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誰そ彼
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その日曜日の夕方、私は久しく会っていなかった男と再会した。
私は夕刻の散歩を日課とし、毎日家から少し離れた、小さな橋のかかった桜並木をふらふらと歩いていた。丁度桜が満開の季節というのもあってか、陽が沈み始めるような時間になってもあたりはまだ賑わっていた。
時折桜の花びらが重なり合いながらはらはらと落ちて、人々の頭上に舞い降りる姿は可愛らしく、その日は一段と散歩を楽しんでいた。
人が少なくなってきた頃、橋の上を歩いている途中で私の名前を呼ぶ声がした。振り向くと、そこには花車な男が立っていた。彼は私の大学の同級生で一緒に呑んだりした仲だった。しかし、それは彼との共通の友人が居たからであり、私たちが特別仲の良い関係という訳でもなかった。
現に、彼を見た時に誰だか問うてしまったし、寧ろ、彼が私の後ろ姿だけで私に気付き呼び止めたのか疑問に思った。
私と彼は、これも何かの縁だといい、橋に寄りかかりながら少し話した。
──────久しいなあ。大学卒業以来会っていなかったもんなあ
──────ああ。そう言えばそだったな。
──────元気だったかい? なんだか不健康そうな顔をしているが
──────元気さ。そっちも顔色が悪いが、アルコオル依存は治ったか?
──────いいやまったく
──────はは、そうか。それにしても、桜が舞っているのにまだ寒いなあ。そう言うと、彼は目を細めながら言った
──────そうかもしれない。そういうの、鈍くなっていてね
会話の途切れたところで、彼が鷹色の袖を捲った。ちらりと見えた白い肌は赤く盛り上がって、ボツボツとしたのがあった。彼は腕時計を見た。硝子が嵌め込まれている時計で、見覚えのある年季の入った革のベルトに一瞬息が詰まった
──────それは、あいつのか? 腕時計をちらりと見ながら言うと、彼は笑いながら言った
──────ああ、よく分かったな。
俺は戸惑いながら
──────あいつはいつもその時計を見ていたんだ。わかる人には分かるさ。と言った
彼は、そんなものか、と呟いて橋の向こうを見た。その背中には幽かに侘しさが漂っていたような気がした。
私達の共通の知人であるKは、大学在学中に自死した。ハンセン病の病に犯され、何日も苦しんだ後にKは海に身を投げて死んだ。彼とKは誰が見ても親密と言えるほど仲が良く、私などが彼の悲しみなど計り知れないが、Kが死んで何年も経った今も、彼はあいつの形見を身につけている程なので、彼の今生きている人生にKの死が大きく影響しているのは察せるし、今も尚諦めきれない本能的な、Kへの執着が抜ききれて居ないことに心底同情した。
それから、私達は暫く一緒に川を眺めていた。今思えば、あの時、Kへの追憶のような気持ちもあったのかもしれない。
ふと、疑問に思ったことを言った
──────そういえば、なぜ此処を訪れたんだい? ここは、君の家からは少し遠いんじゃないのだろうか。
私の問いに応えるようにこちらを向いた彼は、薄い唇を少しだけ弛め細く笑っていた。その姿は眩しい夕陽に照らされ、後光が差すようにオレンジ色の光を浴びていて直視できなかった。その光景は無意識のうちに脳裏にやきついていた程に烈しい衝撃だった。
(ああ、誰そ彼時────)
日が沈む前の、夕刻時。薄暗くなり相手の顔も見れなくなる頃。その言葉通り、こちらを見る彼の輪郭が仄白くぼやけて、薄い産毛が、彼の顔に溶け込むように気配を消していた。私は彼を見詰めているうちに、やがて眩暈のような恍惚さを感じた。それは、彼の顔があまりにも整っているからなのかもしれないし、彼の、Kを想う姿が余りにも痛々しく見えたからなのかもしれない。
──────そろそろ行くよ
私の顔を覗き込みながら軽く肩を叩いて彼はあっさりと去っていった。しばらく沈みかけている夕陽を見ていると、ふと気付いたことがあった。彼の身軽な服装に、彼の腕にあった赤斑。きっとハンセン病の症状だ。 彼は、Kと同じようにここの川に身を投げようとしたのだろうか。しかし結局家へ帰っていった。理由は分からない。私と話した時に気が変わったのかもしれないし、今日は諦めてまたこの場所に訪れるのかもしれない。
彼の愛したKと同じ病に犯されたと知った時彼は何を思ったのだろう。Kの物を身につけて、あいつと同じように死のうと決心した時の彼の心境はいかなるものだったのだろうか。この、美しく桜が散る場所で身を投げようと決めた彼の心情を、私は暫くの間愁いでいた。
私は夕刻の散歩を日課とし、毎日家から少し離れた、小さな橋のかかった桜並木をふらふらと歩いていた。丁度桜が満開の季節というのもあってか、陽が沈み始めるような時間になってもあたりはまだ賑わっていた。
時折桜の花びらが重なり合いながらはらはらと落ちて、人々の頭上に舞い降りる姿は可愛らしく、その日は一段と散歩を楽しんでいた。
人が少なくなってきた頃、橋の上を歩いている途中で私の名前を呼ぶ声がした。振り向くと、そこには花車な男が立っていた。彼は私の大学の同級生で一緒に呑んだりした仲だった。しかし、それは彼との共通の友人が居たからであり、私たちが特別仲の良い関係という訳でもなかった。
現に、彼を見た時に誰だか問うてしまったし、寧ろ、彼が私の後ろ姿だけで私に気付き呼び止めたのか疑問に思った。
私と彼は、これも何かの縁だといい、橋に寄りかかりながら少し話した。
──────久しいなあ。大学卒業以来会っていなかったもんなあ
──────ああ。そう言えばそだったな。
──────元気だったかい? なんだか不健康そうな顔をしているが
──────元気さ。そっちも顔色が悪いが、アルコオル依存は治ったか?
