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蒼と紅
第35話 火蓋
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彩音の意識は微睡の中にあった。生温くも、それでいて心地いい泥の中に沈んでゆくような感覚だ。
(……何だろう……すごく眠いな)
もう瞼を開けているだけでも精一杯だ。いっそ、この心地良さに身を委ねた方が楽なのかもしれない。
だと言うのに、誰かが呼んでいるような気がするのだ。
(……貴方は誰なの?)
必死に。
懸命に。
誰かが自分へ向けて語りかけてくれている。
(……帰らなくちゃ。……貴方が呼んでいる方に)
彩音も深い微睡の中から這い上がろうとした。けれど先ほどまで心地良かったはずの泥が全身に纏わりついて離れない。
(ッッ……! 息が苦しっ……⁉)
まるで水底に引き込まれてゆくようだった。
だが、誰かも分からぬ貴方が諦めないと言うのなら。彩音も諦めるわけにはいかなかった。
◇◇◇
「……ここは?」
気づいた時、彩音は防火服の裾を強く握りしめていた。そして、自分のすぐ側には必死の形相をした周哉がいる。
あぁ……きっと彼が私を呼んでいてくれたのだろう。
そう理解すると同時だった。周哉の表情が必死だったものから、腑抜けたような安堵の表情に変わる。そして────
「よっ……良かったぁ!」
彼は彩音を抱きしめたのだ。困惑するこちらもお構いなしに、ボロボロと泣き始める始末で。
「本当にっ! 本当に良かったですっ!」
「えっ、ちょっ!? しゅ、周哉さん⁉ これは一体、どういう」
次第に彩音の記憶もハッキリとしてくる。自分は攫われ、あの番傘を手にした妖魔に首を折られたのだ。
しかし、折られたのは首である筈なのに、何故だか胸の辺りがジンジンと痛む。それに唇には僅かながらも熱が残っているような……
意識を失った自分がどのような処置を受けたのか────彩音は遅からず、それを理解した。
桐谷彩音、十四歳。彼女は華も恥じらう少女であると同時に、まだ恋を知らぬ乙女でもあった。
そんな少女の頬が真っ赤にのぼせ上がる。
「わっ! わっ!! は、離れて下さい!!」
きっと周哉はこちらの胸の内など知りもしないのだろう。すぐに手を離すも、はにかんだ笑顔はこちらまで安心させてくれるものであった。
まるで小さな灯りのように。目の前の不安を優しく照らしてくれるのだ。
「すいません、けど本当に良かったです」
だが、小さな灯りは搔き消してしまうのも簡単だ。
「────おや? また会うことになろうとはな、童っぱよ」
彩音はその声を知っている。
「娘を連れて、逃げようと思っていたのじゃが。一手遅かったらしいな」
女性らしからぬ高い背丈も、手にした古めかしい番傘も。閉ざされた瞳と額から生えた、その角も。暗殺業と傭兵業を生業とする武闘派・羅刹衆を取りまとめる彼女の名は────
「そうみたいだな、天王寺蒼恋」
周哉が振り返り、彼女と対峙する。
「彩音さんは返してもらった。それにこのアジトは包囲されているんだ。投降するのなら今しかないぞ」
「一度完全に心を折ったのだから、もう立ち上がれんと思っていたが。前にも増して随分と怖い顔が出来るようになったじゃないか? ふふっ……ふふふ。その顔をしたいのは妾の方だというのに。全く愉快なものじゃのう」
言葉とは裏腹に、見開かれた瞳は苛立ちに濁っていた。投降する気など微塵もないのであろう。
戦いを避けれぬ二人の視線が交差する。研ぎ澄まされた眼差し同士の間には、見えない火花が散っているようであった。
「彩音さん。……コレを着て、どこかに隠れていてはくれませんか?」
不意に周哉が羽織っていた防火服を脱ぎ捨てて、こちらへと手渡す。
「その繊維には僕の紅血が染み込ませてあります。それならば多少の炎や斬撃を防ぐことも出来ますから」
「け、けど!」
「僕は大丈夫ですから、待っていてください。すぐに終わらせますので」
けれども、その声は落ち着きに満たされていた。
以前までの頼りなくオドオドとしていた周哉はどこに行ってしまったのであろうか。彩音の目には、彼の背中がとても大きなものに見えたのだ。
(……何だろう……すごく眠いな)
もう瞼を開けているだけでも精一杯だ。いっそ、この心地良さに身を委ねた方が楽なのかもしれない。
だと言うのに、誰かが呼んでいるような気がするのだ。
(……貴方は誰なの?)
