すべてが叶う黒猫の鈴

雪町子

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第五章

恐れた日

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「どうしようかな……」
 彩が言った。
 縁側でまどろみかけていた黒猫が顔を上げると、彩があっと言うように口を覆う。
 曇りのせいか、あたりは暑くなりすぎず風が気持ちいい。すうすうと寝息を立てる白猫を起こさないように、彩はひそひそ声で続けた。
「あのね、どんな絵にしようか考えてたの。今度は練習じゃなくて、本番の」
 ……ということは、何かしら彩の中の黒猫というものが掴めてきたということだろうか。
 とことこと歩み寄って、スケッチブックの中を覗き込む。まだ何も描かれていない、真っ白な更地だ。頭の中に絵を描いているのか、彩はそっと目をつむった。
「わたしの中の、黒猫くんのイメージはね……」
 黒猫の目には、彩が猫になってそっと獲物を狙っているように見えた。なんだかわくわくする。『それ』が気づかないよう足音を立てず慎重に後ろに回り込む。息を殺し脚にぐっと力を溜めて、溜めて、それから一気に――。
「――どういうつもりだ!」
 烈火のような怒りに満ちた声で、『それ』は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
 ガラガラと枯れた男の声は家の中からだ。彩の祖父の声だろう。黒猫も何度か出くわしたことがあった。眉間に常にしわが寄っているような近寄りがたい男だ。黒猫たちのことも彩が嬉しそうだからと黙認しているが、内心はわからない。校長という学校の教師のなかのボス猫的な存在だそうで、なるほど生徒を怒鳴り慣れていそうな声だった。
 ぎょっとした顔で、彩は家の奥に耳をそばだてている。彩の父親のぼそぼそとした声があとに続いた。ちなみに父親の職業はシステムエンジニアだとか。こちらはまったく想像すらできない。
「父さん、こっちは徹夜明けで疲れてるんだよ。大声出すのはやめてくれないか……」
「なんだその言いぐさは! 泊まり込みだか知らんが、ろくに家にも帰りもしないで! 普段そばにいられないんだ。こういう時ぐらいは彩のそばにいてやったらどうなんだ」
「仕方ないだろ、仕事なんだから。そんなことより、せっかく早帰りできたんだ……寝かせてくれよ」
「そんなことだと!? だいたいお前は……」
 なおも続く言い合いに、彩の顔がみるみるこわばっていく。
「な、何事……?」
 突然の雷によっぽど驚いたのか、白猫は縁側の下に逃げ込んで、警戒したように様子をうかがっていた。黒猫はさあ、と首を傾げる。
「ご、ごめんね。今日はここまでにさせてもらってもいいかな……」
 スケッチブックを閉じると、彩は慌ただしく家の中へと消えていった。どうせ『わたしは大丈夫だから』とでも言うんだろうと思っていたら、本当にそんなようなセリフが聞こえてきたので、うんざりした。

 ご飯をもらい損ねてしまった、ということに気づいたのは当てもなく歩いているうち、街路樹の木漏れ日の形がなんとなく魚に見えたからだ。
 最近は毎回お礼のように食べ物をもらっていた。いまや黒猫の大好物だと思われているらしく、毎回魚肉ソーセージだが。
「お腹すいたね。今日は何食べたい?」
 少し後ろを歩いていたはずの白猫を振り向くと、なぜだがぼんやりした目で、黒猫と同じようにアスファルトに映る影と光を眺めていた。
「花?」
 呼びかけるとはっとしたようにこちらを見る。照れたように笑いながら。
「ボーッとしてたみたい。さっき、すごく懐かしい夢を見たから……」
 どうやらまだ寝ぼけているようだ。いったいなんの夢を見ていたんだか。黒猫がもう一度同じ質問をすると、白猫はすまなそうな顔をした。
「ごめんなさい。わたし、この後行きたいところがあって……また誘ってくれる?」
「そっか。うん、じゃあまた」
 お互いにしっぽを振りながら、黒猫は商店街へ向かうためにまっすぐ、白猫は曲がり角へと消えていった。

