【完結】北新地物語─まるで異世界のような不夜街で彼女が死んだわけ─

大杉巨樹

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第1部 高級クラブのお仕事

グラデーション

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「ごめん、起こした?」
「う~ん…わたし、眠ってしまってたのね…」

 このホテルに着いたのが22時過ぎ、それから2時間くらいが経過していた。涼平りょうへいは果たして美伽みかはここまで来た経緯を覚えているだろうかと不安になる。

「ここ、どこか分かる?」
「分かるよ。わたし、記憶は無くしたことないのよ」
「そっか、よかった。俺が拉致ったって思われたらどうしよって思った」

 涼平が心から安堵して笑うと、

「ううん、ごめんね、わたしのわがままに付き合わせてしまって…」

 と、美伽は申し訳なさそうに頭を下げた。そしてベッドから立ち上がり、窓際に寄る。

「いいお部屋取ってくれたのね。綺麗…」

 壁一面のガラス窓からは神戸の夜景が一望できた。今日はこれで三度目の夜景である。

 夕方のオレンジから濃紺へと移っていくグラデーションの夜景…
 ネオンが全て灯った後の、華やかだが毒々しさも加わった夜の夜景…
 そして、今は家々や店の灯が消灯した後の静かな夜中の夜景…

 一つ一つを思い起こしたとき、まるでその変化は今日の美伽に似ているな、と思う。

「こっちで一緒に見ない?」

 美伽はサイドテーブルに着き、涼平は彼女の横のソファに座った。

「まるで、修学旅行みたいね」

 彼女はそう言ってにっこり微笑んだ。時間を戻せるなら、戻したい。もし、高校のときにこんなシチュエーションがあったなら、臆病な自分でも彼女に迷わずアタックしただろう。

 だが、今の彼女にはフィアンセがいる……

 涼平はそこではたと思考を止めた。

 いや、では今のシチュエーションでは駄目なのか?
 彼女にどんな苦しみがあるのか具体的には分からないが、それだけで、こんなホテルに男と泊まるだろうか?

 そして思考が巡り、それとともに鼓動が早打つ。

(私ね、椎原しいはらくんが描く絵、好きやったなあ…)

 ああ、俺もあの頃、美伽の絵を描くことだけに、幸せを感じていたよ……

「なあ、美伽って、呼んでいい?」

 涼平がそう聞くと、美伽は涼平に視線を向け、

「いいわよ、涼平」

 と微笑んだ。ストレートの黒髪を足らしながら首をかしげる、涼平の一番好きな彼女の仕草とともに…

 そのまま無言で見つめ合う二人…

 防音されたホテルの部屋に、美伽にまで伝わってしまうのではないかと思う程、涼平の心臓が高鳴っていた。

 と、そこへ、

 ブーン、ブーン、ブーン

 と、一瞬心臓の音がとうとう飛び出してしまったかと思うほどの振動音が響いた。

 涼平は慌ててポケットの中の携帯を取り出す。
 美伽も同時に携帯を開いている。

 二人はそれから、お互いの行動の素早さに、顔を見合せて笑った。鳴っていたのは涼平の携帯だった。着信は、由奈ゆなからだった。

(あ…!そう言えば今日、約束してたっけ…)

 昼間に一方的にホストクラブへ行くことを告げられたのを思い出し、涼平は顔を歪めていつまでも振動する携帯を握りしめる。

「出なくていいの?」
「うん、大した用事やないと思うから」

 早く鳴り止んでくれと手のひらで携帯を覆い、何とか鳴り止んだと思うと、すぐにまたかかってくる。

「わたしのこと気にしないで、出てあげて」
「うん…どうせ飲みの誘いとかやと思うし、大丈夫」

 もう一度やり過ごすが、携帯は再三振動を繰り返す。こんなことなら完全にサイレントモードにしとくべきだったと後悔した。

「そんなにかかってくるってことはきっと大事な用事なのよ」
「いやあ~そんなことないと思うんやけど…」

 スルーすることを諦めてバスルームに向かおうとする涼平に、 

「ここで、出てあげて」

 と美伽は言う。拒否る選択肢はない、といった強い口調だったので、仕方なく、美伽の横で電話に出た。

『あんたぁ!信じられへんわあ』

 第一声からすでに怒っている由奈の声が飛び込んできた。

『由奈ちゃんの心をもてあそぶんもいい加減にしいやあ!』
「あの…お掛け間違いでは…」

 涼平はそう言って即座に電話を切る。が、それで諦める由奈ではない。ブーン、ブーン、と、振動は繰り返される。

(もう~空気読んでメールとかにしてくれよ~)

 横を見ると、出なさい、という美伽の冷たい視線…

「はい、椎原です」
『あんた!おちょくってんの!?今何してるんよ?』
「あの、その件に関しては後日必ず実行させていただきますゆえ、今日は立て込んでおりまして、また改めて電話させていただきます」

 涼平は息つく間もなく早口でそう言ってから、即座に電源をオフにした。

「ちょっとこいつ、頭おかしいねん」

 携帯を指差して取り繕うが、美伽の視線は相変わらず冷たい。

「もてあそぶって?」

(き、聞こえてるやん!)

