狼男が恋をした(仮)

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第三章

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 空は灰色の雲に覆われて、水気をたっぷり含んだ風がグラウンドを緩くさまよっている。

降りだしてもおかしくない空模様でも、高校生は元気だ。

「体育、外のは中止になるかな」

「あれ面倒なんだよな、ドレミファソで往復するやつ!」

「適当なとこで止めりゃいいじゃん、真面目すぎなんだよおまえ」

「だって他の奴に負けたくねぇし! 今度は俺が一番な、鉄也!」

「・・・・・・おう」

 喧騒は窓の外を眺めるばかりの生返事で静まっていく。
教室に人が何人いようと一目で分かる、灰色の頭部は少し艶がなくなって見えた。

「なあ、やっぱ元気ないよな」

「原因なんか分かりきってんじゃん」

 騒がしい男子高校生でも、友人の空気くらいは読める。
ましてやその元気のなさが、友人同士の不和なら尚更だ。

 原因など分かりきっている。
普段つるんでいる男友達、だがこの場にいない、篠原 みつるだ。
鉄也のホームステイ先がみつるの家で、入学当初から彼が鉄也の世話を焼いていることはこのクラスの者ならば誰もが知っていることだった。
異国出身ゆえの文化の違いと言うべきか、それとも鉄也自身の性格なのか、時折とんちんかんなことを言い出すことはあれど、そのフォローをするみつるに嫌悪感はなさそうだった。

 だから、鈴木と鉄也の仲も、応援しているものだと思っていたのだ。

「みつるの奴、どうしちゃったんだろう。 まさか本当に鈴木と鉄也の間に割り込むんじゃ・・・・・・」

 誰かが不安を口にするも、それを否定する声はない。
この数日間、鉄也がみつるを避けていたのは事実で、今みつるがいないのも、鉄也の想い人である鈴木に呼び出されていたからだった。

「これが三角関係って奴なのか?」

「それにしたって鈴木も鈴木だよな、鉄也と喋ってる時まんざらでもなさげだったのによ」

 恋愛沙汰には首を突っ込んではやし立てたいお年頃。
しかし、それが身近な友人の三角関係ともなると、気軽な接し方はできないというもの。なんと声をかけて良いやら分からず、話題が鈴木 明亜の悪口にシフトしかけた男子の一人は、次の瞬間口をつぐむ羽目になった。

 窓の外を眺めていたはずの鉄也が、首をひねり視線だけをこちらに向けていた。
ぎょろりと投げかけられたアイスブルーの視線は、明らかに敵意をはらんでいる。
突っ伏しただらしのない態勢だというのに、スチール製の机の脚が重圧でへし折れ
そうだ。
 誰か静めてこいよ、と生け贄を探す目線が飛び交うも、いつもの生け贄は姿を消したまま。
振りだした雨が窓に水玉をうちつける教室で、機嫌の悪い留学生を前に男子達は途方に暮れるのだった。




 どうしてこうなった。
 小説や漫画で主人公の心情を表す一言で、これほど使い勝手のいい言葉はないだろう。
友達の好奇の視線や鉄也の殺気を背中に受けて移動する間中、僕の心はずっとその一言で埋まっていた。
ラノベの主人公はごめんだと言ったはずなのにな・・・・・・!

 ビニールハウス内は相変わらず瑞々しい緑と、色とりどりの花で覆われていた。
今が春だという理由もあるだろうけれど、ここの華やかさは見るものの心を和らげる。

 そして僕の両脇にはこれまた二輪の華、というべきか。
テーブルの空間を不自然に余らせて、瀬野さんと鈴木さんは椅子をぴったり寄せて僕の隣にくっついている。
状況としては男子なら垂涎ものなのだろうが、今の僕の心境としては全く嬉しくない。
ビニールハウスの一角にあるツタ植物の生い茂った茂みに隠れてやり過ごしたい。

