自切の条件

鈴木かなえ

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自切の条件

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 いつもどおり、けたたましいスマホのアラームにたたき起こされた。

 前日の疲れと、寝る前に呷ったアルコールの名残を引きずった、いつもどおり最悪の目覚めだった。

 鈍い頭痛に呻きながら、目を閉じたままアラームを止めようと手を伸ばし、スマホとスマホではないものを同時につかんだ。

 それはどう考えても人の手だった。

 オレは一人暮らしで、泊まりに来るような恋人がいるわけでもない。

 昨夜は間違いなく一人で就寝したのに、室内にオレ以外のだれかがいる。

 瞬時に覚醒し、飛び起きた。

 そこで目にしたのは、オレと同じように驚いた顔をしてオレを見るオレだった。

「「うわぁ!」」

 同じ悲鳴をあげ、同じようにのけぞった。

「「なんだよお前!」」

 ここまでまったく同じだった。

 オレたちは呆然と互いを見つめあった。




 「おかえり!」

 残業でくたくたになって帰ってきたオレは、オレに出迎えられた。

 だれかに出迎えられるのは本当に久しぶりなのだが、気分はどんよりと暗くなった。

 今朝のことはやはり夢だったのだという希望は、帰宅直後にあっさりと打ち砕かれたのだ。

「先にシャワー浴びてこいよ。それから夕飯にしよう」

 キッチンからは食欲をそそる香りが漂ってくる。

 散らかっていた部屋は、久しぶりに掃除がされている。

 全てのものが定位置にある。

 逆らう理由も元気もない俺は、言われたとおりに風呂場に向かった。

 さっぱりした後に食べたあいつが作ったチャーハンは、オレが作るのと同じ味だった。

 やっぱりあいつはオレなのだ、と改めて思った。

「プラナリアっていうのがいるんだ」

 発泡酒をちびちび飲んでいるオレに、あいつはノートパソコンの画面を見せてきた。

 そこには平べったいナメクジみたいな生き物が表示されていた。

 俺が仕事に行っている間、あいつは一日かけて部屋の掃除とインターネットでの調べ物をしていたのだ。

「こいつはすごく生命力が強くて、真っ二つに切られても死なない。その上、二つに分かれた両方がまた同じ形に再生するんだ」

 見せられたホームページには、頭側と尾側にプラナリアを切断すると、頭側からは尾が、尾側からは頭が生えてくる、ということが写真で示されている。

「これがオレたちの状況に当てはまるのか?」

「正確には少し違う。オレは昨日は何事もなく帰ってきて、普通に寝たはずだ。体が切断されるような事故にあったわけではない」

「それはそうだ」

「プラナリアはきれいな川とかに住んでる。でも、水が濁ったりして環境が悪くなると、自切っていうのをするんだ。自分で体を二つに切って、そこからさっきの写真みたいに再生する。まったく同じ個体が二つできるんってわけだ」

「なるほど。環境が悪くなると、か」

 あいつは頷き、オレはため息をついた。

 オレが勤めている会社は、いわゆるブラック企業というやつだ。

 給料は低く、サービス残業だらけで、おまけに上司は嫌なやつばかり。

 転職しようにも、その気力も時間もない。

 一人暮らしで部屋も荒れ放題、食事もコンビニ弁当かインスタント三昧で、ストレスから酒を飲むことが増えた。

 プラナリアにとっての濁った水と同じくらいの生活環境の悪さと言えるだろう。

「ドッペなんとかっていうのじゃないのか」

「ドッペルゲンガーな。自分とそっくりの別人が突然現れる、みたいなやつだろ。もちろんそれも考えた。諸説あるようだけど、どうやらあれは幽霊とか幻覚とか、そういったものらしい。でも、オレたちは違うだろ。どっちもはっきりと実体があるんだから」

 たしかに。

 オレは今日は普通に仕事をしてきたし、あいつも家の掃除などをこなしている。

 幽霊だったらこんなことできないだろう。

「それに、今朝のことをよく思い出してみろ。オレはパジャマの下だけ、おまえは上だけ着てただろ」

「つまり……オレが元上半身で、おまえが元下半身だったってことか?」

「そういうことだ。寝ている間に、自切みたいなことが起こったんだと思う」

「自切なんて人間にできるわけないじゃないか。いったいなにがどうなってるんだ」

「まぁ、落ち着けよ。それはオレにもわからないよ。でも、起こってしまったことはしかたないだろ。現実を受け入れるしかないんだ」

 職場で忙しく働きながら、できるだけ今朝のことを考えないようにしていたオレと違い、一日家にいたあいつはいろいろ考えて腹をくくっているようだ。

 理屈はわからないが、オレが二人になってしまった。

 住民票とか戸籍とか、どうすればいいんだろう。

 これからどうやって生きていけばいいのだろう……

「今、悲観的になってるだろ。でもな、考え方を変えてみろよ。オレが二人になったってことは、今まで一人でやってた仕事を二人で分担すればいいってことでもあるんだ。今日はおまえが出勤して、オレが家のことをやった。明日は逆にオレが出勤するから、おまえは休んでていい。こうすれば楽だと思わないか」