「い、いや、店の子でね、そういうこと平気で言うやつやねん…」

 ふうん、と言ってため息を一つつくと、美伽は、

「わたし、水商売って嫌い」

 と、きっぱりとした口調で言った。

(あ~あ、何か最低な雰囲気になってしもたし…由奈のあほ!)

 涼平は心の中で由奈のほっぺたを思いっきり引っ張り、一息ついて美伽に直る。

「何で、そんなこと言うん?」
「実際にそのお仕事してる人には申し訳ないけど、わたし、どうしても好きになれないの。涼平もそんな仕事早く辞めて大学に戻った方がいいと思う」

 美伽は公園で言ったのと同じことを言った。そんな仕事、と言われたことが悲しく、腹立たしくもあった。

「美伽はやったことないから、どんな仕事か詳しく分からへんやろ?それってただの偏見やと思うよ」

 言葉に険が入り、その涼平の言葉に彼女は一瞬戸惑いを見せたが、何かを思い止めたように首を振り、

「そうね」

 とだけ言うと、

「わたし、少し寝かせてもらうね」

 と、バスルーム前の洗面台で寝支度を整え、布団に潜り込んでしまった。

 普段朝まで起きている涼平は眠る気になれず、そのままソファーに座って夜景を眺めていた。夕方感じたのと同じ距離を、美伽にもう一度感じて、侘しかった。


 由奈のせいで雰囲気が一変したとはいえ、一つの部屋に男と女が一緒に寝ていることには変わりない。もし美伽のベッドまで行けば、俺たちは一つに繋がれるだろうか…

 そんなことを考えていた涼平の頭に、ふいに萌未めぐみの言葉が浮かんだ。

(あたしのこと、大切なら待ってて)

 窓の側まで立って夜景を見下ろす。小さくなった車のライトが時折流れていく他は、まるで寝息を立てているように静かな街の風景だった。これから数時間経つと、このモノトーンの街が色付き、日常の動きを展開するのだろう。涼平に取っての非日常的な今日のことなんて、砂浜に描いた絵のように掻き消されてしまう。美伽は大学で講義を聞き、自分はドルチェで奮闘する。

 涼平は振り向き、掛け布団を微かに上下させている美伽を見る。

 あそこに、もう一つの別の扉がある。あの扉を開ければ…俺は大学に復帰し、美伽と将来を語り合っている…?

 そもそも自分に取って北新地は異世界のようなところだった。自分が色街に迷い込んだこと自体が非日常なのだ。今勇気を出してあの扉を開ければ、元の日常に戻れるだけでなく、ずっと恋い焦がれていた彼女をも手に出来る………



 窓の外の夜景と、布団に包まった五年間想いを募らせた彼女、その二つを交互に眺めながら、二つの扉の向こうに広がる世界を行ったり来たりしているうちに、暁光が街を照らし始めた。


「風邪ひくわよ」

 いつの間にか寝てしまい、毛布を掛けてくれようとした美伽の声で目を覚ました。

「わたし、このまま大学に行こうと思うけど、涼平はもう少し寝ていく?」

 窓からはもう、明るい日差しが射し込んでいた。美伽はすでに出仕度を整えている。

「あ、俺も、もう出るよ」

 急いで洗面を済まし、二人でクロークまで降りた。

 アタッシュケースを持って慌ただしく出ていくビジネスマン風の層が多い中、酔いの勢いでここまで来た涼平たちは完全に周囲から浮いているように感じられた。クロークに向かおうとする美伽を慌てて止め、チェックアウトして支払いを済ますと、きのう学生課で受け取った金の半分が消えた。

「高かったでしょ?半分出すよ」
「いや、いいの、いいの。きのう全部払ってもらったし、ここは出すよ。こう見えて俺、結構リッチやねんで」

(何の見栄やねん…)

 それは最後の最後にみっともない姿を晒してしまったことへの精一杯の取り繕いだった。

「ありがとう。本当に、楽しかった…」

 言って美伽は優しく微笑んでくれる。駅と大学は反対方向だったので、ホテルのドアを潜ると、美伽は肩の位置で手を振って、ホテル前に停まっていたタクシーに乗った。

「涼平」

 ドアが閉まる間際、美伽は顔にかかった長い髪を耳の横で抑え、しっかりとした目線で涼平を捉えると、

「わたし、涼平に出会えてよかったって思ってる」

 と言ってにっこりと微笑んだ。そして、まるできのうの夕刻から始まった舞台の幕がおりるように、タクシーは視界からはけていった。


 終わった、そんな気がして、涼平は大きく伸びをした。ごめんなさい、と振られた二十歳の誕生日の日より、喪失感は大きかったかもしれない。


 結局自分はもう一つの扉を開けられなかった……
 そして今日もまた、おかしなおかしな北新地での冒険が始まる。


 よし、と踏ん切りをつけ、一歩を踏み出した時、すぐ横を濃紺のSUVタイプの車が通り過ぎ、涼平はその車の座席を咄嗟に見た。萌未の姿を見たような気がしたのだ。

(え!?まさかな…)

 涼平は自嘲気味に笑った。朝まで二つの選択肢をさ迷っていたので、その象徴である二人の姿がきっと脳裏にこびりついているのだろう。

 そう解釈し、駅までの道を歩き出した。





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