そのおこぼれに預かるんだから、文句を言えたもんじゃないけれど。
「また来いよ、黒坊」
 伸びてきた手を直前ですっとかわす。お生憎様、僕の頭はそんなに安くないのだ。魚屋の男はけらけら笑いながら、店へと戻っていった。
 ほかの猫たちとケンカになったらどうする? ――なるわけないから心配ご無用。
 町を歩けば当たり前のように猫に出くわす。この町は野良猫が多いから仕方がない。その場合に相手の取る行動はだいたい二パターンだ。関わりあいになりたくないとばかりに目を逸らして道をあけるか、はたまたぎょっとして猛スピードで引き返していくか。
 以前黒猫に手を出した屈強な猫たちが、なぜだかよくわからないが、どいつもこいつも不幸な目にあって姿を消したらしい……というのはこの町の猫にとって鉄板の怪談だ。
 避けてくれる分には好都合だった。だって、あいつらときたらばかばかしくて付き合ってられない。一言目にはやれ集会だとすぐ群れるし。
 とはいえ、猫肌恋しいときというのもあるものだ。
 ちょうど、恋猫同士なのだろう二匹の猫が仲睦まじくお互いの毛を舐め合っているところに出くわした。雄のブチ猫は鼻の下のひげのような黒い毛がなんともまぬけで、雌の白猫はすらりとしたシルエットがとても美しかった。ミスマッチこの上ない。
 黒猫の口元にちいさな笑みが浮かぶ。そう、僕のほうがちょうどいい。
 ちりりん、と鈴を鳴らした。『あの子が僕を好きになりますように』。
 ふいに白猫の薄青い瞳が黒猫に向けられた。次の瞬間、彼女は雷に打たれたように立ち尽くした。
「――ごめんなさい」
 ブチ猫はのんびりした声で「どうしたの?」と問い返す。
「もうあなたとはいられない」
 呆気にとられたブチ猫を置きざりにして、白猫は黒猫のもとに駆けよった。
「わたし、あなたのことが好き」
「うん、知ってる」
 白猫を連れてそのまま歩き始めると、震える声が後ろから追いかけてきた。
「ま、待ってよ!」
 毛を逆立ててやると、黒猫の噂は聞き及んでいるのだろう、ブチ猫はひるんだように後ずさった。あげくの果てに腰が抜けたのか、へたりと座り込む。情けないやつ。
 放って数歩進むころ、無様な負け猫はしょうこりもなくまたわめきはじめた。
「お、お、おれはきみが好きなんだ、大好きなんだ! にぼしより、かつおぶしより……」
 黒猫は三つ編みの女の子の、猫みたいに丸まった背中を思い出した。みじめだなあ。でも、どうしようもない。力がないんだから。
「お願いだから、行かないで……」
 白猫は後ろを振り返らなかった。

「あなたって不思議ね。あなたといると、運のいいことばかりが起きる」
 所狭しと建物が立ち並ぶ路地裏を歩きながら、白猫はそう言ったきり口をつぐんだ。その瞳はとろんとしている。思い返しているのだ。ここ数日味わった、特別を。
「そうだよ、僕といればなんだってできる」
「なんだって?」おかしそうに笑い、白猫は黒猫に寄り添った。
「じゃあ、空から花を降らせてみて」
 冗談だと思っているのだ。黒猫はそれがおかしくて、返事の代わりにちりりんと鈴の音を響かせた。
『花よ、空から降ってこい』
 びゅう、気持ちのいい風が吹いて、ひらり、視界の端になにかがちらついた。
 白猫が息を呑んで見上げた先、桃色の花弁が舞い散るように落ちてくる。
「ちょっと、風で飛んでる! 飛んでる! 窓閉めてえ! それ卒業式のシーンで使うんだからーっ!」
 マンションの一室から騒がしい女の子の声も一緒に。
「……本当に、降ってきた」
 目を丸くしたままの白猫に、黒猫は紙吹雪を落としながら言う。
「にせものだったけどね」
 首を振るったせいで、鈴がふたたび音を立てた。白猫の視線が金色のそれに絡まる。
「ねえ、あなたは人間の飼い猫なの? それとも元?」
 またか。内心うんざりとしながらも、いつもの答えを返す。
「僕は誰の猫でもないし、そうだったこともない。僕はずっと、僕だけのものだよ」
 白猫は不思議そうに首を傾げた。ならばその首輪はなんなのだ、と聞きたいのだろう。それもまた数えきれないほど聞かれた問いのひとつだった。そして、続く言葉を自分はもう知っている。
「……わたし、もっとあなたのことが知りたい」
 ほら来た。じれたような白猫に黒猫は「なんで?」と冷めた目を向ける。
「なんでって……好きになったら、もっと相手のことが知りたくならない?」
「べつに。僕はきみが好きだし、きみも僕が好き。それで十分じゃない?」
 白猫はまだ何か言いたげな顔をしていたけれど、すっかり面倒くさくなって、その口がもう一度開く前に「寄りたいところがあるから、また」と切り出した。足取り軽く、歩き出す。もちろん行き先なんて決めていなかった。
 知りたいと言われても困る。なにせ、知らないんだから。
 黒猫はいつからこの首輪をしているのかを覚えていない。気づいたらしていたし、当然のように魔法を使いこなしていた。
 じゃあ、生まれた時から? ――いいや、ちがう。
 黒猫はうっすらと覚えている。まだ生まれて間もない子猫の頃のこと。兄弟たちに押しのけられては、母親の舌が優しく兄弟たちを撫でていくのをただ物欲しげに眺めていた。欲しいものが手に入らない、歯がゆい記憶。
 だけどそれ以降はもやがかかって、次に思い出せる記憶ではもう鈴をつけていた。
 自分はいわゆる記憶喪失なんだと思う。ただし、そのことに問題を感じたことは一度もない。考えてもみてほしい。過去がお腹の足しになるだろうか?