 なぜか、と言われれば簡単なことだ。

「それで、篠原君。小林君となにがあったの?」

「さっさと吐いた方が楽になるわよ」

 ここに連れ出された目的が僕本人ではなく、鉄也のことだからだ。
将を得んとすればまず馬から、とは言うが、馬の気持ちを考えたことがあるだろうか。
この手紙を○○君に渡しといて、○○君の仲を取り持って、台詞と共に色々な思い出が蘇ってきたので僕はそっと目頭を押さえた。

「確かにあるにはあったけど。
僕らでなんとかするから、鈴木さんたちは心配しないでよ」

 暗に放っておいてくれと促してみるが、そこで引き下がってくれないのが鈴木さんだ。
日ノ本人なら空気を読んで頂けないだろうか。

「そ、そういう訳にはいかないよ! 
あんなに仲の良かった二人が急によそよそしいんだもん、気になるし、周りの子達も心配してるし・・・・・・
それに、無関係な人に話すことで整理できるかもしれないよ?」

 口外はしないし、できることなら協力するから! と身を乗り出して気合を入れる鈴木さんはやる気に満ち溢れているようだ。
完全に悪意がないところがかえって断りづらい。

 一方、反対側の瀬野さんは僕から少し距離をとり、またしても頬杖をついている。
僕らに対する興味があるようには全く見えない。
鈴木さんのストッパーとして着いてきたのだろうか。しかし向けられたまなざしを見るに、僕を逃がすつもりもないらしい。

 ここは園芸部のビニールハウス内、目に優しい緑が柔らかく注ぐ空間はすでに彼女たちのものだ。
二人に挟まれ、僕は折れるほかなかった。

「えぇと・・・・・・鉄也って別の国から来た留学生だっていうのはわかってるよね?」

「うん」

 やっと話してくれるかと、鈴木さんが顔を輝かせて相槌を打つ。

「それで、カルチャーショックっていうのかな、鉄也にとっては当たり前なんだけど、僕にとっては受け入れがたい出来事に遭遇しちゃって」

「文化の違い、ってことかな?」

 というよりは種族の違いだ。
しかし下手に真実も話せない今、頭を回転させて内容をぼかし、言えないことはフェイクを入れる。
特殊な事情をどこにでもあるような悩みに変換させることは実行するのが大変に難しいと判明した。

「つまり、篠原君は受け入れられない事象に対して拒絶してしまったのだけれど、小林君そのものを否定してしまったようになって、それで小林君の方から距離を置いた、ってことなのかな」

 小首を傾げて話を聞き終えた鈴木さんが結論をまとめる。
大体そんな感じだとうなずくと、頬杖から机に突っ伏し昼寝の態勢に入っていた瀬野さんが口を挟んだ。

「じゃああんたが誤解を解いたら済むことなんじゃないの」

「それは、そうなんだ、けど」

 簡潔にことを終わらせたい彼女らしい解決策だ。
だけど、僕の中身がそれを受け入れようとしない。

 プワン、と耳障りな羽音が頭のそばを横切った。
植物がこれだけたくさんあるのだから虫だっていて当たり前なのだけれど、その存在を認識した途端にうっとおしいものとして意識がそちらへ向いてしまう。

 頭を軽く振って、虫を遠ざけ、考える。
伝えるための言葉を選んでいる僕を、鈴木さんも瀬野さんも、静かに待っていた。

「鉄也は、いい奴なんだ。拒否しちゃったことも、悪いなとは思ってる」

「うん」

「あいつが僕にとって受け入れられる存在だったら、僕だってここまで悩んでない。
友達になれると思ってたし、あいつの頼みも協力できた」

「一時腰ぎんちゃくみたいだったものね」

「でも、アレは、アレだけは許容できないんだ。下手に巻き込まれれば僕は死んでしまう」

 金属をたやすく捻じ曲げ、木を砕いて地面をえぐる力。
本能が痛いほどに警告を送ったのだ、近づいてはならないと。

 死ぬという言葉を入れて引かれてはないかと顔を上げたが、意外にも二人ともいつもの表情をしていた。

「でもあんた、今の時点で巻き込まれないでいるほど距離をとれてるようには見えないけど」

「えっ」

「どうあがいたって一年は同じクラスで、席だって近い。
死んじゃうような事態がどういうことなのかは分からないけれど、万全を期すんだったら転校くらいしないとだめなんじゃないの?」

