異世界旅館の暮らし方

くま

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一章〈代えは利かず、後には戻れず〉

第34話 泣いた吸血鬼⑨

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「……とりあえず、挨拶は省く――省きます」
「う、うん。それで?」
「ミィ。大丈夫か?」
「うん。大丈夫」

 ミィが自室で泣き晴らしててから一時間。俺が貧血になる程度で立ち直ったミィの勢いはすさまじく、顔を洗ったかと思えば俺の腕を引いて、執務室に直行した。

 さっきまでの弱弱しさは何だったのか。と思ったが、そういえば彼女は、元の世界では迫害される側であったことを思い出た。

 たぶん、育つうえで、たとえ辛いことがあったとしても、すぐに切り替える力がなければ生きにこれなかったんだろうな。

 なんだ、強いじゃん。

「……龍、さん」
「龍でいいよ。ミィ」
「龍」

 そんな彼女は、おどおどとしながらも、龍の眼を見て相対した。聞く話によれば、龍はこの場でミィの兄の死を告げた死神であり、ミィにとってはトラウマの――兄の死という絶望のきっかけの人である。

 つい先ほど――数時間前には、彼女はそのトラウマがフラッシュバックし、気絶してしまった。

 しかし、今の彼女はどうやら違うようだ。

「……執務室、汚してごめんなさい」
「む、そう来たか……、ま、まあそれは気にしなくていいんじゃないかな……」

 おそらくは気絶前に嘔吐をしたことを謝っているのだろうけど、この龍は人間体を生み出すたびにげろをまき散らしているのだから気にする必要はないように思える。実際、何を言ってもブーメランになりかねない龍は、しどろもどろとした応対しかできてないしな。

「……死んでるんだよね。あにい」
「うん。君のお兄さんは死んだよ」
「……死んでない。そんな気がしてた。……あにいが簡単に死ぬような人じゃない。そう信じてた。……迷惑かけました」
「大丈夫だよ。ここには、心に傷を負った人間が集まる場所だから。だから、ゆっくりと癒していけばいい。……私も、急き過ぎたようだからね」

 何の当てつけか、最後の言葉とともに龍は俺に視線をよこしてきた。
 彼女の視線につられてミィの視線も俺の方に引き寄せられる。何のつもりだよほんと。ただでさえ気まずいったらありゃしないのによ……。

「……悪かった、とは思っている」
「大丈夫だよ。うん。私も、君に言われて気づいたんだ……それに、君はこうしてミィを立ち直らせてくれた。むしろ私は嬉しい限りだよ――ああして、私に反論してくる人間なんて、久しぶりだからね」
「まあ、問題ないならそれはよかった」

 どうやら、表に出すほど龍は俺とのやり取りを気にしていないらしい。その事実に俺はほっと胸をなでおろしつつ、ちょいちょいとミィに袖を引っ張られたことに気づく。

 こちらを見上げるミィと目が合った。

「ナオは、どこにも行かないよね」

 それは、今朝聞いた言葉だ。あの時は、下手したらここをたたき出されるような事態になるとは思っていなかった。
 そして今、あれだけの暴論を表面上は許してもらったとはいえ、俺は本当にここに残れるのだろうか――

「ナオ」

 と、俺が一人未来に不安を感じてどもっていると、龍が俺の名を呼んだ。
 いったい何ようかと、俺が彼女の方へと向き直ってみれば、

「これを、受け取ってくれるかな?」

 ここの旅館の従業員登録の契約書を差し出してきた。それを見て、俺は目を丸くして驚いた。

「……いいのか?」
「うん。私は君が気に入った。ぜひとも、この旅館にいてほしい。そう思ったんだ」
「それじゃあ、ありがたく拝借させてもらいますよ」
「そうだね。これからよろしく頼むよ。ミィと一緒にね」

 ぱちんっと彼女の切れ長な目から発されるウィンクに、またもドキリと心臓が――鳴らないな。

 少し前まで感じていたはずの神秘的で犯しがたい、とてもこの世のものとは思えないような雰囲気。それこそが、俺の感じていた彼女の魅力だったのかもしれない。

 しかし、今はどうだ。

 彼女は、ただ優しいだけの――まるで、多くのことをしらない子供の様に俺は見えた。

 それこそ、自分のやっていることが正しいのだと信じてやまない、子供の様だと。
 だから俺は思う。

「また意見が食い違うこともあるかもしれねぇが……次は、怒らないよう気を付ける」
「そうだね。今度は、私も会議に混ぜてくれよ」



 ――こうして、ミィの過去を取り巻くいざこざは幕を閉じた。俺とミィは正式な従業員として迎えられ、この世界に定住することとなる。

 そして、新たな仲間が増えたと喜ぶ彼らは――

「歓迎会だぜナオ!」
「ミィちゃん! 元気になってよかった~……!」

 俺たちのための歓迎会を開いてくれたのだった。

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