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第二章
特別の瞳
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毛並みが温かな舌でぺろぺろとつくろわれていく。その感触が黒猫は好きだった。母猫をちらりと振り返り、ほら、と思う。いつものようにその目はいとしげに細められている。しかし、瞬きのうちに母猫の姿は消えてしまった。代わりに黒猫の傍にいたのは、そばかすが印象的な女の子――のぞみだった。手のひらが目の前に差し出される。そこには美味しそうなものはなにも載っていなかったけれど、黒猫はぺろりと舌で舐めてやった。そうすると、ほらね。のぞみの瞳はきらきらと輝く。だけど、またのぞみもいなくなった。
ぽつり。頭に感じた雫はすぐに大雨へと変わり、気づけば水の底をただよっていた。
『 』
黒猫はなにかをつぶやいた。がぼぼ、かぽ。言葉にならない音は、泡になって消えた。
鈴は鳴らない。息ができない。あとにはきっと、何も残らない。
息を止めていたんだろう。目を開けた瞬間、ようやく息を吸えたような感覚があった。今いる場所を確かめる。日当たりのいい、公園の石垣。愛すべき昼寝の時間に、息苦しさで目覚めるなんて最悪だ。黒猫はそう毒づきながらも、夢であったことに心からほっとする。
寝起きの頭をぶんぶんと振るうと、首輪についた鈴がちりんちりんと音をたてた。
悪夢なんてめずらしい。昔の記憶が戻ったからだろうか。あんなもの、思い出さなければよかった。今の僕には必要ないものなのに。もう一度忘れてしまえないものか。
心臓の音がまだ速い。目をぎゅっとつむると、ああだから思い出したくないんだってば、瞳に浮かぶ特別な色が頭をよぎった。そんな目でこっちを見るなっての。
このまま一匹でいたくなくて、黒猫は白猫を探しに石垣から飛び降りた。
とはいえ、いつも会いに来るのは白猫のほうだったから、いざ自分から会おうとすると、白猫のいそうな場所がわからない。行く当てもとくに思い浮かばず、商店街の裏道を歩いていると、揚げたてのコロッケの匂いがした。足取りは途端に重くなる。
おそるおそる大通りの様子を伺うと、絶対に会いたくない男の姿は肉屋の前には見当たらなかった。
ほっとしたのもつかの間、肉屋から少し離れたベンチに見覚えのある顔を見つけた。
紙袋を脇に置いてコロッケを両手に無表情で食べ進める、派手な服を着た女。じっと見てしまったのがいけなかった。気づいたときには、黒く縁取られ、音をたてそうなまつ毛の下の瞳がこちらを見ていた。
「げっ……黒猫と目が合うとか、超不吉……」
至極嫌そうなしかめ面。あげく、手のひらでしっしっと追い払う仕草をされる。
間違いない。山田に『唐木田さん』と呼ばれていた、そして見事な蹴りをお見舞いしていたあの女だった。しかし、どいつもこいつも頭が悪くてうんざりする。黒猫というだけで不幸を呼べたら、この世はとっくに滅亡しているだろうに。
すっかり気分を害して立ち去ろうとする黒猫の背中に慌てた声がかかる。
「あっ、待って、ごめん! 今の八つ当たり……黒いのなんてしょうがないじゃんね。はぁ、あたしってほんと性格悪い」
振り向くと、しょんぼりと長い髪ごと頭を垂れる姿があった。
頭は悪そうだが、悪い人間ではないのかもしれない。少しだけ興味がわいてベンチから遠くない場所に腰を下ろすと、「さっきこっち見てたっしょ?」途端に気やすく話しかけてきた。変わり身の早いやつだな。
「コロッケ食べたかった? でも、これはだめ。研究用だから」
どうやら誤解しているようだが、山田のように猫の言葉が通じるわけもない。黙っていると唐木田はにっと歯を見せて笑った。
「好きな男のために好物研究してんの。健気っしょ?」
茶に染めた髪をくるくると遊びながら、「おんなじもの作っても、比較されちゃうだけだしなー」と漏らす唐木田の瞳はきらきらと光っていた。
それは確かさっきも夢で見た、『特別』なひかり。
「あっ、リップとれた。もう全部山田のクソバカのせいなんだから……」
ティッシュで口元の油をぬぐいながら、唐木田はまるで呪詛のようにつぶやく。
「平気で嘘つくわ、無精髭汚いわ、サンダルだわ、目が笑ってないわ、とにかくうさんくさいんだから、あいつは。皆ともっと仲良くすればいいのに、距離とるし。近づいたと思っても全然近づけなくて……あー! ほんっとイライラする」
空になった紙袋をどこまでも小さく折りたたみながら、でも、とぼんやりとした口調で続けた。
「休講になって暇だなどうしようかなってぼうっとしてたはずが気づいたらここにいたの。ここに来たら会えるかもしれないって思ってたのかな……会えなかったけど。やっぱ黒猫のせいかなー」
言うやいなや、しまったとばかりに口を押さえる。
「今のナシ。愚痴聞いてくれてサンキューね」
きっとウィンクのつもりなのだろう、両目を閉じて唐木田は笑った。
どいつもこいつも変な色を浮かべて何が楽しいんだろ。まったく全体理解不能。そう思う一方で、どこかひるんでいる自分に気づいて愕然とする。
だってあの眼差しがいけない。
唐木田の瞳は、彩のものと重なる。花があふれるあの庭で、『特別』がこちらに向けられた気がした。瞬間、居てもたってもいられなくなったのだ。踏み込まれた気がして。
(ひるむ? この僕が?)
