【完結】北新地物語─まるで異世界のような不夜街で彼女が死んだわけ─

大杉巨樹

文字の大きさ
186 / 208
第3部 他殺か心中か

ロスト・イン・メイズ

しおりを挟む
 黒田くろだ翔伍しょうごは気が付くと、暗い廊下の突き当りに寝かされていた。リノリウムの床の冷たさが頬を伝ってくる。起き上がって見渡すとそこは幅二メートル程の通路のようで、化学実験室のような薬品の匂いが充満している。後ろは堅固な壁でドアも何も無い。天井には丸いダウンライトが等間隔に配置されているが今は点いていない。廊下の先の方に仄明るく壁掛け灯が灯っている以外、周囲は完全に闇に包まれていた。どうやら廊下を進めということらしい。まるでRPGのダンジョンだ。

 ここは何かの研究所だろうか…先の灯りに灯された壁は乳白色に光沢し、ダウンライトが灯れば壁も床も天井も真っ白なのが推察された。黒田は大学時代に所属していた研究室を思い出す。関西では有名な私大の理学部に在籍していたのだが、実験に明け暮れた研究室がちょうど今嗅いでいるような薬品臭を充満させていた。

 耳を澄ますと空調の乾いた音がする。その反響具合から今いる建物がかなり広いことが分かった。若干寒いが耐えられないほどではなく、湿度は低く口の中が乾いて唾液の粘度が高くなっている。一体どれくらいの時間寝かされていたのだろう……直近の記憶を辿ってみるが、こんな施設に結びつく経緯には思い当たらない。


 黒田は回想する。確か、自分は北新地の上通りを歩いていた。道のあちこちには踏まれて潰れた大豆がアスファルトに乳濁色のシミのような線を引いている。今日は新地全体で節分のお水汲み祭りが催され、路上には豆撒きの残滓が残っていた。


 節分の北新地は夜になると花魁に扮した北新地クイーンや鬼の装束を着た男たちを先頭に、法被を着た者たちが薬師堂と書かれた提灯をかざし、太鼓や鐘を鳴らして北新地の通りを練り歩く。そして予め厄払いを申し込んだ店々の軒先や店の中で盛大に豆を撒いて回るのだ。黒田の働くクラブ若名わかなも毎年厄払いを申し込んでいて、今頃はウエイターたちが巻かれた豆を掃除していることだろう。例えその厄払いに参加していなくとも、ほとんどの店々は節分祭にちなんでホステスやスタッフたちに仮装を義務づける。お化けの日と呼んでいるが、元々は京都の祇園に倣い、北新地に置屋が軒を並べていた頃の名残りだという。花街の風習では普段着ない衣装を着て鬼を払ったらしいが、現代的にアレンジされた北新地のお化けの日には、鬼や芸姑といった伝統的な格好以外にもアニメや映画のキャラクターを模した格好をする者が多く、北新地全体が盛大なコスプレ大会と化す。


 クラブやラウンジなどでは同伴ノルマも課し、普段の日よりもかなり忙しくなるのだが、夜中12時も過ぎると喧騒も落ち着き、通りにはしんとした冬の冷気が戻っていた。黒田は最近休んでいた店のホステス、つばさに呼び出され、店が落ち着いてから彼女の指定した新地の西外れに向かって歩いているところだった。上通りの西端にはお水汲み祭の出発点となる薬師堂が正三角形の多面体の屋根を擁した近代風の佇まいで建っており、祭の協賛者の名を連ねた垂れ幕が張り巡らされているが、広場にはすでに人が引き後片付けの法被姿がちらほら残っているだけだった。広場に着いて当たりを見回すと、つばさが角一角にぽつんと立ち、黒田の姿を認めて手を肩の位置に上げて小さく振るのが見えた。




 黒田がつばさというホステスの担当になって二年が過ぎようとしていた。つばさは店の中ではどちらかというと地味なホステスで、顔立ちは決して悪くはなく細面だが頬には美人特有の丸みと艶があり、男好きのする顔立ちをしているのだが、性格が暗いので今一人気が出ない。そこを何とか黒田が客席で明るく振る舞えるよう指導し、ここ一年は指名数も上がってきていた。そんなつばさだったのだが、年末頃から体調不良を訴え、店を休みがちになった。年が明けると無断で欠勤し、連絡もつかなくなっていた。そのまま飛んでしまうかと思われたが、今日になり、店に復帰させて欲しいという主旨の電話をかけてきた。店則では本来無断欠勤した時点でクビとなるのだったが、黒田にはつばさがそうなった経緯が気になった。なぜ彼女が無断で休むに至ったのかを聞き、理由によっては復帰させてやるつもりだった。



