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第1部 高級クラブのお仕事
夕暮れの慕情
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『あんた!きのう何度も電話したのに、何で出えへんの!?』
次の日、二日酔いの涼平の頭に最初に飛び込んできたのは、由奈からの電話の怒声だった。携帯を見返すと、神崎と深酒している時刻に何度も彼女から着信が入っていた。
「あの…何か用事がありましたでしょうか?」
『用事がありましたでしょうか、やないでしょ?約束はきちんと守ってくれなきゃ!』
「え?あのホストクラブへ行くってこと?それってもしかして、きのう行くつもりやったん!?」
『当たり前やないの』
(いやいや、どこが当たり前やねん。相変わらずむちゃぶりな…)
「いや、約束は守るけど…別にすぐやなくてもいいやん」
『そんなこと言って、由奈ちゃんの心をもてあそぶつもりなんでしょう?すぐやないと、ダメやからね。今日行くから!』
由奈は言いたいことだけ言うと、電話を切った。
(もてあそぶて何やねん…ていうか、今日かい!)
初給料まで、まだ二週間ちょっとある。涼平の財布はすでに悲鳴をあげていた。
(あ、そういえば…)
大学の休学手続きをした際、後日返金があるので連絡すると言われていたのを思い出した。すぐに学生課に電話すると、取りに行けば学費の一部をすぐに返してもらえるとのことだった。時刻は昼の2時過ぎ、由奈の要望に応えるためにはその返金を取りに行かねばならないが、今から大学のある神戸まで行って帰ってくると少なくとも二時間は必要で、出勤の3時には到底間に合いそうもない。
「今日、どうしてもやらないといけない用事が出来て、少し遅れます」
仕方なく後藤店長に電話して許可をもらうと、直接大学に向かった。
久々に訪れた六甲麓のキャンパスは、まだ本格的な寒さには至っていない街の空気とは違って、山のひんやりとした冷気に満ち、もうすでに冬になっていたことに改めて気付かせられた。学生課で返金を受け取ると、すぐに出勤する気になれず、しばらく学内を歩いた。
(まだ三週間しか経ってへんねんなあ…)
コートを着込んで行き交う学生たちを見ながら、自分もついこの間まで同じ立場だったことをかなり遠くに感じていた。
萌未と初めて言葉を交わした学食に入る。ひょっとして、また会えるかも、という期待もあった。
「椎原くん?」
聞き覚えのある声に後ろから呼ばれて振り返る。そこにある顔を見て、トクン、と脈が一つ跳ねる。ビールではなく、コーヒーを飲んでいた涼平に声をかけてきたのは、萌未ではなく、美伽だった。
「久しぶりね…」
美伽は涼平の側まで来ると、優しく微笑んだ。控え目だが、洗練された美しさのある美伽の笑顔に、思えば彼女に振られるところから自分の新地での生活が始まったのだと思い返し、胸が疼いた。
(ああ、この人の笑顔、やっぱり好きやな)
珍しく声をかけてきた美伽ともう少し話がしたい、そんな思いにかられた。
「今、講義の終わり?」
「うん。椎原くんは?誰かと待ち合わせ?」
「いや、ちょっと用事があってね、今終わったとこ。藤原は?今からサークル?」
「ううん、わたしも今日はもう帰るところ」
会話はそこで途切れ、しばらく沈黙が流れた。美伽は涼平の横にしばらく立っていたが、
「あ、じゃあ…行くね」
と、所在なさげに肩の位置で手を振った。
「あ、あの、俺も帰るから一緒に帰らへん?」
涼平は慌てて紙コップのコーヒーを飲み干すと、立ち上がった。美伽はその慌てぶりを見てくすっと笑うと、笑顔のまま頷いた。
美伽に恋を打ち明けた日、鮮やかに色付いていた銀杏並木の葉はもうほとんど散って枯れ木の佇まいだった。涼平たちはバスを使わず、徒歩で駅への坂道を降りた。
「ここの景色、わたし好きやな」
美伽に振られたときの、そして涼平が黒服になろうと決心した公園で、美伽は足を止めた。
公園の柱時計は5時を回ったところで、辺りには夕闇がすでに迫り、高速や鉄道のライトのラインがダイヤのネックレスのように東西に煌めいていた。
「実はね、椎原くんに聞きたいことがあったの」
美伽は夜景を見ていた目を涼平に向けると、
「今、休学して、水商売やってるって、本当?」
と聞いてきた。
「あ、うん…何で知ってるん?」
「お友だちに聞いたの」
美伽と涼平は学部が違ったので、きっと寮の連中の誰かに聞いたんだなと思った。
「どうして?」