――冗談じゃない。
ぽつり。頭に感じた雫はすぐに大雨へと変わり、気づけば水の底をただよっていた。
『 』
黒猫はなにかをつぶやいた。がぼぼ、かぽ。言葉にならない音は、泡になって消えた。
鈴は鳴らない。息ができない。あとにはきっと、何も残らない。
息を止めていたんだろう。目を開けた瞬間、ようやく息を吸えたような感覚があった。今いる場所を確かめる。日当たりのいい、公園の石垣。愛すべき昼寝の時間に、息苦しさで目覚めるなんて最悪だ。黒猫はそう毒づきながらも、夢であったことに心からほっとする。
寝起きの頭をぶんぶんと振るうと、首輪についた鈴がちりんちりんと音をたてた。
悪夢なんてめずらしい。昔の記憶が戻ったからだろうか。あんなもの、思い出さなければよかった。今の僕には必要ないものなのに。もう一度忘れてしまえないものか。
心臓の音がまだ速い。目をぎゅっとつむると、ああだから思い出したくないんだってば、瞳に浮かぶ特別な色が頭をよぎった。そんな目でこっちを見るなっての。
このまま一匹でいたくなくて、黒猫は白猫を探しに石垣から飛び降りた。
とはいえ、いつも会いに来るのは白猫のほうだったから、いざ自分から会おうとすると、白猫のいそうな場所がわからない。行く当てもとくに思い浮かばず、商店街の裏道を歩いていると、揚げたてのコロッケの匂いがした。足取りは途端に重くなる。
おそるおそる大通りの様子を伺うと、絶対に会いたくない男の姿は肉屋の前には見当たらなかった。
ほっとしたのもつかの間、肉屋から少し離れたベンチに見覚えのある顔を見つけた。
紙袋を脇に置いてコロッケを両手に無表情で食べ進める、派手な服を着た女。じっと見てしまったのがいけなかった。気づいたときには、黒く縁取られ、音をたてそうなまつ毛の下の瞳がこちらを見ていた。
「げっ……黒猫と目が合うとか、超不吉……」
至極嫌そうなしかめ面。あげく、手のひらでしっしっと追い払う仕草をされる。
間違いない。山田に『唐木田さん』と呼ばれていた、そして見事な蹴りをお見舞いしていたあの女だった。しかし、どいつもこいつも頭が悪くてうんざりする。黒猫というだけで不幸を呼べたら、この世はとっくに滅亡しているだろうに。
すっかり気分を害して立ち去ろうとする黒猫の背中に慌てた声がかかる。
「あっ、待って、ごめん! 今の八つ当たり……黒いのなんてしょうがないじゃんね。はぁ、あたしってほんと性格悪い」
振り向くと、しょんぼりと長い髪ごと頭を垂れる姿があった。
頭は悪そうだが、悪い人間ではないのかもしれない。少しだけ興味がわいてベンチから遠くない場所に腰を下ろすと、「さっきこっち見てたっしょ?」途端に気やすく話しかけてきた。変わり身の早いやつだな。
「コロッケ食べたかった? でも、これはだめ。研究用だから」
どうやら誤解しているようだが、山田のように猫の言葉が通じるわけもない。黙っていると唐木田はにっと歯を見せて笑った。
「好きな男のために好物研究してんの。健気っしょ?」
茶に染めた髪をくるくると遊びながら、「おんなじもの作っても、比較されちゃうだけだしなー」と漏らす唐木田の瞳はきらきらと光っていた。
それは確かさっきも夢で見た、『特別』なひかり。
「あっ、リップとれた。もう全部山田のクソバカのせいなんだから……」
ティッシュで口元の油をぬぐいながら、唐木田はまるで呪詛のようにつぶやく。
「平気で嘘つくわ、無精髭汚いわ、サンダルだわ、目が笑ってないわ、とにかくうさんくさいんだから、あいつは。皆ともっと仲良くすればいいのに、距離とるし。近づいたと思っても全然近づけなくて……あー! ほんっとイライラする」
空になった紙袋をどこまでも小さく折りたたみながら、でも、とぼんやりとした口調で続けた。
「休講になって暇だなどうしようかなってぼうっとしてたはずが気づいたらここにいたの。ここに来たら会えるかもしれないって思ってたのかな……会えなかったけど。やっぱ黒猫のせいかなー」
言うやいなや、しまったとばかりに口を押さえる。
「今のナシ。愚痴聞いてくれてサンキューね」
きっとウィンクのつもりなのだろう、両目を閉じて唐木田は笑った。
どいつもこいつも変な色を浮かべて何が楽しいんだろ。まったく全体理解不能。そう思う一方で、どこかひるんでいる自分に気づいて愕然とする。
だってあの眼差しがいけない。
唐木田の瞳は、彩のものと重なる。花があふれるあの庭で、『特別』がこちらに向けられた気がした。瞬間、居てもたってもいられなくなったのだ。踏み込まれた気がして。
(ひるむ? この僕が?)
――冗談じゃない。
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