【R18】鏡の聖女

里見知美

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思い出の場所

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 頭上でめまぐるしく変わっていく風景に、記憶の底に仕舞い込まれた思い出が溢れかえった。
 神殿のあった場所が、シルヴァーナとマサが初めてであった場所だったのだ。

 私の目を通して、シルヴァーナが蘇っていく。

『マサ……私は大丈夫。生きて。私はここで待っているから。私の力をあなたと出会った場所に封印していくから、私に会いたくなったら戻ってきて』

 愛おしい、大切なあなた。

 マサは怒りに真っ赤に震えて、鏡を打ちつけている。大丈夫だというのに、しょうのない人。私は苦笑して、愛を告げる。

『これは、なんだ……』

 私の上に跨ったブルーノ兄様が震える声をあげて、私を見下ろした。

『これは、あなたが受ける罰です』

 私は静かにそう伝えた。

 私の愛するマサを殺め、私を穢して己が欲望を通した罰。
 神の力を失ってもなお、欲に執着し、自らを貶めた罰。
 やり直す機会を兄神様から戴いたにもかかわらず、改めなかった罰。

『赤月神は容赦しませんよ。知っているでしょう』
『な、何故、またここに、戻って……』

 私は一振りの手でブルーノを払い落とすと、ゆっくり立ち上がった。ピリ、と痛んだ頬を触り眉をしかめる。これが人間が感じる痛みか、とそれすらマサと重なり嬉しくなる。

 私の髪は、マサと同じ黒。ささやかな乳房だけれど、柔らかく白く滑らかだ。私は興味深げに自分の胸を撫でさらりと流れた黒髪に触れた。鏡の向こう側を見ると、マサが目を見開いて私を見つめていた。

 そこで初めて気がついたのだ。マサの髪色が私の銀だということに。

 銀の髪、銀の瞳。体はまるでレドモンド兄様みたいに逞しい。マサはもっと小柄だった気がするわ。

『マサ?マサよね?』
「ムスターファ」

 あら?この声は…。

「ムスターファ、私は大丈夫。心配しないで」

 ムスターファと呼ばれたマサは瞳を潤ませて私の掌に鏡越しに合わせた。マサの力では鏡のこちら側には来れないのね。

 ああ。そうだった。この体はもう私のものじゃないのね。この体は、この心は私とマサの欠片。

『あなた、名前は?』
「宮崎雅美」
『まあ。マサと同じ名前なのね?』
「はい。私はマサの魂の中にいて、あなたのお腹の子の中にいたんです。異世界で生まれて育って、ここに引き込まれました」

『シルヴァーナ。戻ったか』
『レドモンド兄様!』

 私の魂は、兄様に引っ張られて人間の体から引き剥がされた。雅美の体がよろめいて崩れ落ちる。

『どうしたの?』
『シルヴァーナ、お前の神気を身体に宿していた人間は長く生きていけないのだよ』
『どうして?』
『器が違うからだろう。人間の体はもろく、命も瞬きの間に散ってしまう。そんな中にお前が眠っていたのだから、反動は大きい』
『それでは、この子は?』
『この子は、お前の力を返す代わりに、この国とあの男を守って欲しいと条件を出した』
『死んでしまうの?』
『この子供の寿命はとうに尽きていたよ、向こうではね。無理やり引っ張ってきたから俺の力とお前の力を少し拝借したのだ。だからこの世界ではお前の力なしで生きていくのは難しいだろうな。ここにたどり着くのに全ての神気を使ってしまったから。俺の神気を少し分けて引き伸ばしてきたが、器が持たないだろう』
『では、マサはどうなってしまうの?』
『あれの魂は最初からこちらの世界の器に入れた。俺の神気も分け与えていたから大丈夫だろう』
『でも私はマサを待っていたのに』
『お前が託した命は異世界に送り見守ってやった。この男の命はこの世界に引き入れて、お前の魂が戻るのを待っていた。そして、お前が生まれ変わるまでの約束で、引き合わせてやったのだから、俺は約束を守ったぞ』

 鏡を見れば、マサの器は私に見向きもせず、崩れ落ちた器に向かって叫んでいる。鏡を叩き割らん勢いだ。

『……それではダメだわ』
『なぜだ』
『だって、マサは。いいえ。ムスターファはこの子を愛しているんだもの。マサの魂が千切れてしまうわ』

 レドモンドは小首を傾げた。

『兄様、人間の命は短いけれど、一生懸命生きているんです。私のわがままでこの子を翻弄してしまったのね。出会うべくして出会った二人の仲を引き裂いてしまったのは私かしら』
『ふむ。確かに、この子は面白い魂の持ち主だった。今までは区別もつかなかったがこの子は違った。お前の腹に宿っていた魂だからな。俺たちに近いのかもしれん』
『兄様、お願いです。私の息吹をこの子に差し上げてもいいでしょう』
『人間には関わらんことにしている』
『もうすでに関わってしまったではないですか』
『……それより、あのゴミは』
『え?』

 レドモンド兄様が、会話を遮って鏡の向こう側を指差す。私が指をたどって視線を動かすと、泣きわめくムスターファの後ろに、壊れた人形のような器が長い剣を振り上げていた。