 瀬野さんの返した言葉で僕は気づいてしまった。
そうだ、モンスターの転校生はこの区間にはたくさんいる。
多種多様で、中には人畜無害な奴だっているだろうが、鉄也のような力を持っている奴らの方が多いだろう。
更に僕の父さんは彼らの管理を仕事にしている。
安全を確保するのなら、他県に引っ越して一人暮らしする覚悟を持たなければならない。

 クラスとも馴染みはじめ、落ち着いてきた時期に転校。
だめだ、転入先で注目の的になる未来しか見えない。

 今更過ぎる事態に気づいてショックを受ける僕だったが、意識を引き戻したのは鈴木さんの言葉だった。

「えっと、篠原君がどうしても転校したいっていうなら、寂しいけど、応援するよ。
でも、小林君には伝えておいた方がいいと思うな」

「転校するって事実を?」

「違うよ、小林君のことは嫌いじゃないよ、ってこと」

 それにしてもこの二人、突拍子もない方へ話が飛んでいるのに随分と平静を保っているな。
最近の女子というのはみなこれくらい寛容なんだろうか。

 などといらないことを考えている内に、鈴木さんがたどたどしく言葉を紡ぐ。

「だって、そんなことになったら、小林君、きっと自分のせいだって思っちゃうから。
嫌われたと思ったままその相手と話すこともなくなるって、すごく辛いことだと思うよ」

 そう言う鈴木さんの眼差しは、優しい。
クラス内での自己紹介の時、『人間の気持ちを考えられるようになりたいです』と言っていたように、彼女の言葉は相手の立場に沿っている。

 ああ、でも。
そんなことを言われたら、いざという時鉄也のことでなく、自分のことしか考えていなかったぼくは恥ずかしくてしょうがない。

「でも鉄也が話してくれるかどうか・・・・・・僕が鉄也のこと、災害と同じレベルで怖がってると思わせちゃったし」

「え? でも似たようなものだよ」

 ざわざわとした気持ちを隠すために軽口を叩いてごまかそうとすれば、何気ない顔で意外な答えが返ってきた。

「だって、自然も怖いしすぐそばにあるけれど。
同族や人間だって自分とは切り離せないものでしょ? 
災害は避難すればなんとかなるかもだけど、人間の方は問題が起きても逃げられない分、厄介だよ」

 ビニールハウス内では風は起きない。
植物たちという自然は静かに周りを埋め尽くして佇んでいる。

 そうか、そういう考え方もあるのかと、僕は目から鱗ということわざを実感していた。





 空には自由気ままな浮雲がぷかぷかと浮かぶ。
こんないい天気に外に出なくてなんとすると、ジョギングに励む女性、犬と散歩するおじいさん、ボールを追いかけ戯れる子供たち。
神城東緑地は様々な年代の人たちで賑わっていた。

 平日の昼日中に学生服を着てなぜこんな処にいるかといえば、単純に校外学習だからである。
スケッチと、緑地の成り立ちや取り組みの実地調査。
授業とはいえ、普段は教室内にいなければいけない時間帯に外に出ているという高揚感が、僕たち生徒を駆り立てる。

「おい、ブランコあるぞブランコ」

「ブランコではしゃぐなよ」

「それ、なんだ?」

「えっ、鉄也知らないの? ここにこう、足かけて乗って、こいで、飛ぶんだよ」

 後ろでわいわいとはしゃぐ男子たちの声が、羨ましい。
ブランコの間違った使い方を教えてもらっている鉄也と、ふと視線がかちあう。

「なぁ鉄也、いい加減許してやれば? みつるがなにやったのかは知らないけど」

「おこってはいないぞ」

「うそつけ、めっちゃ睨んでんじゃん・・・・・・」

 ヤのつく自由業の方かと見紛わんばかりの狼男。
なぜ郊外学習で若干の命の危機を感じなければならないのか、ぼくはそっと持っていたスケッチブックで背中に刺さる鉄也の視線をガードした。