 昼職と違い、水商売の仕事にはスタッフもホステスも、責任感のない人間が混じっている率が高い。そもそも昼間の仕事が出来ないから夜の世界に足を踏み込んだという人間が多いのだ。なので、入店時に必ず読んでもらう店則では、ほとんどの店が無断欠勤に対して日給罰金を課している。その日が無給になるだけでなく、さらに一日分の日給に当たる金額を徴収するのだ。それは法的にはアウトなのだったが、それくらいきつい罰則を設けない限り、ちょっと二日酔いになったくらいで休むホステスが後を絶たず、その日の営業が立ち行かなくなってしまう。それでも強引に休むホステスもおり、どこの店の黒服もその日のホステス人数確保に夕方は心を砕くのが水商売のあるあるなのだ。だが黒田の担当ホステスに関してはそういったことがほとんどなく、それがオーナーの評価を買い、今勤めている若名では店長の座まで上り詰めた。黒田はホステスの教育には自信があり、それ故に、無断欠勤したつばさのことはずっと引っかかっていた。



 黒田のホステスに対する教育の自信の裏には、心理学に裏打ちされた意識変革の実績があった。黒田自身、もし何らかの教祖的存在になろうと思えば、そんじょそこらの怪しい宗教の開祖などよりももっと巧妙にその世界に君臨できるのではないかと思っていた。そうはなっていないのは、そもそも自分が目立つ必要を感じないからだ。なぜやつらは教祖などになるのか……それはきっと、人に祭り上げられることで自分の存在意義を感じようとするからだと思っていた。実際、悪名高い新興宗教の開祖には、そうなる前に犯罪歴がある者が多い。社会に適合出来ずに法を犯した者が、自意識だけは肥大化させ、人から崇められることで自己肯定感を何とか維持しようとする。そのうち自分は本当に特別な存在なのだと錯覚し、さらなる高みを目指して自分には奇跡を起こす力があるなどとのたまわり、あげくの果てに本来の無能さを曝け出して自滅する。社会問題となる新興宗教の開祖の多くが辿る道を、黒田は蔑んだ目で見ていた。



 世の中を好きに操りたければ、何も自分が矢面に立つ必要などない。それなりの力のある人間に取り入り、裏でそいつらを操ればいい─それが黒田の考え方だった。力のある人間……政治家であれ、法律家であれ、財界人であれ、ある程度のし上がった人間は皆、色を求める。そのポジションにつくまでの若い頃を死にものぐるいで努力し、いざ高みに登ると、若い時分に成し得なかったモテ男になろうとする。だが多くの者は恋愛経験値が低いものだから、金で靡くような簡単な女にハマる。そしてそいつらは決まって、その女たちの頂点が集まる銀座や北新地に寄ってくるのだ。なのでもし、高級クラブのホステスたちを意のままに動かせるようになれば、いつしか世の中をも自分の意のままに動かせるのではないか……そう考えて黒田は北新地の黒服になった。



 元々のきっかけは幼馴染であるトラに北新地で働いてみないかと誘われたことだった。トラは悪名高き高いヤクザの組長の父親から十三じゅうそうのビルを手に入れ、高校を卒業するとそれを元に早々と事業家として名乗りを上げた。そして自ら経営する水商売や風俗の店舗を増やしながら足場を築き、いよいよその終着点として北新地に店を構えようとした。黒田はそんなバイタリティー溢れるトラに、幼い頃からずっとコンプレックスを抱いていた。トラは自分たち幼馴染六人の中でずっとリーダー的存在であり続け、子どもの頃からこいつはきっと一角ひとかどの人物に成長するだろうという予兆を黒田も感じていたのだが、その予想に違わず、トラは中学ではその辺の不良連中を率いる存在となり、高校を卒業する頃には関西を代表する半グレ集団のトップに上り詰めた。その人を従える才覚は経営面でも遺憾なく発揮され、みるみる手掛ける系列店を増やしていく。学歴こそ黒田の方が上だったが、おそらく地頭では敵わないかもしれない。当然腕力で適うはずもなく、黒田は大人になっても、トラには全ての面において自分が劣っていると感じさせられていた。