 あてもなく足を動かしていたら、突然目の前が開けた。なんの障壁もなく橙の夕陽にさらされると、すこし眩しい。
 眼前に広がるのは、さして広くもなく、美しくもない、ありふれた川だ。大した水量でもないので、せせらぎはかすかに聞こえる程度。水は綺麗ではないにしろそこまで汚れているわけでもなく、夏には人間の子どもが足をつけて遊んでいるのを見かけたことがあった。
 草で覆われた柔らかな坂を下ると、人間たちがキャッチボールができそうなぐらいの大きさの芝生にたどり着く。黒猫はぐるりとあたりを見回した。
 制服を着た男女が並んで内容のなさそうな話をいつまでもしていたり、お腹に肉をたぷたぷとぶらさげた中年の男が歩くような速度で走っている。
 要するに、どこにでもある景色だ。おもしろくもなんともない。散歩中の犬に会わないうちにさっさと退散するのが吉だ。
 踵を返した黒猫は、ふと、少し離れたところに見覚えのある後ろ姿を見つけた。
 ひょろりと垂れた、ふたつの三つ編み。両膝を立てて座り込み、膝にたてかけるようにしてスケッチブックを広げている。その傍らに、この間のクレヨンがあった。ばきばきに折られ、ずいぶんと重症の様相だが、それでも役目は果たしているらしかった。
 興味を引かれ、黒猫はそろりと近づいた。三つ編みは集中しているようで気づかない。
 橙色をとり、川面のゆらゆらと揺れる光を目に焼きつけるように見つめては、やがて紙へとクレヨンを刷り込むように塗っていく。その手つきには一切の迷いがなかった。何度でも重ね、ときにはこするので、手には無数の色が写り込んでいた。
 どうせたいしたこともない絵を描いているのだろう。うしろから覗きこむようにして見た――瞬間、世界から音が消えた。
 赤、橙、黄色、桃色、水色、青、黄緑、白……無数の色が川面で揺れている。ゆらゆらと揺れて、輝いている。
 ひかりの絵だった。
 なんだこれ。絵から視線を外し、目の前の風景を眺めてみる。それからまた絵を覗き込んでは、景色を見る。何度もそれを繰り返した。
 ふう、と息をついた女の子は膝を伸ばすと、スケッチブックごと手をぐんと伸ばした。風景と見比べるようにして、全体の出来栄えを確かめているらしい。集中がゆるんだせいか、ようやく横で覗きこむ黒猫に気がついた。
「わあ! いつからそこに!?」
 すっかり目を奪われていた黒猫も声にびくりと身構えた。しばらくお互い動きを止めて様子を伺い合う。ついこないだも同じことをしたような。記憶をなぞるように三つ編みがひきつった笑みを浮かべた。あまつさえ、手まで伸ばしてくる始末。猫なら誰でも触らせると思うなよ。黒猫がするりと逃げてしまうと、三つ編みはやり場をなくした手を引っ込めて、ごまかすようにまた笑う。
 こうして見ると、やはりこの前のみじめな女の子だった。それなのに――。
 ふたたび絵に向き合った少女の手が、次に掴んだのは紫色のクレヨンだった。黒猫は動揺した。そんな色、この景色のどこに?。
 気がつけば、自らとったはずの距離を自ら縮めていた。傍らの黒猫に気づき三つ編みの口元がやわらかく弧を描いた。その笑みは今までと違って、ずいぶん自然なものだった――黒猫は絵に夢中で気がつかなかったのだけれど。
 いつもの夕暮れに、いつもの河川敷。
 自分の目にはありふれてくすんだ、ただの風景。それなのに。
 みじめですらあった少女の目を通して見ると、世界がこんなにも美しいことに、黒猫はただただ驚いていた。
 これがほしい、と今までになく強く思う。この世界が自分も見たい。見てみたい。
 黒猫はちりりん、と鈴を鳴らした。そして、いつものように願う。
『この絵のように世界を見ることのできる瞳を、僕に』
 けれど、どれほど待ってみても、もう一度繰り返してみても、願いは叶わなかった。
 退屈を絵にしたような水面が夕日を跳ね返している。
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