 さすがにオレだ。オレが考えていることも、納得するポイントもよくわかっている。

「それをずっと続けるのか?」

「他にいい方法が見つかるまで、な。悪くないアイデアだと思うだろ?」

 だっておまえはオレなんだから、とあいつは笑った。

 オレはしばし考えた。でも結局なにも思いつかず、その案に全面的に賛成することにした。



 こうしてオレたちの奇妙な共同生活が始まった。

 便宜上、オレたちはお互いに呼び名をつけた。

 上半身のオレが一号、下半身のあいつがアルファだ。

 一号と二号、アルファとベータでないのは、どちらも同じオレというオリジナルだからだ。

 それからオレたちの生活は激変した。

 一日交代で休みがとれようになり、まず体がとても楽になった。

 元々料理は好きだったので、家にいる方が自炊をするようにした。

 健康にもよく、二人分作っても食費は以前より安くなったくらいだ。

 家の掃除も行き届き、ゆっくり読書やネットサーフィンをする時間もある。

 見たい番組も同じだからテレビのチャンネル争いも起こらず、同じ空間にいても空気のように気にならない。

 こんなに快適な生活は久しぶりだった。

 ただ、気をつけることもあった。

 職場では翌日に片方が困らないよう、その日にあったことなどをできるだけメモに残しておくことにした。

 業務内容のはお互いにわかっているので、これで特に問題は起きなかった。

 だが、ある日アルファが手に切り傷を作って帰ってきたことがあった。

 割れたコップを片付けようとして、怪我をしてしまったとのことだった。

 この時は迷いに迷って、一号のオレも同じ場所に切り傷を作った。

 しばらく絆創膏でごまかしたとしても、傷跡が残ってしまった場合はそうもいかなくなるからだ。

 このように体に跡が残るようなことは、二人とも慎重に避けるようにした。

 そういう生活も気づけば三年が過ぎていた。

 オレは平社員から課長になっていた。

 どんなに忙しくても根をあげず元気に働き、だれよりも多くの仕事をこなしたのだから当然の出世だ。

 気持ちに余裕ができたことで周りのフォローもできるようになり、信頼され慕われる上司というポジションになっていた。

 以前のいつも暗い顔をして、健康診断で毎回なにかの数値がひっかかっていたころに比べると、別人のように明るく健康的になった。

 一号とアルファの生活もとても安定しており、人生が楽しいとさえ思えるようになっていた。

 だが、そんなある日、オレはあることに気がついた。

 部下のうちの一人、今年入った新入社員の女の子が突然今までと違う態度をとるようになったのだ。

 オレとの接触をやや不自然なくらい避け、それでいて遠くから熱い視線を送ってくる。

 人当たりがよく可愛い彼女は社内でも人気がある。

 オレからしたら高嶺の花だ。

 だから、今まで業務上のやりとりくらいしか接点を持たなかったというのに。

 もし彼女となにかあったなら、アルファはオレに伝えなくてはいけない。

 でも昨日あいつはオレに何も言わなかった。

 そういえば、とオレはあることに思い当たった。

 昨日アルファが仕事から帰ってきたとき、片方の靴下が裏表になっていたのだ。

 その時はとくに気にしなかったが、今になってみると、とても怪しい。

 昨夜、アルファの彼女の間になにかがあったのだろうか。オレは彼女に探りを入れることにした。

 そして、いとも簡単に疑惑は確信に変わった。

 上司の特権を行使し、さりげなく彼女と二人きりになる状況をつくってみた。

 すると彼女は周りにだれもいないと見るや、すぐにオレの胸にすがりついてきたのだ。

「課長、私、昨日の夜のことが頭から離れなくて……」 

 やっぱりか。なんということだ。

 潤んだ瞳に見つめられ頬が緩んだが、『昨日の夜』に具体的になにがあったのかがわからない以上、今は誘いにのって深入りはできない。

 理性を総動員してなんとか理由をつけ、その場を後にすることしかできなかった。

 オレの胸にふつふつと怒りがわいてきた。

 アルファのやつ、なんてことを。

 今日帰ったら、問い詰めなくては。

「そうか、バレたか」

 アルファは悪びれることもなく、あっさりと彼女と関係をもったことを認めた。

「実は少し前からいい感じになってたんだ。で、ついに昨日帰り際に迫られてね。据え膳喰わぬは、って言うだろ」

「だったらなんでそれをオレに言わなかったんだ!」

「大丈夫だと思ったんだよ。オレから声をかけるまでいつもどおりにするようにって約束させたから。それがもうバレるなんて。案外早かったなぁ」

 オレは怒りに震えた。

 アルファだけがいい思いをしたなんて、許せない。

 しかも、ルールを破りオレに秘密にするなんて。

「ずっと隠し通すつもりだったのか」

「さすがにそれは無理だろ。でも、もう少し彼女とオレだけで楽しみたかったんだ」

「だから、それがなんでなんだよ!」

