すべてが叶う黒猫の鈴

雪町子

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第三章

天使の住む部屋

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 ギィ。一段のぼるたび金属のきしむ音がする。
 これは……のぼっていのか? ダメなんじゃないのか? 逡巡するうちに山田は赤く錆つく階段をとっくにのぼりきっていた。
「あ、もしかして黒猫ちゃんも天使は天空住まいと思ってたクチ? ざーんねん、空は空だから。家とかないから」
 空に住んでいるとは思わなかったが、オンボロ木造アパートに住んでいるとも思わなかった。二階から「早く早く」と手招きされ、黒猫は仕方なしに階段に足をかけた。キィ。キィ。キィ。もう帰りたい。
「ここが俺の城、二〇五号室。風情があっていいでしょ~」
 どうにかたどり着いた先、鍵を差し込んでからもしばらく山田はガチャガチャと手を動かしている。「開けるのにちょっとコツがいるんだ」と、なぜか嬉しそうな顔をしているのが謎だ。微妙に押したり引いたり鍵の角度を変えたりして、ようやく扉が開いた。
 この部屋の印象をどう言い表せばいいだろう。一言で言うと、ごちゃついていた。統一感がなかった。ありとあらゆるものをとりあえず詰め込みましたと言わんばかりに、おおよそ基準と言うものが存在していなかった。
 古びた畳が六つほど敷かれているんだろうその部屋は、ぎっしりと足の踏み場もないほど物であふれていた。子ども用のおもちゃから、ロッキングチェアー、変なかたちの壺、小難しそうな分厚い本、目が大きい女の子が表紙のマンガ、バランスボール、将棋盤、はてにはツボ押しまで。
「なんかいろいろ面白そうだからさー、つい持って帰っちゃうんだよね」
 山田はそう言って、げしげしと足で適当に物を避けてスペースをつくると、
「好きなところにどうぞ」
 言葉だけはおもてなしてくる。しかたなく部屋の隅にちょこんと腰を下ろすと、食べ物を贅沢に盛られた皿と牛乳の器が目の前に置かれる。
「本当はこういうときお酒を飲むものらしいんだけどさ。天使はアルコールを口にしたら酔っ払って魔法で地球を破壊しちゃうかもしれないでしょ?」
 パックのオレンジジュースを吸い込みながら、相変わらず本気なんだか冗談なんだか分からないことを言う。まあいい。食べ物を前にすれば、どんなこともどうでもよくなるものだ。気づけば皿ごと食べてしまいそうな勢いでかぶりついていた。
 開け放した窓から外の音がする。子どもの遊ぶ声、車が道を過ぎる音、名前も知らない鳥が鳴いて、葉っぱがこすれる。風が聞こえる。
「――天使って皆、あんたみたいなの?」
 お腹がふくれて眠気が訪れ始めたころ、ふいに黒猫は聞いてみたくなった。
「山田以外にもいるんだよね? 神様の……」
 言いかけた言葉はやたらきらきらとした瞳に圧倒されて引っ込む。
「今黒猫ちゃん、俺のことはじめて名前で呼んでくれた感じ? わー、感激! えー、もっかい言って言ってー」
 どうやったらこの男と話していてうんざりせずにいられるのだろう。「もういい」の『も』まで出かけたところで、「いるよ」とあっさり声が続いた。
「でも、俺みたいって言われたらどうかな。みんなもっと仕事に真面目だし、無駄なことはしないから」
 開いたまま置かれた本が目に入ったのか、「電子書籍も便利だけど、めくるっていう行為が好きなんだよね」と意味もなくページを繰ってみせる。
「俺たち天使って人間とよく似てるでしょ。まあ、そうつくられたんだから当たり前なんだけど。まあとにかくよく似てるけど全然違う。何が違うかっていうと、最初から今の形をしていること、最初からなんでもできること、最初からやるべきことがあること、そのために生まれてきたこと。この世に落ちて目を開けた瞬間、全部わかってるんだ。必要も無駄もね。だから俺たち天使は迷わない。でも、人間はちがう」
 本を再び置くと、ごろりと転がり天井を見る。
「この世界にきてびっくりした。何から何まで無駄ばっかりで。無駄なことを気にして、無駄なことに大騒ぎ。無駄に傷つき、無駄に死ぬ。天使は皆そういう人間をいとおしく思ってるよ。でも、それは人間が猫を可愛いっていうのとおんなじ。可愛い可愛いって、いとおしくバカにしてるんだ。いけすかない連中でしょ?」
 いけすかない筆頭が笑う。
 黒猫は山田が『お仲間だ』と自分を表現した、その理由を理解した。
 いけすかないどころか、まったく同じように思っている。いとおしく思うどころか、表も裏もなく、心の底から馬鹿にしている。黒猫には鈴があるから。最短経路でいけるから。無駄を持たずにいけるから。だからできないやつらが理解できない。
 だから――山田もたぶん『特別』を持っていない。面白そうだからと集めたこのものたちだって、きっとなんのためらいもなく捨てられる。
 並んで天井を眺めてみる。変なシミがいっぱいだ。山田に似て、天井までもがうるさい部屋。ふ、とよくわからない笑いがこみ上げた、そのときだった。
 ピンポーン。
 ドアのチャイムが鳴った。山田はちらりと一瞥したものの動く様子はない。