 夕暮れ近くの商店街は今日もがやがやと人でにぎわっている。小道を抜けて、大通りに侵入した黒猫は、肉屋の前の長蛇の列を見てさっと身構えた。またあの男が現れるんじゃないかと思ったのだ。
 幸い山田はいなかった。いなければいないで、なんとなく肩透かしを食らったような気分になるから不思議だ。
 列に並ぶ人間をなんとなく眺めているうち、はたと目が止まった。暇つぶしなのか無意識なのか、カツカツ、とヒールのかかとを鳴らしている女のところで。
 山田に、会いに来たんだろうか。
 唐木田はひとつだけコロッケを頼み、近くのベンチに座ってぺろりと食べきってしまうと、すぐに立ち上がりいなくなってしまった。
 コロッケが食べたかっただけ? それとも――まあ自分には関係がないことだ。時間を無駄にしてしまった。黒猫は本来の目的である魚屋に足を向けた。
 今日はどんな魚がいいだろう。アジ。まぐろ。いや、やっぱり鮭がいい。今が一番おいしい季節だから。
 いつも、鈴を鳴らし願いを口にしさえすれば、何かが起こった。
 魚屋の場合、主人がこっそりと売り物にはならない部分をくれることが多かった。
 この店に猫の好物が山ほど並んでいると知っていても、巷の猫はなかなか近づかない。叩き出されることがわかっているからだ。例えではなく、実際に箒でバシリと。
「なんでお前だけ……」と恨めしそうな声で言われたことがある。その先を言わず、報復を恐れて逃げて行ったが。なんて続くはずだったんだろう。「なんでお前だけ……特別なんだ?」とか?
 店先に音が鳴り響いた。黒猫を特別にする、魔法の鈴の音だ。あとは願い事を口にするだけでいい。
『鮭が食べたい』
 それは一瞬にして世界を組み替える――はずだった。
 主人は黒猫を見つけるやいなや、眉間に深くしわを寄せて叫んだ。
「おら、あっちいけ! しっしっ。売り物に近寄んじゃねえ」
 ぽかんとしたまま立ち尽くす黒猫に苛立ったように、主人が店の奥にあった箒を持って近寄ってくる。
「この店は人間様用だ。野良猫にやる魚なんざ置いてねえんだよ、よそ行きな!」
 穂が当たりそうになる寸前で我に返ってどうにか避けると、黒猫は一目散に逃げ出した。
 ひとの足の隙間をぬって、走る。
商店街の風景が飛ぶように後ろに流れていき、息遣いと脈打つ音がうるさいぐらいに響いている。
 まさか、まさか、まさか。
 ――また。
 そのあと、黒猫は三回鈴を鳴らした。
 そして、願いは一度も叶わなかった。

 どれぐらい経ったのか時間の感覚がないまま、気づけばあたりは闇だった。
 人気のない通りを街灯だけが照らしている。夜目のきかない黒猫は明かりに吸い寄せられる羽虫のように街灯の一本に近づいた。眩しくて下を向く。そのまま柱に頭を寄せる。ごつん、と小さく鈍い音が鳴った。
 何も考えられなかった。頭はずいぶん前から回転をぴたりと止めている。
 前にも鈴が使えなくなった。
 忘れもしない、手遅れなブレーキ音――ブチ猫が死んだときのことだ。だけどあのときは、喜ぶべきか悲しむべきか、次に鈴を鳴らしたときにはいつも通りだったのだ。
 もしかして、という可能性が、ノミのように膨らんでいく。
 『また』。最初黒猫はそう思った。『また』鈴が使えなくなったのだと。だけど、ちがうんじゃないか? もしかして、今度こそ、ただの鈴になってしまったんじゃないか?
 ゴッ、と鈍い音が鳴る。勢いよくぶつけた頭には、じんじんと手ごたえのある痛み。
「……夢じゃない……」
 柱に頭を預けたまま、あざけるように笑った。おかしい。おかしくておかしくて震えてしまいそうだ。
「なんなんだよ、また『不具合』ってわけ? とんだ不良品じゃないか。神様のくせに――」
 そこまで口にして、はっとする。はじけるように駆け出した。天使なら。山田なら、なにか知っているはずだ。 
 けれど、知る知らない以上に大事なことがあったのだ。
 黒猫は五分以上、ボロアパートの扉をカリカリと爪で掻き続けている。
「ねえっ、山田っ!」
 何度でも鳴いて、その名を呼び続ける。
 部屋に明かりはついてない。音もしない。ひとがいる気配はどこにもない。
「山田! いないのかよっ!」
 爪に痛みを感じる。それでも黒猫は扉を掻いた。ガリガリ。ガリガリガリガリガリ。
「……なんで、どうでもいいときばっかり現れて、大事なときにいないんだよ……」
 ここがダメなら、次はどこへいけばいい。どうしたらいい。
 鈴がないまま、どう生きたらいい。
 うつむきかけた黒猫の耳にドアノブをひねる音が響いた。ばっと顔を上げると――開かれたのは、目の前の扉ではなく隣の部屋のものだった。
「ガリガリうっせえなあ、ひねりつぶすぞ、クソ猫!」
 がなりたてる声が襲いかかる。逆光で顔が見えない、大柄な男のシルエット。全身を駆け抜けるように震えが走った。怖い。
 こわい。
 黒猫は転げ落ちるように、きしむ階段を駆け下りた。最後の何段かは実際に足を踏み外して落ちた。ダンッ、と身体をしたたかに打ちつける。痛い。
 いたい。
 黒猫は両足に力を込めてなんとか立ち上がる。
 体が信じられないぐらいに重い。力が入らない。なんだか彩の絵を追って川に飛び込んだ、あのときみたいだ。足は必死に水を掻くのに思うように進まない。
 ぽこん、空気が泡になって水面を目指すように、白猫の姿が真っ暗な脳裏に浮かんだ。そうだ、とりあえず白猫のところへ。ようやく踏み出しかけた一歩は、大きな泡に飲み込まれる。
(会いに行っていいのか? 鈴がただの鈴になったのなら、白猫は今――)
 真っ暗な空を仰いだ。空が水面みたいだった。水底に深く深く沈んでいくみたいだった。今まで近くにあったものすべてが急速に遠ざかる。
 それでも……足を前に動かさなければ。
 何かが自分を急かしている。黒猫はのろのろと歩き出した。
 どこに行くかなんて知らない。どこでもいい。どこかへ。 
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