【完結】北新地物語─まるで異世界のような不夜街で彼女が死んだわけ─

大杉巨樹

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第2部 萌未の手記

大切なものを仕舞うように

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 人は拠り所を無くすと生きている意味をも失う───

 今にしてみれば、結局あたしには志保姉しほねえかたき討ちに身を投じるしか生きる術が無かったんだと思う。







 拓也のことに気を取られていたので、フジケンの席に近づいたとき、あたしはハッとした。フジケンの三本あるボトルのうち、ブランデーを涼平りょうへいの席に出していたのだ。

 どうやって誤魔化そうと考えながら席に着くと、フジケンの方から、

「今日はな、一緒にお祝いして欲しいことがあるんや」

 と言う。何かと尋ねると、

「この宮本みやもとがな、正式にうちの娘と婚約したんや。萌未めぐみ、一緒に祝ったってくれ」

 と破顔する。あたしの顔からすうっと血の気が引いた。拓也を見ると、表情を隠すように俯いている。

「そ、そうなんですね…それは…おめでとうございます」

 かろうじて祝辞を述べ、所望されたベル・エポックのロゼを用意させた。シャンパンが抜かれる間、あたしはずっと拓也を睨んでいたが、彼はあたしと一切目を合わせようといなかった。


 何よ!

 あたしと遠い所で一緒に暮らすとか何とか言っておきながら、裏では美伽みかとよろしくやってたんやない!


「宮本、子どもはええぞ。早く式挙げて、俺に孫の顔を見せてくれ」

 そんなことを言いながら始終幸せそうに笑うフジケンを見て、あたしは心の中で唾を吐いた。

 あんたの幸せは、あたしたちの家族の犠牲の上で成り立っているのだ!

 そんな怨嗟の言葉が喉元まで湧き上がってくるのを、シャンパンで必死に飲み下した。拓也は相変わらずどっちつかずな弱々しい笑みを浮かべている。そんな彼にも苛立ちを抑えられなかった。あたしは砂漠の中でカラカラに乾いた喉を潤すように、浴びるようにシャンパンを飲んでやった。



 ふと、涼平が気になった。

 そんな砂漠のような状況の中で、涼平のいる場所はオアシスに思えた。

 思えばあれはちょうど5年前、あたしは涼平を虜にしようと悪魔と契約を交わし、あたしの血を仕込んだドクロのキーホルダーを隆二に届けさせた。奇しくもそのキーホルダーを涼平に渡すように頼んだ隆二りゅうじもこの場に居合わせている。

 今度こそあの契約の対価を払ってもらう、あたしは悪魔にそう囁いた。





 そんな中、出来島がチェックを入れたというのでまずその席に戻る。

藤原健吾ふじわらけんご…なかなか羽振りのいい飲み方をしますね」

 忌々しそうにフジケンの席を見て言う出来島に、

「隆二の用心棒のお話、お受けします。今日この場からでいいですよね?」

 と、さっき断ろうとした申し出を受ける。出来島と隆二が眉を上げてあたしの顔を見た。出来島には喜色が、隆二には驚きが混じっていた。

「分かりました。隆二は残していきますので、好きに使って下さい。後ほど、また連絡させていただきます」

 出来島が言いながら強い眼光を走らせる。こちらの手配を受けるのだから、もう電話はスルーするな、言外でそう語っていた。




 出来島を見送り、隆二をエレベーター下に待たせると、あたしはホールに上がって黒田店長の元へ行く。そしてポーチの中から薬包紙に入った粉を取り出した。


 この薬は志保姉が部屋に残していった睡眠薬で、飲んでみると即効に眠ることができ、普通の処方箋よりもかなり強いことが伺えた。あたしは志保姉の形見の一つとして大事に取っていたのだが、いつしかあたしも眠れなくなった時などに持ち出して飲み、それがこの頃には頻繁になっていて、拓也の家とミナミの部屋、どちらで寝てもすぐに服用できるように化粧ポーチにも何包か忍ばせていた。


「ね、今から同伴の席に戻るけど、あの客のグラスにこのクスリを仕込んで欲しいの」

 店長にそう頼むと、あからさまに訝しい目であたしを見る。

「何やこの薬?睡眠薬か何かか?」
「まあそんなようなもんよ。あの客、寝かせてあたしの家に運びたいの」
「お前、何言ってるんや。大体まだ客が残ってるやないか」
「それは大丈夫。隆二が運んでくれるから」
「隆二が?無理やろ、大の男を一人で運ぶのは」
「そんなら店長も付き添ってよ。あたし、今日は売り上げのために無理して飲んだのよ。それくらい協力してよ」

 飲んだのはあたしの気分だったが、そこは恩着せがましく言う。店長がため息をつきながらも了解してくれたので、今から席に戻って酔った振りしてあの客のグラスを落とすから、新しいグラスに仕込んでおいてと頼んだ。




 そうして席で寝込んでしまった涼平を、下まで運んで隆二と店長にあたしの部屋まで運んでもらう。

「おい、これ!涼平やないか!」

 涼平の顔を見て隆二が驚く。

「あら、覚えてた?あんたの用心棒としての初仕事よ。ちゃんとやってよね」

 そこへ店長も苦情を言ってくる。

「俺もまだ仕事があるんやぞ」
「店のことは林マネージャーに任せたらいいやない。今日は店も落ち着いてるんやから大丈夫でしょ?店長やないとあたしの家の場所分からへんし」
「前にお前が誕生日で気を失った時、家まで運んだんは林と夏美やぞ」
「細かいこといいでしょ?たまには窓口らしいことしてよね。この人はね、あたしの大切な人なの。よろしくお願いします」

 あたしはそう言って、まだ不服そうな店長に家の鍵を渡す。

「大切な人って、お前、あれからずっと涼平のこと想ってたんか?」

 隆二は呆れたように涼平を見下ろしながら言った。

「そうよ、悪い?」
「5年間も…お前、気持ち悪いやっちゃな…」

 隆二はどこかで聞いたセリフを言う。

 そう、涼平は5年間美伽のことを想っていた。

 でも実は、あたしは違う。

 あたしはもっと…涼平と初めて出会ったのは8歳頃からだから12年かな?