 ピンポーン。ピポーン。ピポピポピポーン。ピポピポピポピポピポーン。
 いるのはわかっているぞと言わんばかりに、まるで諦める気配を見せない。なんだこの我慢勝負みたいな状況は。
「ねえ、あれってひとが来たってことなんでしょ。出ないの?」
「……やっぱり出なきゃいけないと思う?」
 首のうしろをかりかりかいて、山田はようやく腰をあげた。「なんでかなあ……」わけがわからないことをつぶやきながら。追い打ちのピンポーンが鳴り響く。
「ほら! やっぱり、いるんじゃない!」
 ドアが開くやいなや、姿より先に飛び込んできたのは声だった。遅れておんぼろな扉の向こうに、思った通りの姿、仁王立ちで般若のような顔をした唐木田が現れる。
「えーと。失礼ですけど、家をお間違えじゃ?」
「なんでよ。ここまで来てあんたに用ないわけがないでしょうが」
「ですよね……ていうか俺、きみにここの住所教えたっけ?」
 山田が扉によりかかりながら訊ねると、唐木田は一瞬バツが悪そうな顔をしながらも「……年賀状」とつぶやく。
「年賀状書くから住所教えてって言った」
「あっ、あれか!」
 ぽんと手を打ち、感心したように何度か頷く。「なるほどなるほど、どうりで随分時季外れだと……」自分で教えていたらしい。こいつ実はちょろいんじゃないか?
「もーここに来るまでに迷って汗かいちゃった。ほんとぼろすぎてびびったし。今時トタン屋根のアパートとか、なかなかないでしょ。しかも部屋、散らかりすぎ! ほら、だからあんたってさあ……」
「で?」
 唐木田はきょとんとする。
「『で?』って?」
「用があるから来たんでしょ」
 とたんに黒く縁どられた目が泳ぎ始める。あんなに威勢がよかったのが嘘みたいに。
「用っていうか……まあ、ええと、なんていうか、あたしこう見えて世話好きっていうか余計なおせっかいが性分っていうか、なんていうか……その」
 言葉は二周三周と空転を繰り返す。ようやく話すより早いと判断したのか、手にしていた小さなバッグを山田の前に突き出した。
「はいっ。これ、差し入れ。コロッケ好きなら、肉じゃがも好きでしょ! ……たぶん」
 睨んでひとを殺せそうな目が、今は山田の足ばかり見ている。声は裏返りそうなほどよろついて、まっすぐに伸びた腕は少しだけ震えている。
 あの時のだ、と気づいた。肉屋近くのベンチ、コロッケを頬張る横顔。
 特別な色を浮かべた瞳で、今にも踊り出しそうな声で、唐木田はそっと教えてくれたのだ。
 好きな男のために、好物を研究しているのだと――。
「受け取れない」
 驚くほど感情のこもらない、平坦な声だった。あたたかくもないし、冷たくもない。ただ何にもなくて、その何にもなさが唐木田を間違いなく固まらせていた。ぎこちない動きで髪をかき上げながら、動揺を押し隠して笑う。
「あの……あのさ。かん、勘違いしてるんじゃない? ただ……あたしはただ、あんたがコロッケばっかり食べてるから! コロッケばっかり食べてるから、栄養偏るよって、ただそれだけで……っ」
「心配してくれてありがとう。でも、俺はいらないから。唐木田さんが食べて」
「…………いらないんだ?」
 山田は迷わず答えた。
「うん」
 唐木田の瞳から色がなくなっていく。栓が抜けてしまったみたいに。
「……あたしだって、」
 次の瞬間ものすごい音がして、地面にプラスチックの器が転がった。手にしていたバッグを投げつけたのだ。
「あたしだってこんなのいらないわよ!」
 真っ赤な瞳でぶつけるように叫ぶと、ドアから見える長方形の世界から姿を消した。遠くでカンカンカンと音がして、赤錆だらけの階段をひとり駆け下りていくのがわかった。きっと、大粒の涙をこぼして。
「あーあー、派手にやってくれちゃって」
 器の蓋がふっとんだらしい、玄関口には、ほろほろのじゃがいも、にんじん、玉ねぎ、糸こんにゃくがあちこちぶちまけられていた。広がる汁からじわりと香りがたちのぼってくる。おいしそうな匂いだった。しゃがみこんだ姿を見て、掃除を始めたのかと思ったが、その手はおもむろにじゃがいもを掴み、ひょいっと口の中に放り込んだ。
「甘っっっっっっ」
 スイーツかよ、と苦笑して。
「――なんで受け取れないの?」
 食べるんなら。落ちたものを食べるぐらいには思っているのなら。あの子は「スイーツかよ」って言われて顔では怒っても、きっと踊り出すぐらいに嬉しかった。きっと、ひとりで泣いたりしなかった。
 山田の目が黒猫をとらえる。さっきまで近しく感じていた瞳は、もうかけらも近くない。
「さっき言わなかったっけ? いらないからだよ。……黒猫ちゃんだって、そうでしょ?」
 見えない手が伸びてきて掴まれた気がした。心の中の、しっぽみたいな部分。
「帰る」
 足元をすり抜けると、山田は何も言わずにそっと扉を開いた。ほんの少しの隙間が生まれる。むわっとした空気が懐かしかった。閉まる直前、声が聞こえた。
「今日はどうもありがとう。また近いうち」
 ……こっちはもう二度とごめんだっての。
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