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背骨
しおりを挟む仕事を辞めて始めた物書きは思うように上手くいかず、毎日うつうつと暮らしていた。見かねた友人が旅行でもどうかと言ってきたので気晴らしに丁度良いと私も二つ返事で承諾した。
箱根の山奥にある旅館で、質素だが温泉が湧き出ていて好印象だった。行きの電車で考えることはやはり自分の書いた小説で、まさに下手の横好きだと我ながら笑ってしまった。
旅館はこじんまりとしていた。着いた時には既に日が暗くなっていたからか、客もほとんど見かけず部屋に入った。
友人が温泉に入りたいと言ったが、私は書きかけの私小説の続きを考えたいと言って残らせてもらった。場所が変わったからかいつもより筆が進み、自分でもなかなかよく書けたと思っていると友人が帰ってきたので私も一人で温泉に入りに行った。
そこは、白濁の湯が張られている露天風呂で、5~6人入ってしまえば満席になるような、小さな温泉だった。硫化水素の匂いが漂う中で、身体を流してから湯に浸かろうとすると、先客が居ることに気が付いた。
私が驚くと、男はゆっくりとこちらを見た。男と言って良いのだろうか。彼は、まだ成長途中で未発達な身体をしていて、少年という言葉の方が似合っているような人だった。
私は思わずため息を漏らした。その少年があまりにも美しかったからだ。月光に照らされて仄蒼く燿いている身体にに、うっすらと湯の膜を張り付かせ、透明な雫が彼の頬を伝って落ちていく様子は、とっても似合っていた。
ほんのりと赧くなっている背中は長時間温泉に浸かっていることを表しているようで、それさえも魅力的に思えた。彼が少し動くとそれと同時に突起する骨髄は蠱惑的で、いけないものを見ているような錯覚を覚えた。
今も尚、ぬらぬらと輝く肌は若さがあり、瑞々しかった。
「こんばんは」
そう言って彼ははにかんだように笑った。少年特有の中性的な声をしていた。ぽってりとした唇をゆっくり動かせて喋る姿は愛嬌があり、好感を抱いた。
「ああ、こんばんは。君も旅行かい?」
「ええ。そんなところです。貴方も?」
「はは、まあね」
そんな当たり障りの無い会話をする。少し間が空いたところで、何を思ったのか両足を上下に揺らしたり、湯を両手で掬ったりし始めた。人形のような見た目に反した幼稚な仕草に興味を惹かれ見ていると、少年がゆっくりと、柔らかな絹を触るように水中で手の甲をすうーっと滑らせながら水面で綺麗な水しぶきを作った。その何粒かが私の肩にもかかり、面食らっていると、
「ごめんなさい」
と言いながらくすくすと笑う少年の姿があった。私は、そのいたずらになんとも言えない奇妙さを覚えた。呆気に取られていると
「お先に失礼しますね」
と言って、少年は身体中からぽたぽたと水滴を垂らしながら去っていった。まるで猫を相手しているような既視感があったがそれに反し、彼の仕草に心臓が熱くなるよう感覚を憶えた。
私も少しして温泉を出て、客室へ戻ると友人は既に寝ていて、私もなにかする気力が無かったので隣に布団を敷いて同じように眠った。
ふと、目が覚めると、あたりはまだ真っ暗で、夜が明ける気配はしなかった。
私は月を見たいと思い立ち内廊下に出ると、そこには先程露天風呂で出会った少年が縁側に座っていた。
彼は私を見ると「先程はどうも」と言って笑った。
彼は旅館にある浴衣を着崩して着ていた。片足を曲げて、それを胸に抱き、目の前の竹林を呆けて見ていた。その様子は、先程よりも一段と人間味が薄く感じた。
「君は・・・どこから来たんだい?」
そう言うと、今にも雫が零れそうな、瑞瑞しく潤う、真っ黒な瞳が私を見て言った
「さあ。実は、分からないのです」
「分からない?」
思わず聞き返すと、彼は「はい」と困ったように笑った。愛想が良いなと思った。
「気が付いたらいつも、知らないところにいるんです。」
笑いながら泣いているような錯覚を憶えた。彼の顔は笑っているのに、月の耀きに反射して燦めいている瞳が物悲しげに私に訴えているような気がした。
彼が、私に近づくと、力強く抱擁をした。私の胸に飛び込んだ彼は、どことなく寂しげに思えた。私が優しく彼の背中に手を回すと、より一層抱擁する力が強くなった気がした。浴衣越しに感じる彼の背中はうっすらと冷たく、私は彼を暖めなければいけない気がしてならなかった。しばらくこのままでいると、もう十分だと思ったのか、「ごめんなさい。ありが
とうございます」と言って私から離れていった。
「私は少し林を散歩してから寝ることにします。貴方はどうしますか?」
恐らく、彼は私が一緒に林へついて行くと言っても喜んで承諾するだろう。しかし、私はそんな気力も無いため
「もう寝るよ」
とだけ言った。彼は「分かりました」と言って林へ向かって歩き出した。彼が振り返ることは無かった。
朝、少年は居なくなっていた。彼は元々旅館の客では無かったそう。もし彼と一緒に林へ行っていたらどうなっていたのだろう。考えているのはその事ばかりだった。
自分が書いている小説のことなど、どうでもよくなっていた。
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