すべてが叶う黒猫の鈴

雪町子

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第五章

わたしにまかせて

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 木々の向こう、日に焼けた少年たちがボールを投げ合いながら騒いでいる。すこし離れただけなのに、こちらは影が折り重なって涼しい。風が吹くたびに木漏れ日が揺れる。添えられた花に、そっと触れては離れていくように。
 ブチ猫の墓を目の前に、黒猫は歯を噛みしめた。
 ピンク色の花は先ほど添えられたばかりのようにみずみずしい。
「ここには来てるくせに……」
 黒猫を知るものが見ればぎょっとしただろう。以前とは比べようもないほどに、毛並みはべたつきみすぼらしい。小さな体からは丸みがなくなり、いっそ病的なほどだ。
 鈴が使えなくなったのは確か夏のさなかだった。まだ暑い日は続くが、季節は少しずつ秋に移ろいつつある。しかし、山田はいまだ姿を現さない。
 何度期待し何度がっかりしたことだろう。それでも期待せずにはいられない。がっかりせずにはいられない。車のエンジン音にびくりとしたり、犬連れの男から身を隠したり。こんな自分は自分じゃない――そのはずなのに。
 空洞のような体には、腹の音がよく響いた。ごうごうと唸る嵐をお腹の中に飼っているみたいだ。飢えはもはや自分の一部のように馴染んでいた。その事実にまたぞっとする。夏を生き延びることができたのは、ほとんど奇跡のようなものだった。例年に比べて雨が多かったこと、夏休みの子どもたちがたわむれのように食べ物を分け与えてくれたこと。とはいえ、もうその奇跡にも限界がある。
 ふと視界の隅に何かがあった気がして足を止めた。まじまじと見た先、植込みの暗がりに浮かび上がる、鮭の切り身の橙色。なぜこんなところに、と考える間もなく小枝をへし折る勢いで飛び込み、かぶりつく。
 次の瞬間、吐き出した。味のしない、噛み切れない、気持ちの悪いゴムの感触。近くで見れば見間違えようもない、切り身の形をしたキャラクターの消しゴムだった。
 とぼけた表情が黒猫を見つめている。黒猫は口を歪め、消しゴムめがけて爪を立てた右足を振り下ろした。正確には下ろそうとしたところで、やめた。
 植え込みの外で聞こえてきた声が、黒猫の話題を口にしたからだ。
「――なんだよ。全然いないじゃねえか、黒猫のくそやろう。おい、お前の見間違いだったらただじゃおかねえぞ」
「そんなあ、アニキ。オレ、確かにここらへんで見たんですよ!」
 そっと葉の隙間から覗くと、猫が二匹、連れ立ってこちらに歩いてくるのが見える。
 先を歩くサビ猫はきょろきょろとあたりを見回している。続くハチワレ猫は半信半疑の様子だが、物音がするたび睨み殺しそうな目つきを向けている。
「確かにあいつだったんですよ。しばらく見ないうちにがりっがりに痩せてて別の猫みたいでしたけど……」
 ハチワレ猫の口元がにたりとゆがむ。
「あいつは前から気に食わなかったんだ。この俺を、屋根の上から見下ろすような目で見やがる」
「まあ、本当に屋根の上から見下ろしてたんですけどね」
「関わるとろくなことがねえとかでよ、腰抜けどもはプルプル尻尾を巻いていたようだが、俺にゃ関係ねえ。そうだろ?」
「そのとおりです。だから、あいつが弱るのを待ってたんですもんね?」
「さっきからうるせえんだよ、てめえは! さっさと探せ!」
 凸凹なコンビは徐々に黒猫へと近づいてきていた。
 あんなザコ、ちっともこわくない……はずだった。一瞬で相手の戦意を喪失させ、そのちっぽけさを知らしめてやることができる……はずだった。
 本来の自分なら。
 呼吸の仕方を忘れたかのようだった。溺れているみたいに、うまく息ができない。
 どうするどうするどうする。このままだと見つかる。魔法がなければ立ち向かえるはずがない。だって、考えてもみろ。もしあいつらにやられようものなら。それが知られようものなら――黒猫に恨みを感じている猫が、ここぞとばかりに集まってくる。そうなれば、今度こそおしまいだ。
 そうこうしてる間に、サビ猫たちはもう目と鼻の先までやってきていた。逃げなければ。なのに足が震えて動かない。早くしないと。ハチワレの鋭い目が、こちらを――。
「――こっち!」
 植え込みの暗がりのなか、ささやくような声が響いた。
(この声は……)
「早く!」
 振り返ると、影はもう駆け出し始めていた。風のようだった。反射のように、黒猫はその背中を追いかけた。ざざざざざ。小枝が、葉が、黒猫の体にぶつかっては音をたてる。
 植え込みを飛び出した影は、今度は生垣を突っ切り、一軒家の庭から庭へと駆け抜けていく。しなやかな後ろ足が、力強く地を蹴る。一度も止まらずに迷いなく。もう何も考えられない。必死だった。引き離されないように、見失わないように。ただそれだけ。
 スピードが落ちて、ついに影が足を止めた。そこはどうということもない一軒家の庭――ではないことに、見渡して初めて気づいた。はっとすると同時に、黒猫は全身の毛を逆立てる。