 鈴木さんに諭され、少しだけ気持ちに整理をつけられたぼくだが、いまだ鉄也に話しかけられていないのには訳がある。

「あの、篠原くん。予定がないなら、私たちと一緒に来る・・・・・・?」

 男子たちと少しの距離を置いて佇んでいるぼくに、鈴木さんがおずおずと声を掛けてくれる。
眼鏡越しの上目遣いは鉄也程ではないが、可愛らしいと思える威力はあった。
しかしわずかな胸の高鳴りは、背後からの殺気で別のものへとすりかわる。

「いやいや、だ、大丈夫! 予定ある! めっちゃある!」

「そう?」

 両手をぶんぶん振り、冷や汗を垂らしながらダイナミックお断りしますをかましたぼくはさぞや不審者に見えたことだろう。

 鉄也がぼくと距離を置くと、男子たちは戸惑いつつもどちらかにつかざるをえない。
すると大体みんな鉄也の方へつく。
みんな本能で強いのがどちらかわかっているのだろう。
・・・・・・いや、けしてぼくに人望がないわけではないと、思う。

 そうするとぼくは必然的に一人で行動する羽目になる。
この前の会話で少し仲良くなれたらしい、鈴木さんがぼっちを心配してぼくに声を掛ける。
すると嫉妬に駆られた鉄也が怒り、更に対話が難しくなる、と。

 気にかけてくれる鈴木さんには悪いが、完全なる悪循環なのだと気づいてほしい。
ああ、しかしそうすると鉄也が鈴木さんを好きであることを公開することになり、そうなるとそもそも鉄也本人が恋心を自覚しなければならないわけで。

 人生とはままならない。
ぼくは空で風に流されるしかない雲を見上げるしかなかった。

「神城高等学校、生徒一同集合!」

と、学級委員長から号令がかかり、先生から郊外学習の注意が簡単に述べられる。

いまだ騒がしい生徒たちを一喝し、先生から軽い注意事項が入る。
曰く、買い食いは禁止。
迷惑行為はもっての他、学校の一員として来ている自覚を持つこと、危険なので北にある鉄塔には近寄らないこと――

 中学の頃からずっと受け続けてきたような注意ばかりなので、本気で興味を持って聞いているのは鉄也くらいなものだ。
では解散、の一言を受けて生徒たちはわっと散らばる。

「鉄也、あっちでソフトクリーム買いに行かね?」

「食い物はダメじゃないのか?」

「いんだよ、今日の授業は地域を知ろうだろ。俺たちはこうして食べ物を通して緑地内の経済をだな」

 去り際に狼男が悪の勧誘を受けている会話を耳に入れてしまった。
初っぱなから注意事項を破る気満々だ。
しかし今のぼくに止めることはできない。
鉄也が堕ちてしまわぬよう祈るだけだ。

「・・・・・・あれ」

 ふと、気がつくと。
周りにはぼく一人がぽつんと立っていた。
買い食いしている生徒を取っ捕まえに行ったらしい、先生すらいない。
近くの遊具ではしゃぐ幼児の声を背に受け、ぼくの顔に嫌な汗が伝う。
鈴木さんの誘いを断ったとはいえ、一人くらい声をかけてくれるんじゃないかと期待していなかった訳じゃない。
が、その結果がこのざまである。
ひょっとしてぼくが今まで認識していた友人は『鉄也の友人』であって、ぼくはそれにくっついていただけだったのか?