 あたしの砂場の王子さま…

 その彼が今、あたしの部屋へと運ばれようとしている。


 これで血の契約は果たされた?

 それとも、あたしが未だに大切に涼平のハートの欠片を持ってるから?

 あたしは高揚する胸の前で、携帯のストラップとなっている涼平のハートのパズルの欠片を抱き締めた。





 あたしは出来島の提案を受けた。それはすなわち、復讐を進めるということ。

 シャンパンで酔ってはいたが、そっちに舵を切ったのは決していい加減な気持ちからではない。

 あたしはフジケンの嬉々とした顔を見て、やっぱりこの男は許せないと思った。もし復讐を忘れて拓也と暮らしたとしても、後々絶対に後悔する。

 それに拓也の態度……

 拓也には拓也の事情があるのかもしれない。だけど、彼の優柔不断な態度はあたしの決断を後押しした。

 あたしはフジケンの接客をニコニコ顔で最後までこなし、脂が乗って丸く湾曲した後ろ姿を見送りながら、その笑顔を近いうちに必ず絶望で引きつらせて見せると誓った。







 そうしてやっと帰宅し、あたしの目の前で寝ている涼平を見る。悪い夢を見ているようで、ばあちゃん、ばあちゃんとうわ言を言っていた。

 あたしは子どもの頃の参観の作文を思い出す。涼平は芸者だったおばあさんのことを誇りに思ってると書き、後ろに並ぶ父兄たちから失笑を買ってきたが、水商売が大嫌いだったあたしには衝撃を与えた、あの作文……

あたしは起きておどおどしている涼平にキスをし、自分の布団の中に招き寄せ、聞いた。

「ね、おばあちゃんは?どんな人やの?」
「ん?何で?」
「きのうね、涼平、ばあちゃん、ばあちゃんって寝言言ってたわよ」
「え…それは恥ずかしいな…。俺、ばあちゃん子やったからね」
「おばあちゃん、生きてはるの?」
「もう10年前に亡くなったよ」
「その時、悲しかった?」
「そりゃあね、もうわんわん泣いてたよ」
「ね、おばあちゃんのこと、今でも好き?」
「うん。ばあちゃんは俺にとって原点やからね」

 あの小学生の頃の作文のままに言う涼平……

 芸者をしていたというおばあちゃんを誇りにしていると言った涼平……

 幼い頃好きになったそのままの涼平が、そこにいた───。







 そして朝になり、ここまでずっと振り回していた涼平を解放しなければいけない段になり、涼平は最後の最後であたしを驚かせた。

「俺、黒服になる」
「はぁ⁉」

 一瞬、耳を疑った。あたしは涼平の鼻をつまみ上げた。

「もう一度言ってみなさい」
「うぉれくれうくになう」
「あのねえ、そんなこと冗談で言うもん違うよ?」
「ちょうたんちあう」
「え?」

 何を言ってるか分からなかったけどそれは鼻を摘んでるからで、涼平は悪くない。

「冗談違う。俺、黒服になる。そんでその給料から飲み代払うから、それまで付けにしといてくれよ」

 やっぱり、鼻を摘むのをやめても、何を言ってるか分からない。

「いい加減にしなさい。奢りって言ってるでしょう?」
「そんなに奢られるわけにはいかないよ。それに俺、ちょうど大学辞めようと思ってたしな」
「片想いの子に振られたから?」
「ま、まあ…あ、でもそれだけやないよ。萌未めぐみのことももっとよく知りたい」
「別に黒服にならなくても、あたしとは大学で会えるやない」
「いや、何ていうか…萌未のもっと近くにいたいっていうか…黒服になったら萌未のそばにいて、萌未を守ってやれるかもしらんやろ?」


 あたしを守る?

 今、涼平、あたしを守るって言った?

 一瞬、拓也が、そしてトラの顔が、頭を過る。彼らはあたしの、あたしらしさの何たるかを知っている。でも涼平はあたしが誰かを思い出せてもいない。ちょっと笑いがこみ上げ、そして、不思議な感動に包まれた。

 この人は何も知らないで純粋にあたしのことを守ろうとしてくれているのだ。


「寒っ」

 あたしは変な身震いがして毛布にくるまった。

「よかった。俺の考えに寒いって言われたかと思った」
「考えに寒いって言ったのよ」

 あたしは毛布の片側を上げてパンパンとはたき、涼平を横に潜らせた。

「本気やの?」
「本気や」


 ちょっと、楽しくなった。


 北新地は復讐の場、ずっとそう思って働いてきたけど、この時は少し、職場に青春の香りが漂った気がした。




 この日、あたしは涼平と何度もキスをした───。


 あたしの中でわだかまり、トグロを巻いていたどす黒い部分が、彼と唇を合わせる度に浄化されるような気がした。


 そしてあたしは、まるで大切なものを綺麗に包装して仕舞うように、涼平にこの部屋に住むことを許したのだった。





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