黒の皇子と七人の嫁

野良ねこ

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第九章 大森林に咲く一輪の花

50.下僕

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 独り言かの如く小さな声、それでもはっきりと聞こえた呟きが耳を突くと同時、真上から見下ろす彼女が動きをみせる。


 僅かに持ち上げられた黒剣。その切先が加速し、俺の眉間を突くべく勢い良く降りて来るのをただただ見ている事しか許されていない。

 耳に響く心臓の音がうるさいほどに脈打てば今まで感じた事もない緊張が全身を駆け登り、身体は動かなくとも一瞬にして吹き出す大量の汗。
 眼前に迫る『死』と言う単語に、何故だか分からないが愛する人達の笑顔が順番に思い起こされては消えて行く。


(モニカ、雪、サラ、ティナ、エレナ、リリィ、コレットさん、朔羅。
 みんな……みんな、ごめん)


 以前もこんな事があったが、気が付けば通常では考えられないほどゆっくりと迫ってくる切先を『俺は死ぬのか』と冷静に見つめている自分がいる。


──大した距離もないくせに、焦らすかのように徐々に、徐々にと、近付いてくる黒い剣


 死へのカウントダウンが進めば進むほどに冷静さは失われていき、それとは逆に『まだ死にたくない!』という思いが急速に膨れ上がる。


──頼む……頼むっ!!


 早鐘の如く高鳴る心臓、積もり積もった絶望感。それに比例して爆発的にに溢れ出した恐怖に溺れてしまいそうになった時、幻覚ではないかと自分の目を疑わざるを得ない事態が巻き起こる。

 眉間まで残り三センチ、それまで真っ直ぐ降りて来ていた切先が突如として行き先を変えたのだ。
 まるで輪郭をなぞるかのように、一定の距離を保ちながら顔の横へと滑り落ちる黒き刃。僅か数ミリの距離を空けてその身を地に埋めると、サクッという軽い音が耳に届いたときにはその動きが止まっている。


「これで貴方を殺したのは二回目ね」


 ゆっくりと進んでいた時間は突如として終わる。
 聞こえてきた声に我に帰るが胸の鼓動は治るはずもないし、頭は混乱を喫して何がどうしてこうなったのか理解も追いつかない。

「どう?   今度は死の恐怖を体感出来たかしら?」

  一つだけ分かるのは俺がまだ死んでいないという事だけ……

「でも、これが最期、三度目は本当に死ぬわ」

 一先ずの危機を脱したというのに爆走という言葉が似合うほどに全力で走り続ける俺の心臓。彼女の思惑通り、今ほど死ぬ事を意識した瞬間はこれまで無かった。


──死にたくない!!!!


 だが容赦なく襲い来る次の恐怖は、身動きの取れない程の重力魔法に輪をかけたもの。

「っ!! は、ぐ…………」

 全身を覆うほどの巨大な鉄の塊を乗せられたかのよう。
 手足はおろか指の先すら動かすこと叶わず、存在する全ての空気が重さを持ってのし掛かり全ての骨が砕けるのも時間の問題と思える重圧に呼吸をする事さえままならない。

「このままでいれば、後一分足らずで貴方に死が訪れるわ。貴方を生かすも殺すも、勝負に勝ったわたくしに決定権があるのは理解出来るわよね?
 その上で二つの選択肢をあげるから未来を決める権利を貴方にあげようと思うの。わたくし、優しいでしょう?

   一つ、呼吸困難でこのまま死んで行く。

   二つ、わたくしの下僕と成り果て、わたくしと共に生きる。

 貴方の選ぶ貴方の未来の数だけ瞬きをしなさい。ほら、考える時間は残されてないわよ?」


 酸素が足りず、全てが白く成り行く視界の中で、迷う事なく二度の瞬きをした。


「っはああぁぁぁあぁっ!っく、はぁっはぁっかっ!   はぁっはぁ……」


 死にたくないという俺の望みは聞き届けられて死の枷から解放されると、身体が求めて止まなかった酸素が肺へと凄い勢い流れ込む。
 それまでを取り戻すかのように荒く、激しく、繰り返される呼吸のお陰で考える力が戻って来れば否応無しにこれからの事へと思考が向かう。


(アリサの下僕と言うことは、俺は魔族の世界で生きる事になるのか?)