──────いいやまったく
──────はは、そうか。それにしても、桜が舞っているのにまだ寒いなあ。そう言うと、彼は目を細めながら言った
──────そうかもしれない。そういうの、鈍くなっていてね
会話の途切れたところで、彼が鷹色の袖を捲った。ちらりと見えた白い肌は赤く盛り上がって、ボツボツとしたのがあった。彼は腕時計を見た。硝子が嵌め込まれている時計で、見覚えのある年季の入った革のベルトに一瞬息が詰まった
──────それは、あいつのか? 腕時計をちらりと見ながら言うと、彼は笑いながら言った
──────ああ、よく分かったな。
俺は戸惑いながら
──────あいつはいつもその時計を見ていたんだ。わかる人には分かるさ。と言った
彼は、そんなものか、と呟いて橋の向こうを見た。その背中には幽かに侘しさが漂っていたような気がした。
私達の共通の知人であるKは、大学在学中に自死した。ハンセン病の病に犯され、何日も苦しんだ後にKは海に身を投げて死んだ。彼とKは誰が見ても親密と言えるほど仲が良く、私などが彼の悲しみなど計り知れないが、Kが死んで何年も経った今も、彼はあいつの形見を身につけている程なので、彼の今生きている人生にKの死が大きく影響しているのは察せるし、今も尚諦めきれない本能的な、Kへの執着が抜ききれて居ないことに心底同情した。
それから、私達は暫く一緒に川を眺めていた。今思えば、あの時、Kへの追憶のような気持ちもあったのかもしれない。
ふと、疑問に思ったことを言った
──────そういえば、なぜ此処を訪れたんだい? ここは、君の家からは少し遠いんじゃないのだろうか。
私の問いに応えるようにこちらを向いた彼は、薄い唇を少しだけ弛め細く笑っていた。その姿は眩しい夕陽に照らされ、後光が差すようにオレンジ色の光を浴びていて直視できなかった。その光景は無意識のうちに脳裏にやきついていた程に烈しい衝撃だった。
(ああ、誰そ彼時────)
日が沈む前の、夕刻時。薄暗くなり相手の顔も見れなくなる頃。その言葉通り、こちらを見る彼の輪郭が仄白くぼやけて、薄い産毛が、彼の顔に溶け込むように気配を消していた。私は彼を見詰めているうちに、やがて眩暈のような恍惚さを感じた。それは、彼の顔があまりにも整っているからなのかもしれないし、彼の、Kを想う姿が余りにも痛々しく見えたからなのかもしれない。
──────そろそろ行くよ
私の顔を覗き込みながら軽く肩を叩いて彼はあっさりと去っていった。しばらく沈みかけている夕陽を見ていると、ふと気付いたことがあった。彼の身軽な服装に、彼の腕にあった赤斑。きっとハンセン病の症状だ。 彼は、Kと同じようにここの川に身を投げようとしたのだろうか。しかし結局家へ帰っていった。理由は分からない。私と話した時に気が変わったのかもしれないし、今日は諦めてまたこの場所に訪れるのかもしれない。
彼の愛したKと同じ病に犯されたと知った時彼は何を思ったのだろう。Kの物を身につけて、あいつと同じように死のうと決心した時の彼の心境はいかなるものだったのだろうか。この、美しく桜が散る場所で身を投げようと決めた彼の心情を、私は暫くの間愁いでいた。
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