「ねえ、行かないの?」

 知りたくない事実に衝撃を受けていると、声をかけられた。
地獄の蜘蛛の糸を掴むような心持ちでぼくは振り向く。
ほら、やっぱ、いるよ! 友達いないわけじゃないよ、ぼく! 
そこにはぼくと同じくらいの体躯、つまり男子高校生の平均といった子が立っていた。黒髪に黒い目、前髪が少し長いくらいで外観も特筆すべきことは書かれていない。
と、ここまで考えてぼくは内心首を振った。
鉄也に特筆すべきことが多すぎるだけで、普通の日ノ本人は大体こんな感じだった、と。

「ううん、行くよ。どこから回る?」

「人がたくさんいるところは止めとこうね、描きにくそうだし」

 声をかけられたことが、自分は一人でないことが嬉しくて、ぼくは彼が誰だったかなんて確認していなかった。
ぼっちでないなら、どうでもよかったのだ。





 ぽきっ。

「う」

 木が折れる小気味良い音とともに、鉄也の顔にシワがよる。
その様子を後ろから見ていた友人は、あーあ、と苦笑いをこぼした。
ふしくれだった指の間から覗くのは、粉々になった木材と青色の芯だ。

「鉄也、もう色鉛筆使うの止めたら? 普通の鉛筆より脆いらしいし」

「いや、それは芯の話であって、鉛筆そのものの強度とは関係ないからな」

 手のひらから丁寧に鉛筆の残骸を取り除く竹島に、斎藤がツッコミを入れる。

「・・・・・・色鉛筆、使ってみたかったんだ・・・・・・」

 短く刈られた芝生の上に座り込んだ鉄也がしおしおと元気をなくしていくのを見て、二人は顔を見合せ苦笑をこぼした。
クラスメイトの中でも特に鉄也を気にかけていた彼らは、最近鉄也が美術の面白さに目覚めたことを知っている。
その力加減の下手さゆえ、結構な頻度で用具を破壊していることも知っている。

「ねえ、じゃあみつるに借りたら?」

「俺らは持ってきてるの、絵の具だけだからな」

 さりげなく落とされた提案に、鉄也の眉間にシワがよる。
そう、二人は彼らのいさかいの原因が鉄也の方にあることも知っているのだ。
みつるが何度も鉄也に話しかけようとしていることも、それを拒んでいるのは鉄也の方だとも。

 しかし提案は案の定というべきか、鉄也の盛大なしかめっ面に否定された。
ついでにその手の中にあった色鉛筆はただの木屑となった。
斎藤は下草の上へ無造作に置かれた色鉛筆ケースをちらりと見やる。
大丈夫だ、最悪緑と水色さえあれば風景画は描ける。

「・・・・・・・・・・・・いやだ」

「どうして?」

 晴天といっても差し支えない青空、子供達が遊具にはしゃぐ喧騒。
飛び交う野球ボールやらフリスビーの餌食にならないよう原っぱの隅で三角座りをした留学生は、動く気配がない。
竹島が肩に手を置き、優しく問いかけると、鉄也はスケッチブックごと己の膝をぎゅっと抱き抱えた。

「あいつは――」

 犬歯を見せるほどに口を開き、何度か言いよどんで、答えを返そうとようやく言葉を発そうとした時。
鉄也は目を見開き、勢いをつけて立ち上がった。

「わ、なんだよ!」

 驚いた斎藤の声にも耳を貸さず、鉄也はひたすらに辺りを見回す。
ひく、と鼻腔に取り込んだ空気にはここ数日の間に嗅いだことのある臭いが含まれていた。
人でも、獣でもない。
血生臭い、妖怪のものだ。
やがて視界に目的のものが写る。
人の邪魔にならないよう剪定された木々の隙間に、影が一瞬だけ見えた。
人の形をしているが、人でないのはこちらに勘づき逃げ出したスピードで丸分かりだ。

「あっ、ちょっと鉄也?」

 竹島の呼び掛けに返事は返さず、スケッチブックと色鉛筆を放り出して追いかける。
砕けた木屑が口に入ったらしく斎藤がぺっぺと唾を吐く音が背後で聞こえたが、そんなものは構っていられなかった。
そうだ、竹島と斎藤に構っている暇はない。
妖怪との戦いなんて人間に見せてはいけないものなのだ。