(この匂いになんで気づかなかったんだ)
 慌ててきびすを返しかけた黒猫の背中を、声が引き止めた。笑いを含んだ、鈴のような声。
「落ち着いて。彼はわたしたちを襲ったりしないから。ほら、見て」
 鎖に繋がれた老犬は、ちらりと黒猫の姿を認めると、すぐにまぶたを下ろしてしまった。すう、すう、と穏やかな寝息が続く。
「ここなら彼の匂いが強くてまぎれられるはず。あいつらは追ってこられないわ」
 そのときようやく、黒猫は声の主の姿をまっすぐに見た。
 声を聞いた瞬間、正体に気づいていた。柔らかな白い毛並み、三日月のようにすらりとした体、そして強く優しい瞳。わからないはずがない――ずっと一緒にいたのだから。
「花……」
「ずいぶんとひさしぶりね、黒猫さん」
 すっと一歩足を踏み出した白猫に、思わず一歩後ずさる。どうしていいかわからずに視線は下に着地する。青々とした草の瑞々しさ。肉球に冷たい汗がにじんでいく。
「やっぱり――」意を決したような白猫の声に、黒猫はぎゅっと目をつぶった。
「急にいなくなった理由は、わたし?」
「……は?」
 思わず顔をあげると、白猫の目尻に涙が浮かんでいた。
「わたしが、嫌いになった?」
「ち、ちがう!」
 黒猫はちぎれそうになるぐらい、ぶんぶんと頭を横に振った。
「……ちがうの?」
 黒猫の焦った様子に目を丸くした瞳から、ぽたり、涙が一粒すべり落ちる。白猫はそれを恥じるように、これ以上零れないように、すん、と赤くなった鼻を鳴らした。
「彩ちゃんのところにもやってこないし……もしかして、どこかであなたが事故にでもあったのかもしれないとか、考えて、考えすぎて、気が気じゃなかったんだから……」
 留めきれずにまた一滴。透きとおった雫が草の上ではじけた。
「……きみは、なんともないの。その、なにか、変わったところは……」
「わたし? なんで、わたしの話になるのよ。あなたがいなくなったこと以外に変わったことなんてないけど」
 ぎろりと赤い目で睨みつけられる。
 間違いなかった。魔法が、解けていない。白猫は今も黒猫を好きなままなのだ。
 白猫はずずっと鼻水をすすり前足で涙をぬぐうと、黒猫をじっと見つめ直した。
「ちがうんだったら、何なの。納得がいく説明をしてくれるのよね?」
 少しも変わることのない、白猫の澄んだ瞳が自分に向けられている。
(魔法が消えていないのなら……前と同じでいられるんじゃないか?) 
 思いかけて、ふと白猫の瞳に映る自分の影に気づきぎくりとした。痩せっぽちでびくびくとした、みすぼらしく汚れた黒猫。その首に、役に立たない黄金の鈴。
(まさか。前と同じで、いられるはずがない)
「ぼ、くはもう、花といられない」
 足元の草を見ながら言った。
「い、今の僕はちがうんだ。前みたいに、きみの願いをなんでも叶えられたときみたいに、」
 何かに追い立てられるようにしゃべったせいで息が足りなくなってむせた。一度口を閉じたら、今度は逆に言葉がうまく出てこなくなる。情けないことに視界がぼやけはじめる。
「おっ、おなかが空いても……食べ物を、手に入れられない。犬が襲いかかってきても……止められない。ち、力がない。なくなってしまったんだ、僕は……」
 ああ、なんでこんなことになってしまったんだろう。
「……ぼくは、もう、きみが好きだった黒猫じゃない……」
 老犬の寝息すら救いに思えるほど耳が痛くなる沈黙があたりに満ちる。神様と同じことができるかもしれないとまで豪語した猫の末路がこれだ。断罪のときを待つように頭を垂れる黒猫を前に白猫は言った。
「それだけ?」
 さっきからなんだか話が噛み合わない。思わず顔を上げると、白猫はなぜだかぽかんとしている。
「そんなことが理由で急にいなくなっちゃったの……?」
「そ、そんなことじゃな……っ」
 かっとして今度は舌を噛んでしまった。
「ぼっ、僕はもうきみに何もしてあげられないって言ってるんだよ! 自分のことでさえ……っ」
 グゥ。
 タイミングよく腹の音が遮る。あまりの情けなさに続く言葉が霧散した。
「もう十分だろ……」
 最低、最悪だ。
 そのまま地べたにへたり込んでしまった黒猫の後頭部に、「ねえ」と声が落ちてきた。
「いつもあなたは信じられないぐらいに運がよかった。まるで魔法みたいに。あなたといるとドキドキした。次は何が起こるんだろうって。何を見せてくれるんだろうって」
 そうだ。自分はそういう存在だった。世界は、あくびが尽きないぐらいに思い通りだった。
「――でも、今日はそうじゃない。そんなとき、どうしたらいいと思う?」
 どうしようもないからこんな目にあってるんじゃないか。そんな気持ちをこめて睨みつけた先で待っていたのは、なんで前と変わらないのだろう、きらきらと輝く瞳だった。
「ねえ。わたしたち、二匹いるのよ」
 白猫は腰をあげると、くるりと背中を向けて歩き始めた。
「……どこにいくの」
 白猫は振り返ると、花が咲くように笑った。
「わたしにまかせて」
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