「え?うーん、どうしてって言われても…」
言い淀んだ涼平に、美伽は、
「わたしの…せい?」
と、聞きにくそうに聞いた。
「え?いや、藤原のことは全然関係ないよ」
流れ的には美伽に振られたことは大いに関係していたが、涼平が黒服になる決意をした直接の要因は萌未であり、美伽ではなかった。しかし、それを美伽に説明することは、ためらわれた。
「わたしの言うことやないのは分かってるけど…やっぱりね、ちゃんと大学出た方がいいと思うの」
美伽のその言葉を聞いたとき、ああ、彼女とはもう住む世界が違うんだな、と思った。ここの夜景を一緒に見ることを憧れていた人と、今こうやって実際に見ている………その街の灯の煌めきが思ったよりも小さく見えるように、自分たちの距離も次第に離れてしまってきている………涼平にはそのことが寂しく感じられた。
「藤原は?この前言ってたフィアンセと結婚して、幸せになれる?」
我ながら愚問だな、と思った。が、所詮人の将来なんて不確かなもの、そんな考えを彼女にぶつけたい、という衝動にかられていた。
「分からない…」
だが、彼女の口から出たのは意外な言葉だった。
「最近、分からなくなってきたの…」
そう呟くように言った彼女は、いつの間にか肩が触れ合う位置に迫っていた。そして、その頬を涼平の肩に触れさせた。
セピアから濃紺に移りゆく神戸の街を見下ろしながら、二人はしばらく無言で佇んだ。涼平は彼女に何を言うべきなのか、言葉が見つからずにいた。5年も憧れた彼女の小さな肩が手を伸ばせばすぐのところにあるのに、彼はコートのポケットから手を出すことすら出来なかった。
「お酒、飲みたいな…」
やがて美伽は、ぽつりと、そう呟いた。
「椎原くんは仕事行かなきゃだめよね?」
そして、涼平の肩に付けていた頭を離し、ストレートの黒髪を手直ししながら、そう言った。時間は5時を過ぎた頃…7時に神戸を出れば、何とか営業には間に合うだろう…涼平はそんな計算を素早くした。
「あ、俺、少しなら付き合えるよ」
彼女と一緒にいたい、という気持ちよりも、何かを思い詰めたような彼女らしくない行為に、そのまま別れてはいけない気がしていた。
「六甲駅の近くに俺の友達がバイトしてるビストロがあるから、そこでいい?」
涼平がそう言うと、美伽は微笑みながら頷いた。時間があまりなかったので、タクシーを拾って阪急六甲駅のすぐ南にあるその店まで向かった。
ビストロに入ると、涼平を見つけた友人が、お、珍しいやつがきた、と笑顔で迎えてくれた。オープン間もない店内にはまだ客は入っておらず、友人は涼平たちを気遣ってか、窓際の一番ゆったりとしたテーブルに案内してくれた。何やねん、彼女か?と去り際に肘でつつくというオプション付きで…。
丸テーブルに直角に座り、涼平は照れくさそうに、
「ごめんな、あいつ、あほやから」
と八の字眉の顔を少し赤らめた。
「うふふ、椎原くん、昔から友達多いよね」
美伽はそう言ってまた、涼平がずっと目で追っていた彼女がよくしていた首を傾げる仕草で、柔らかい笑顔を向けてきた。
「友達の多さは、藤原には敵わへんよ」
実際美伽の周りにはいつもクラスメイトの輪ができているイメージだったので、そんな彼女から比較的暗い存在だと思っていた自分に友達が多いと言われたのは意外だった。
「そんなことないよ。わたしなんて、心許せる友達は少ないの。こんな風に一緒に気楽にお酒を飲みに来ることなんて、ゼミやサークルのコンパ以外はほとんどないのよ」
きっと大学でも大勢の輪の中心にいると思われた彼女が、自分のことをそんなふうに言うのも意外だった。案外、外から見えている姿なんていい加減なのかもしれない…彼女のふと見せた寂しそうな顔に、涼平は昔の自分と同じ匂いが薫ったような気がしていた。
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「あの…何か用事がありましたでしょうか?」
『用事がありましたでしょうか、やないでしょ?約束はきちんと守ってくれなきゃ!』
「え?あのホストクラブへ行くってこと?それってもしかして、きのう行くつもりやったん!?」
『当たり前やないの』
(いやいや、どこが当たり前やねん。相変わらずむちゃぶりな…)
「いや、約束は守るけど…別にすぐやなくてもいいやん」
『そんなこと言って、由奈ちゃんの心をもてあそぶつもりなんでしょう?すぐやないと、ダメやからね。今日行くから!』
由奈は言いたいことだけ言うと、電話を切った。
(もてあそぶて何やねん…ていうか、今日かい!)