 忙しく上下する胸のすぐ下、腹の辺りに柔らかくも温かな感触がすれば、苦しさで閉じていた目も何事かと慌てて開かれる。


──そこで目にした光景は驚くべきモノ


 さっきまでは俺の頭付近に立って見下ろしていたと思ったアリサが、満足そうな笑顔で馬乗りになって座っていたのだ。
 さらに驚くのはその軽さ、未だ呼吸の戻らぬ俺に配慮してくれているようで、触れている感触はあるものの少しの重量も感じられない。


(ああ、重力魔法アトラツィオーネか……)


「そろそろ落ち着いたかしら?」

 呼吸の程を見ればそんなはずがない事くらい分かるだろうに、わざわざ聞いてくるということは言外に『早くしろ』と無理難題をふっかけているのだろう。

「ごめ……もう、少しだけ、はぁ……待って……」

「仕方の無い下僕ですこと。そんなんじゃ、先が思いやられるわね」

 俺の胸に置かれた両手から白い魔力光が放たれると、みるみるうちに身体が楽になってくる。

「癒しの、魔法?」

「本家には遠く及ばないけど、多少なら扱えるのよ?」

 言われてみればそうだった。扱える者は少ないが、癒しの魔法はサルグレッド王家の独占魔法ではない。
 スペシャリストであるサラとどの程度の違いがあるのかは知らないが町の治療院などでは普通に使われているし、俺の先生であるルミアや、神の子を名乗るララも使っているのを見た事がある。

「貴方はわたくしのモノとなった。貴方自身が死ぬか、わたくしが死ぬ時までその関係は変わらない。異論、無いわよね?」

 やはり、さっきの約束は悪い冗談でもなければ口から出任せでもなく本気の本気だったのだと思い知り、逃れられない鎖に繋がれたのだと頭を抱える。

「勿論、貴方がわたくしを殺せばこの関係は終わるし、何処か遠くに逃げ出してしまえば追い切れないかも知れない」

 そうだ!隙を見て逃げ……って、殺されない、逃がさない自信があるからわざわざそんな事を言ったのだろう。
 つまり、諦めて服従しろ……と。

「下僕は主人の言うことを忠実に守る義務がある、そうよね?」

 そうなると暫く……いや、もう二度とみんなとは会えなくなる?


そんなのは嫌だ!
そんなの事は駄目だ!!


「体調が戻ったところで早速、一つ目の命令を下すわ」

 口では殺すと言いつつも、俺の予感通り殺すつもりなどなかったのは今の愉しそうな顔を見れば一目瞭然。
 なんだかんだで優しい彼女。たとえ下僕といえども懇意にお願いしさえすれば、みんなに会いに行く事くらい了承してくれるかもしれない。

 だがしかし、完敗した俺が悪いとは言え、暫くのお別れともなると寂しさばかりが込み上げてくる。


「わたくしを抱きなさい」


 半分はアリサの声を聞きながら、もう半分は考え事に耽っていた俺の頭に入り込んで来た言葉は全ての思考を吹き飛ばし、全神経を彼女へと向けさせるのに十分過ぎる破壊力を持っていた。

 少しだけ視線を逸らした彼女は、俺が先ほど髪に付けてあげた君影草を指で弄りながらはにかんでいる。
 そんな姿を見てしまえば、いま耳にしたモノを聞き返す事など出来はしない。

 “命令”として出してきた言葉は嘘でも冗談でも無く、まごう事なき本気で本気の言葉だと理解した。


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