 のだが───



 トラは呆気なく死んだ。まさか、その死に自分が関わっているとは誰も思わないだろう。黒田はあの日、自分を超える存在を人知れず消し去れたことに、心の底から笑った。結局自分はトラを超えた──自分こそがこれから躍進していくのだ、そう心から実感できた日だった。




しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

隣に住んでいる後輩の『彼女』面がガチすぎて、オレの知ってるラブコメとはかなり違う気がする

夕姫
青春
【『白石夏帆』こいつには何を言っても無駄なようだ……】 主人公の神原秋人は、高校二年生。特別なことなど何もない、静かな一人暮らしを愛する少年だった。東京の私立高校に通い、誰とも深く関わらずただ平凡に過ごす日々。 そんな彼の日常は、ある春の日、突如現れた隣人によって塗り替えられる。後輩の白石夏帆。そしてとんでもないことを言い出したのだ。 「え?私たち、付き合ってますよね?」 なぜ?どうして?全く身に覚えのない主張に秋人は混乱し激しく否定する。だが、夏帆はまるで聞いていないかのように、秋人に猛烈に迫ってくる。何を言っても、どんな態度をとっても、その鋼のような意思は揺るがない。 「付き合っている」という謎の確信を持つ夏帆と、彼女に振り回されながらも憎めない(?)と思ってしまう秋人。これは、一人の後輩による一方的な「好き」が、平凡な先輩の日常を侵略する、予測不能な押しかけラブコメディ。

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

戦場帰りの俺が隠居しようとしたら、最強の美少女たちに囲まれて逃げ場がなくなった件

さん
ファンタジー
戦場で命を削り、帝国最強部隊を率いた男――ラル。 数々の激戦を生き抜き、任務を終えた彼は、 今は辺境の地に建てられた静かな屋敷で、 わずかな安寧を求めて暮らしている……はずだった。 彼のそばには、かつて命を懸けて彼を支えた、最強の少女たち。 それぞれの立場で戦い、支え、尽くしてきた――ただ、すべてはラルのために。 今では彼の屋敷に集い、仕え、そして溺愛している。   「ラルさまさえいれば、わたくしは他に何もいりませんわ!」 「ラル様…私だけを見ていてください。誰よりも、ずっとずっと……」 「ねぇラル君、その人の名前……まだ覚えてるの?」 「ラル、そんなに気にしなくていいよ!ミアがいるから大丈夫だよねっ!」   命がけの戦場より、ヒロインたちの“甘くて圧が強い愛情”のほうが数倍キケン!? 順番待ちの寝床争奪戦、過去の恋の追及、圧バトル修羅場―― ラルの平穏な日常は、最強で一途な彼女たちに包囲されて崩壊寸前。   これは―― 【過去の傷を背負い静かに生きようとする男】と 【彼を神のように慕う最強少女たち】が織りなす、 “甘くて逃げ場のない生活”の物語。   ――戦場よりも生き延びるのが難しいのは、愛されすぎる日常だった。 ※表紙のキャラはエリスのイメージ画です。

ト・カ・リ・ナ〜時を止めるアイテムを手にしたら気になる彼女と距離が近くなった件〜

遊馬友仁
青春
高校二年生の坂井夏生(さかいなつき)は、十七歳の誕生日に、亡くなった祖父からの贈り物だという不思議な木製のオカリナを譲り受ける。試しに自室で息を吹き込むと、周囲のヒトやモノがすべて動きを止めてしまった! 木製細工の能力に不安を感じながらも、夏生は、その能力の使い途を思いつく……。 「そうだ!教室の前の席に座っている、いつも、マスクを外さない小嶋夏海(こじまなつみ)の素顔を見てやろう」 そうして、自身のアイデアを実行に映した夏生であったがーーーーーー。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

クラスのマドンナがなぜか俺のメイドになっていた件について

沢田美
恋愛
名家の御曹司として何不自由ない生活を送りながらも、内気で陰気な性格のせいで孤独に生きてきた裕貴真一郎(ゆうき しんいちろう)。 かつてのいじめが原因で、彼は1年間も学校から遠ざかっていた。 しかし、久しぶりに登校したその日――彼は運命の出会いを果たす。 現れたのは、まるで絵から飛び出してきたかのような美少女。 その瞳にはどこかミステリアスな輝きが宿り、真一郎の心をかき乱していく。 「今日から私、あなたのメイドになります!」 なんと彼女は、突然メイドとして彼の家で働くことに!? 謎めいた美少女と陰キャ御曹司の、予測不能な主従ラブコメが幕を開ける! カクヨム、小説家になろうの方でも連載しています!

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...