初給料まで、まだ二週間ちょっとある。涼平の財布はすでに悲鳴をあげていた。
(あ、そういえば…)
大学の休学手続きをした際、後日返金があるので連絡すると言われていたのを思い出した。すぐに学生課に電話すると、取りに行けば学費の一部をすぐに返してもらえるとのことだった。時刻は昼の2時過ぎ、由奈の要望に応えるためにはその返金を取りに行かねばならないが、今から大学のある神戸まで行って帰ってくると少なくとも二時間は必要で、出勤の3時には到底間に合いそうもない。
「今日、どうしてもやらないといけない用事が出来て、少し遅れます」
仕方なく後藤店長に電話して許可をもらうと、直接大学に向かった。
久々に訪れた六甲麓のキャンパスは、まだ本格的な寒さには至っていない街の空気とは違って、山のひんやりとした冷気に満ち、もうすでに冬になっていたことに改めて気付かせられた。学生課で返金を受け取ると、すぐに出勤する気になれず、しばらく学内を歩いた。
(まだ三週間しか経ってへんねんなあ…)
コートを着込んで行き交う学生たちを見ながら、自分もついこの間まで同じ立場だったことをかなり遠くに感じていた。
萌未と初めて言葉を交わした学食に入る。ひょっとして、また会えるかも、という期待もあった。
「椎原くん?」
聞き覚えのある声に後ろから呼ばれて振り返る。そこにある顔を見て、トクン、と脈が一つ跳ねる。ビールではなく、コーヒーを飲んでいた涼平に声をかけてきたのは、萌未ではなく、美伽だった。
「久しぶりね…」
美伽は涼平の側まで来ると、優しく微笑んだ。控え目だが、洗練された美しさのある美伽の笑顔に、思えば彼女に振られるところから自分の新地での生活が始まったのだと思い返し、胸が疼いた。
(ああ、この人の笑顔、やっぱり好きやな)
珍しく声をかけてきた美伽ともう少し話がしたい、そんな思いにかられた。
「今、講義の終わり?」
「うん。椎原くんは?誰かと待ち合わせ?」
「いや、ちょっと用事があってね、今終わったとこ。藤原は?今からサークル?」
「ううん、わたしも今日はもう帰るところ」
会話はそこで途切れ、しばらく沈黙が流れた。美伽は涼平の横にしばらく立っていたが、
「あ、じゃあ…行くね」
と、所在なさげに肩の位置で手を振った。
「あ、あの、俺も帰るから一緒に帰らへん?」
涼平は慌てて紙コップのコーヒーを飲み干すと、立ち上がった。美伽はその慌てぶりを見てくすっと笑うと、笑顔のまま頷いた。
美伽に恋を打ち明けた日、鮮やかに色付いていた銀杏並木の葉はもうほとんど散って枯れ木の佇まいだった。涼平たちはバスを使わず、徒歩で駅への坂道を降りた。
「ここの景色、わたし好きやな」
美伽に振られたときの、そして涼平が黒服になろうと決心した公園で、美伽は足を止めた。
公園の柱時計は5時を回ったところで、辺りには夕闇がすでに迫り、高速や鉄道のライトのラインがダイヤのネックレスのように東西に煌めいていた。
「実はね、椎原くんに聞きたいことがあったの」
美伽は夜景を見ていた目を涼平に向けると、
「今、休学して、水商売やってるって、本当?」
と聞いてきた。
「あ、うん…何で知ってるん?」
「お友だちに聞いたの」
美伽と涼平は学部が違ったので、きっと寮の連中の誰かに聞いたんだなと思った。
「どうして?」
「え?うーん、どうしてって言われても…」
言い淀んだ涼平に、美伽は、
「わたしの…せい?」
と、聞きにくそうに聞いた。
「え?いや、藤原のことは全然関係ないよ」