「ミミ!ミミ!」

 狂ったように叫んでも、渾身の力を込めて叩いても月の石はビクともせず、ミミは静かに横たわっていた。私は大丈夫と唇は動いたものの、ジャハールは身動きもせずミミの上に跨ったまま青ざめてガクガクと震えている。いい加減、退きやがれと叫んだが、聞こえてはいないようだ。

 だが、おもむろにミミがジャハールを払いのけて、奴が横に吹っ飛んだ。

「何が起こったんだ?」

 ジャハールは俺ほど筋力はなくとも、それなりに鍛えている。ミミの一振りで払い落とせるような男ではない。だがまるで紙くずかホコリを落とすかのようにジャハールを吹き飛ばすと、ミミはゆっくり立ち上がった。

 その姿はまるで蕾だった花が開くように、見たことがないほど優雅で、人間離れをしていた。

 人間離れーーー?

 ハッとして、ある可能性に気がついた。

 まさか、今ミミを動かしているのは、シルヴァーナなのか。

 そのミミが少し眉をしかめて、自分の頬に触れ、ふわりと微笑む。そして初めて気がついたかのように、自分の体を眺めて、こともあろうか乳房から腰にかけて指を這わせた。

 まるで自慰する姿を見たような艶かしい感情が溢れ、俺は喉を鳴らした。心の底から刺すような甘い感情が湧き上がる。

 なんだ、これは。

 下を見れば己自身が発情しているのがわかった。
 だけど、これは、俺じゃない。
 俺の感情じゃなくて。

 マサがシルヴァーナを欲しがっているんだと気がついた。

 シル、シルと甘く叫ぶ声と、ミミ、と叫ぶ俺の声と。明らかに、俺の中に二つの魂が宿っているのを感じた。引き裂かれそうな感情に頭が痛くなる。ミミはいつもこんな感情に狂わされていたのだろうか。俺はいつもこの感情を持っていたのだろうか。

 俺が、あいつを抱いている時、あれは本当に俺とミミだったのか。俺はミミを抱いていたのか、それともマサがシルヴァーナを抱いていたのか。

 だが突然、ミミの体が糸が切れたかのように崩れ落ちた。ミミの黒髪が翻り、膝から崩れ落ち俺に手を差し出して、倒れたまま動かなくなった。

「ミ、ミミ!?どうした!返事をしろ!何があったんだ!!」

 なぜ、なぜ、なぜ。ミミの顔から血の気が引いていく。「死」という言葉が脳裏に湧き出てくるのを必死で押さえ込んだ。

「ミミ!返事をしてくれ!」

 ダメだ。
 行くな!
 俺を置いていくな!
 大丈夫だって言ったじゃないか!
 なぜ、なぜこんなことに。

 レドモンドの計画が、これか。
 俺からミミを奪うための策だったのか。
 シルヴァーナを取り返し、俺たち虫けらはどうでもいいと。

 怒りに我を忘れそうになったところで、月の石に反射した影にハッとした。

 剣を振り上げた前聖女アグネスの姿が目の端に映り、振り返りざまに突き刺さった痛みに目の前が真っ暗になった。

 
 前聖女アグネスの顔は苦痛に歪み、ブルーノの顔と重なった。

 ああ、この女も青月神に操られているのか。焼けるような熱を胸に感じて、俺は目の前に横たわるミミに視線を落とし、鏡に手をついた。






「ムスターファ!!」

 体から力が抜けて、次第に気が遠のいていく感覚を味わいながら眠ろうとしたところで、誰かがムスターファの名を叫んだ。薄眼を開けてみると、ムスターファの顔が私の目の前にあって、私と目が合うと、安心したように微笑んだ。ああ、ハンサムな私のムスターファ。なんで泣いてるの?ムスターファの後ろに、ナイジェルとネイサンと、それから茜さんが、手にした剣をムスターファに突き刺していて。

 引き抜いた剣から真っ赤な血が噴き出して、ムスタファの口から血が溢れて。私は目を疑った。

 何が、起こったの。

 ムスターファと私の間にできた月の石の壁に手のひらをついて、それがまた血に濡れていて。私は震える手を持ち上げようと力を入れたけど、動かなくて。

 ムスターファ。
 ムスターファ。
 怪我をしたの?
 誰が、あなたを傷つけたの。

 ナイジェルとネイサンがムスターファから茜さんを引き離し、叫びながらムスターファを抱き起こすと、私の好きなムスターファの胸筋から血が溢れて、またゴフリと血を吐き出した。私を見つめながら、ミミ、とつぶやく唇。

 なのに、声が聞こえない。

 待って。
 誰が、ムスターファを。
 守って、って言ったのに。
 彼を守ってって、だから私は。

『俺を、置いて、いくな』

 彼の唇は確かにそう言った。眉を寄せて、痛みをこらえるような仕草の後で、また笑って。

『愛してる』

 そう言って。カリンさんと、アイダさんが駆け付けるのが見えた。人に囲まれて、ムスターファが見えない。でも彼の手はもう動いていなくて、横たわって。

 ダメ。
 私を置いて、どこへ行くつもり。
 ずっとそばにいるって、言ったじゃない。
 守るって約束したじゃない。

 腹の底から怒りが溢れて、悲しみが溢れて、声にならない声を張り上げた。




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