 まばらに落ちた木の葉を蹴り上げて、林の中に飛び込む。
故郷ではほんの短い時期にしか見られなかった物だから、視界に入ると暖かさの象徴のような気がして嬉しかった。

 姿勢を低くして走っていたが、枝が顔に当たらないことに気がついて走りやすい体勢に変わる。
高い位置にしかついていない枝や、木々の不自然な配置に内心疑問を浮かべる。
やがてそれは発見と共に仮説を産み出した。
不自然な配置は人間が都合よく植えたものだからだ。
枝が低い位置にないのも、人間が通りやすくするため。
しかし臭いを追って無作為に走る鉄也の視界にばかり、すぱりとまっすぐに切り取られた葉や枝の断面が目につくのだ。
まるでこちらに来い、と誘導しているように。

 一旦足を止め、鉄也は相手が通ったであろう道筋を辿るのを止めた。
こちらが追ってくるのを想定しているなら、多少遠回りになるが、風下から臭いのみを辿った方が思惑にはまるのを防げると踏んだのだ。
足音を最小限にとどめ、速さよりも気配の遮断を優先して進む。

 五分も走っただろうか。
草葉の臭い、ほぼ消えかけた人間たちや連れられた動物たち、いまだ違和感を覚えるコンクリートの臭い、そして相手のわずかな獣の臭い。
それらの他に、鼻腔に侵入してくるものが特別に濃くなった。

 やがて鉄也の視界に、巨大な鉄塔がそびえ立つ。
臭いの元はこれのようだ、と鉄也は浅くついていた息を戻していく。
教師が近づいてはいけない、と言っていた鉄塔。
巨大な生き物の骨組みのようなそれは所々に赤錆が浮いていた。
死して尚糸を吐く化け蜘蛛のようで、鉄也はそっと一礼をした。
これほど巨大な鉱物の、しかも鉄の塊はやはりというべきか。
殴り付けるような臭いが、腹のそこをじわじわと熱くさせる。
いけない、と鉄也の理性が危険信号を放つ。

 視界に怪しいものが写っていないか、辺りを見回す。
危険という言葉と共に黄色い稲妻が書かれた看板、薄っぺらいトタンの壁でできた小屋とそれより遥かに硬そうな棘つきの柵。
生き物の気配は、ない。

 鉄の臭いが濃すぎて鼻が鈍っていることに内心舌を打ち、鉄也は地面に手がかりがないか、そして不意の攻撃に対応できるよう身を屈めた。
その時だった。

 低くなった視界に、なにかが写る。
緑と鉄だらけの合間に、眩しいほどの、肌色。
足元に落ちている肌色とはなんだ、と鉄也は一瞬それの正体を認識できなかった。
が、緑が草だけではなく、自分も着ているブレザーだと気づいた時、背中にぞくりと冷たいものが走った。

「おい」

 小さく声を漏らすが、慌てて口を塞いだ。
近づいてはいけないと言われた場所に倒れている生徒。
罠の予感しかしない。
ここで声を出して無造作に近づけば、気配を消してきた意味がなくなる。

 先ほどと同じように静かに確認しよう。
そう思った矢先のことだった。
鉄也は地面を蹴り駆け出した。
土とちぎれた草は宙を舞う。
距離にしてたった十数メートルの距離だが、それを見下ろせる位置に来たとき彼は息を切らしていた。
アイスブルーの瞳はゆらゆらと揺れて、なかなか眼前の光景を受け止めない。
しっかりしろと目を擦りたいが、指の先すらぴくりとも動かない。

 すみれのような薄い色をした目は、形の良い瞼に覆われて見えない。
元より白く透き通るような肌は更に血の気が引いて、テスト用紙のように真っ白だった。
血の気は引いていたのだ。
肩から腹へと斜めにこぼれる大量の血液が、ぼとりぼとりと彼女の命を削ぎ落としていた。