流れ的には美伽に振られたことは大いに関係していたが、涼平が黒服になる決意をした直接の要因は萌未であり、美伽ではなかった。しかし、それを美伽に説明することは、ためらわれた。
「わたしの言うことやないのは分かってるけど…やっぱりね、ちゃんと大学出た方がいいと思うの」
美伽のその言葉を聞いたとき、ああ、彼女とはもう住む世界が違うんだな、と思った。ここの夜景を一緒に見ることを憧れていた人と、今こうやって実際に見ている………その街の灯の煌めきが思ったよりも小さく見えるように、自分たちの距離も次第に離れてしまってきている………涼平にはそのことが寂しく感じられた。
「藤原は?この前言ってたフィアンセと結婚して、幸せになれる?」
我ながら愚問だな、と思った。が、所詮人の将来なんて不確かなもの、そんな考えを彼女にぶつけたい、という衝動にかられていた。
「分からない…」
だが、彼女の口から出たのは意外な言葉だった。
「最近、分からなくなってきたの…」
そう呟くように言った彼女は、いつの間にか肩が触れ合う位置に迫っていた。そして、その頬を涼平の肩に触れさせた。
セピアから濃紺に移りゆく神戸の街を見下ろしながら、二人はしばらく無言で佇んだ。涼平は彼女に何を言うべきなのか、言葉が見つからずにいた。5年も憧れた彼女の小さな肩が手を伸ばせばすぐのところにあるのに、彼はコートのポケットから手を出すことすら出来なかった。
「お酒、飲みたいな…」
やがて美伽は、ぽつりと、そう呟いた。
「椎原くんは仕事行かなきゃだめよね?」
そして、涼平の肩に付けていた頭を離し、ストレートの黒髪を手直ししながら、そう言った。時間は5時を過ぎた頃…7時に神戸を出れば、何とか営業には間に合うだろう…涼平はそんな計算を素早くした。
「あ、俺、少しなら付き合えるよ」
彼女と一緒にいたい、という気持ちよりも、何かを思い詰めたような彼女らしくない行為に、そのまま別れてはいけない気がしていた。
「六甲駅の近くに俺の友達がバイトしてるビストロがあるから、そこでいい?」
涼平がそう言うと、美伽は微笑みながら頷いた。時間があまりなかったので、タクシーを拾って阪急六甲駅のすぐ南にあるその店まで向かった。
ビストロに入ると、涼平を見つけた友人が、お、珍しいやつがきた、と笑顔で迎えてくれた。オープン間もない店内にはまだ客は入っておらず、友人は涼平たちを気遣ってか、窓際の一番ゆったりとしたテーブルに案内してくれた。何やねん、彼女か?と去り際に肘でつつくというオプション付きで…。
丸テーブルに直角に座り、涼平は照れくさそうに、
「ごめんな、あいつ、あほやから」
と八の字眉の顔を少し赤らめた。
「うふふ、椎原くん、昔から友達多いよね」
美伽はそう言ってまた、涼平がずっと目で追っていた彼女がよくしていた首を傾げる仕草で、柔らかい笑顔を向けてきた。
「友達の多さは、藤原には敵わへんよ」
実際美伽の周りにはいつもクラスメイトの輪ができているイメージだったので、そんな彼女から比較的暗い存在だと思っていた自分に友達が多いと言われたのは意外だった。
「そんなことないよ。わたしなんて、心許せる友達は少ないの。こんな風に一緒に気楽にお酒を飲みに来ることなんて、ゼミやサークルのコンパ以外はほとんどないのよ」
きっと大学でも大勢の輪の中心にいると思われた彼女が、自分のことをそんなふうに言うのも意外だった。案外、外から見えている姿なんていい加減なのかもしれない…彼女のふと見せた寂しそうな顔に、涼平は昔の自分と同じ匂いが薫ったような気がしていた。
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