必死に。
懸命に。
誰かが自分へ向けて語りかけてくれている。
(……帰らなくちゃ。……貴方が呼んでいる方に)
彩音も深い微睡の中から這い上がろうとした。けれど先ほどまで心地良かったはずの泥が全身に纏わりついて離れない。
(ッッ……! 息が苦しっ……⁉)
まるで水底に引き込まれてゆくようだった。
だが、誰かも分からぬ貴方が諦めないと言うのなら。彩音も諦めるわけにはいかなかった。
◇◇◇
「……ここは?」
気づいた時、彩音は防火服の裾を強く握りしめていた。そして、自分のすぐ側には必死の形相をした周哉がいる。
あぁ……きっと彼が私を呼んでいてくれたのだろう。
そう理解すると同時だった。周哉の表情が必死だったものから、腑抜けたような安堵の表情に変わる。そして────
「よっ……良かったぁ!」
彼は彩音を抱きしめたのだ。困惑するこちらもお構いなしに、ボロボロと泣き始める始末で。
「本当にっ! 本当に良かったですっ!」
「えっ、ちょっ!? しゅ、周哉さん⁉ これは一体、どういう」
次第に彩音の記憶もハッキリとしてくる。自分は攫われ、あの番傘を手にした妖魔に首を折られたのだ。
しかし、折られたのは首である筈なのに、何故だか胸の辺りがジンジンと痛む。それに唇には僅かながらも熱が残っているような……
意識を失った自分がどのような処置を受けたのか────彩音は遅からず、それを理解した。
桐谷彩音、十四歳。彼女は華も恥じらう少女であると同時に、まだ恋を知らぬ乙女でもあった。
そんな少女の頬が真っ赤にのぼせ上がる。
「わっ! わっ!! は、離れて下さい!!」
きっと周哉はこちらの胸の内など知りもしないのだろう。すぐに手を離すも、はにかんだ笑顔はこちらまで安心させてくれるものであった。
まるで小さな灯りのように。目の前の不安を優しく照らしてくれるのだ。
「すいません、けど本当に良かったです」
だが、小さな灯りは搔き消してしまうのも簡単だ。
「────おや? また会うことになろうとはな、童っぱよ」
彩音はその声を知っている。
「娘を連れて、逃げようと思っていたのじゃが。一手遅かったらしいな」
女性らしからぬ高い背丈も、手にした古めかしい番傘も。閉ざされた瞳と額から生えた、その角も。暗殺業と傭兵業を生業とする武闘派・羅刹衆を取りまとめる彼女の名は────
「そうみたいだな、天王寺蒼恋」
周哉が振り返り、彼女と対峙する。
「彩音さんは返してもらった。それにこのアジトは包囲されているんだ。投降するのなら今しかないぞ」
「一度完全に心を折ったのだから、もう立ち上がれんと思っていたが。前にも増して随分と怖い顔が出来るようになったじゃないか? ふふっ……ふふふ。その顔をしたいのは妾の方だというのに。全く愉快なものじゃのう」
言葉とは裏腹に、見開かれた瞳は苛立ちに濁っていた。投降する気など微塵もないのであろう。
戦いを避けれぬ二人の視線が交差する。研ぎ澄まされた眼差し同士の間には、見えない火花が散っているようであった。
「彩音さん。……コレを着て、どこかに隠れていてはくれませんか?」
不意に周哉が羽織っていた防火服を脱ぎ捨てて、こちらへと手渡す。
「その繊維には僕の紅血が染み込ませてあります。それならば多少の炎や斬撃を防ぐことも出来ますから」
「け、けど!」
「僕は大丈夫ですから、待っていてください。すぐに終わらせますので」
けれども、その声は落ち着きに満たされていた。
以前までの頼りなくオドオドとしていた周哉はどこに行ってしまったのであろうか。彩音の目には、彼の背中がとても大きなものに見えたのだ。
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