 彼女の指は動かない。鉄也の指も動かない。

 彼女の髪は地面にぺたりと流れ落ちていた。鉄也の髪はふつふつと逆立って、落ち着かない。

 彼女の薄く開いた唇は、たらりと血を一筋流していた。
鉄也の口からは、たらりと、涎が流れる。
鉄也は口を大きく開けた。
鋭く尖った牙が、唾液にまみれて鈍い光を放った。

 それの肩に手をかける。
骨が通っているはずのそれは大層柔らかく、皮でこれなら中身はさぞや、と舌なめずりをした。

 こういう時はなんというのだったか。
ああ、そうだ。

「イタダキマス」

 覆い被さり、太陽を遮って陰になった表情はただ黒い。
化け物はそう言って、真っ赤な空間は近づいた。

「だ、め、だぁああああ!」

「うっ」

 不意に訪れたのは、絶叫。
静寂を切り裂くように現れたそれは、意識が逸れていた鉄也の脇腹にクリーンヒットした。
喉の奥から空気が押し出されて、一瞬息の仕方を忘れる。
すわ獲物の横取りか。
瞳孔の開いた目は己の敵を捉えんと、下へぐりんと回転した。

 そこで写ったモノに、鉄也は完全に意識を持っていかれてしまったのだ。

「だめだ、てつや、もどってこい」

 腹が細かく震えている。
それは服越しにこちらをしっかりと抱え込んでくるモノがかたかたと震えているからだった。
握る力だけがしわになるほど強かった。
涙か鼻水が喉に入ったのか、濁った声は聞き取りづらい。

 恐れを全面的に写しながらも、みつるはしっかりと鉄也を見ていた。






 最近の病院は白くない。

 折れた色鉛筆を数えながら、ぼくはオレンジの壁をなんとなしに視界へ入れていた。

 なんとか鉄也を引き戻して。
大変だったのはその後だ。
救急車を呼んで、先生を呼んで、警察を呼んで。
そうしていたら呼んでないのに父さんも来た。

「・・・・・・おまえ、なんで俺を止めた」

 右隣を向けば、観葉植物を挟んで鉄也がこちらを見ていた。
敵意がないとは言え、すっと伸びる葉っぱの間から覗いてくる獣の眼は狙われているようで大変恐い。
というか、ぼくのすぐ隣の席が空いているというのに、なぜわざわざ観葉植物を盾にする。

「協力するって言ったから」

「おれが怖いんだろう。本能に逆らうのはバカのすることだ」

「本能に従ってたら人間の世界に馴染むなんてできるもんか。せっかく留学にきてるくせに、そっちの方がバカだね」

 言い返せば、軽く唸り声をあげた後に葉っぱの間から鉄也の顔が生えた。
その眼光が怒りでギラギラ光っていなかったら、笑えるところだったのに。

「よわいくせに! 仲間との連携もできない、鋭い牙も鼻も、満月の夜にしか使えないくせに! お前なんかがでしゃばってくるな!」

「きみ、さっきから一度も邪魔したこと自体は責めないね」

 途端に落ちる沈黙。
そうとも、狼男の捕食をぼくは邪魔したのだ。
『せっかく食べようとしたのに』という台詞が出てきたっておかしくないのに。

「一ヶ月ちょっとだけど、同じ家に住んでる奴が望んでないことをして捕まるのは、寝覚めが悪いよ。
弱い弱くないは関係あるもんか」

 ちっ、ちっ、と秒針が時を刻む音がやけに大きく聞こえた。
鉄也はぼくから視線を外してしまったから、今も怒っているのか分からなくなった。
観葉植物の後ろから声だけ聞こえる。

「妖怪を見かけて、おれは匂いを辿って鉄塔まで行ったんだ。
お前はどうやってあそこに来た?」

「・・・・・・なんか嫌な予感がして?」

 その返答でまた鉄也がこちらを向いたのが分かった。
片眉を上げた怪訝そうな顔が目に浮かぶようだ。
しかし困った。
あの時感じたことについての詳細を、僕自身うまく説明できない。