「そんなに怒るなよ。じゃあ、逆に聞くけど、一号がオレの立場だったらどうした?彼女をオレと共有するのか?」

 オレは言葉につまった。

 今までの人生でオレはほとんどモテたことがない。

 そんなオレがやっとできた恋人を誰かと共有するなんて、きっとできないだろう。

 アルファとオレは同一人物だとしても、そこは別問題だ。

「ほら、やっぱりな。おまえだってオレと同じことをするよ」

 なにも言い返せないオレに、アルファは肩をすくめた。

「これからどうするつもりなんだ」

「とりあえず、明日彼女にもう一度クギを刺すよ。このままじゃお前だけじゃなく、他の人にもバレバレだろうし」

「それから?」

「それからって、しばらくこのままでいいだろ。もう少し落ち着いたら、一号にもちゃんと平等になるようにするから」

 アルファはニヤリと笑った。

 彼女とのあれこれを考えているのだとわかった。

 自分の顔にこんなにも嫌悪感を持つことができるなんて。

 オレはゾッとするほどの怒りを覚えた。

 もし彼女がアプローチしてくるのが一日ずれていたら、彼女はオレのものになっていたのに。

 彼女の言う『昨日の夜』は、アルファではなくオレとの思い出であったはずなのに。

 そう思うと、もう止められなかった。

 オレは手近にあったウイスキーの瓶でアルファの頭を思い切り殴り、倒れたところをさらに首を絞めた。

 アルファは少し抵抗したが、すぐに動かなくなった。

 オレはそこで我に返り、自分がしたことの重大さに気がついた。

 目の前には頭から大量の血を流して横たわる死体。

 オレは人を殺してしまった。

 手が震え、顔から血の気が引くのがわかった。

 割れた瓶でできた傷も、アルファがつけた引っかき傷も痛みは感じなかった。

 オレの手から流れた血が、アルファの血に混ざって床にこぼれた。

 しかしそれを見て、オレは冷静さを取り戻した。

 違う身体から流れた血だが、これは同じ血だ。

 精密検査をしても、見分けはつかないはずだ。

 だって、オレはアルファで、アルファはオレだから。

 元々一人だったのが、偶然二人に分かれていただけだ。

 その片方が死んだ。

 つまり、元通り一人に戻っただけだ。

 問題ない。何の問題もないのだ。

 オレはアルファが言っていたプラナリアの性質を思い出した。

 プラナリアはとても生命力が強く、真っ二つにされても再生できるのだ。

 ということは、このままにしておいては、アルファは再生してしまうかもしれない。

 それが叶わないくらい小さく砕かなくては。

 オレは覚悟を決めて立ち上がった。



 結局、翌日は体調不良を理由に有給をとった。
 アルファの処理がとても一晩では終わらなかったからだ。

 吐き気を催す作業は思いのほか時間がかかった。

「課長、まだ体調悪いんじゃないんですか?顔色悪いですよ?」

 さすがに二日続けて有給をとるわけにもいかず、精神的にも肉体的にも疲労困憊のまま出勤した次の朝。

 彼女はオレの顔を覗き込んで、熱をはらんだ視線を送ってきた。

「具合悪いようなら、無理しないでくださいね」

 少女のようなはにかんだ笑みを見せ、彼女はデスクに戻っていった。

 オレは今までに感じたことのない胸の高鳴りを感じた。

 彼女の心はオレにある。

 オレは彼女の上司であり、恋人であり、彼女を如何様にでもできるところにいるのだ。

 そして、同時に今までの彼女とアルファが交わしたやりとりをなにも知らないことに恐怖を覚えた。

 彼女と過ごした記憶は全て、アルファとともに消えてしまったのだ。

 なにか齟齬があったら、恋愛経験の少ないオレが誤魔化しきれる自信はない。

 そうなった時、彼女はどんな反応をするだろうか。

 考えただけで心が冷えた。

 就業後、オレはなにか言いたげな彼女に気づかないふりをして、一目散に職場を離れた。

 家に帰ってみると、朝使ったコーヒーカップが汚れたままシンクに放置されていた。

 夕飯も準備されていない。

 部屋の電気もオレがつけないと、ずっと暗いまま。

 テレビもオレが観たい番組を映さず、沈黙したままだ。

 いつもおかえり!と出迎えてくれたアルファはもういない。

 アルファがいた痕跡は、床にわずかに残るシミだけになってしまった。

 オレが殺してしまったのだ。

 オレは発泡酒や焼酎や、ありったけのアルコールを浴びるように飲んで眠りについた。



 翌朝。

 いつもどおり、けたたましいスマホのアラームにたたき起こされた。

 前日の疲れとアルコールの名残を引きずった、最悪の目覚めだった。

 鈍い頭痛に呻きながら、目を閉じたままアラームを止めようと手を伸ばし、スマホとスマホではないものを同時につかんだ。

 それはどう考えても人の手だった。
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