「クラスメイトと緑地を周ってたんだけど、集合場所からだいぶ離れてることに気づいて、もう少し探索したいっていうその子と別れて戻ってたんだけど道に迷って、そしたら血の匂いがしたから行ってみたら鉄也と鈴木さんがいた――みたいな?」

 呆れを孕んだ半眼が見えた。なんだそのふわっとした説明、って顔だ。
ぐぬぬ、と唸りながらもっといい言葉はなかったかと額に拳を当てるが、いまいちその時の事が思い出せない。
一緒にいたクラスメイトのことさえも、というかあれは誰だったっけ?

 隣で歩いていたのは、黒髪黒目の、どこにでもいそうな平凡な子だった。
なのになんだか変わった子だな、と思ったのは、あんまり変わらない表情だったからだろうか。
こう言っちゃあ失礼だが、まるで人形のように。

「じゃあ、鈴木が誰に襲われたかまでは分からないんだな」

「それは、その・・・・・・」

「あぁ、いた。あんたたち大丈夫だった?」

 軽く声を掛けられるが、その口調はどこか含みを持っている。
スライド式の扉を静かに開け、瀬野さんがこちらへ向かってきていた。
着替えてきたのだろう、ジーパンに薄手のニットというシンプルな装いは細い彼女にぴたりと合っていた。

「おまえ、なんでいる」

「そりゃいるわよ。明亜とは友達だもの」

 ぎりりと鉄也から八つ当たり気味の視線を受けても、瀬野さんはさらりと流して本題に入る。

「明亜があんたと話したいってさ。
傷に響くだろうからあんまり長くは無理だろうけど」

 観葉植物から鉄也の顔が飛び出す。
驚いて眉間にシワのなくなったその表情は、ぼくと同じような年相応の男の子のそれだった。





「あ、・・・・・・私を見つけてくれたの、小林くんなんだよね。ありがとう」

「ん」

「小林くんは、怪我とかしてない?」

「大丈夫だ」

 簡潔にも程がある鉄也の返事だが、鈴木さんがかろうじて会話を繋げてくれている、といったところか。

「あんたの父さん、なんて言ってた?」

 病室からぼそぼそと漏れ聞こえる声を背後に聞きながら、隣の瀬野さんが話しかけてくる。
今度は観葉植物を挟んでいない方の隣だ。

「事故じゃない、お医者さんが言うには明らかに人間がやれる切り口でもないって。
父さんたちは日本産妖怪の線で報告してみるって言ってた」

「まあ、傷害事件だものね。これ以上は踏み込めないか」

 在日中のモンスター留学生の住居や身柄を管理するのはエージェントの仕事だ。
だが、それが犯罪に届くようなレベルならば警察が介入してくる。
下手をすると領事館のお世話になる、なんてことも。
細かいことはぼくも知らないので、是非ともそうはなってほしくないものだ。

「血はいっぱい出てたんだけど、怪我はそんなにひどくないの。
不思議と痛くないし。それで、あの・・・・・・」

 少しばかりためらって、きゅっと体に力を込めて、勇気を出したのだろう。
大きくなった声は、妙な発音をで言葉を飾った。

「お礼とかしたいから、今度の休みに一緒に出掛けませんかっ」

 しばらく待ってみるが、扉の向こうから返答がない。
思わぬ展開に固まっている姿が容易に想像できる。
おいこら鉄也、さっさと返事してやれ。
鈴木さんが困るだろ。

 思わず心の中で呟いてしまい、ぼくは顔を覆った。
きっと鉄也は目の前の事象に精一杯で聞いていないだろう、せめて吐き出したかった。

「・・・・・・あれ、本当に演技なの?」

「演技じゃないから厄介なんじゃない」

 平然と返す瀬野さんだったが、シワのよった眉間を伸ばすように手を当てていた。
顔に出ていないだけで様々な苦労があったに違いない。

 そう、ぼくと同じような苦労が。



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