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XXXⅧ.緋龍の翼

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 先程のユウリの言葉の何が彼らの逆鱗に触れたのか、口にしたユウリには当然のこととしてメアでさえ理解が及ばないが、元よりろくでもない者たちであることはわかっていた筈だ。理も非もなくて当然。一瞬でも大丈夫かもしれないと考えてしまったことをメアは痛切に後悔した。

 少年たちは一層目つきを尖らせ、指の骨を鳴らしたり地面に唾を吐いたりしながら高圧的な態度で二人を睨みつける。やがて中の一人、ひと際身体の大きな少年がずいと前に出た。

「っめー! っしこいてっとぉ! っちまうぞ! らぁー!!」

 身体の大きな少年は唾を飛ばしながら声を張り上げ、詰め寄る。

「? すみませんが、わかる言語でお願いできますでしょうか?」

 しかしその言葉のあまりの勢いにユウリは上手く聞き取ることができず、根本的な勘違いを犯しているようであった。飄々とした様子でそう言い返す。

「ちなみにわたしの言語概念は、この世界においては『日本語』という言語にアジャストされていますので『日本語』でお願いできますと助かります。――と、申しましても困りました。そう説明するこの言語もまさしく『日本語』なので伝わりませんか……。うーむ……難儀です……。どなたか通訳をお願いできますでしょうか?」

「…………」

 脅すつもりでの一喝に対し思いもよらない回答が返って来たので、身体の大きな少年はどうして良いかわからず、言葉を詰まらせてしまう。

「ちょ、ちょっと何言ってんのよ」

 しかし全く状況を理解していないユウリの態度にメアは生きた心地がしなかった。

「てめー調子こいてっと、やっちまうぞこらー」

 自分たちがどれだけ恐ろしいことを言っているのか、伝わらなければ意味がない。少し考えた後、身体の大きな少年はそう言い直した。だが、先程と比べると勢いの大部分が失われ、棒読みのようになってしまっていた。

「そうですか」

 ユウリはようやく理解した様子で少し考え込むと、

「それで、何をやっちまうのですか?」

 微塵も気怖じを見せず、そう聞き返す。

「何って、てめー!」

「おいノブ、このアホ、ナメられてんだよ。下がってろ」

 身体の大きな少年が顔を赤くしながら拳を作っていると、先程「マサ」と呼ばれた少年が「ノブ」と呼んだ少年の肩に手を掛け、乱暴に引いて下がらせた。マサという少年は体格こそ細いがその尖るような短髪は銀色に染められ、高校生にも関わらず耳にはピアスが付いている。見るからに危険そうな風体をしていた。

「一つ聞いておいてやる。お前ら、どこのグループに言われて来た。どこのどいつの差し金だ」

「仰っている意味がわかりかねます。わたしはわたしの意思でこうしてここに……」

「おい、いつまでも馬鹿にしてっと、痛い目見るぞ」

 そう言いながらマサという少年はユウリの胸ぐらを掴み上げ、顔をずいと近付けた。

「それはつまるところ、わたしたちに肉体的な損傷という危害を加えるということでしょうか?」

 ユウリは多少苦しそうに顔を歪めながらも、相変わらず平然とした態度でそう確認する。

「それ以外何がある」

 ユウリはしばし真剣な表情で考え込む。そして数秒の後面を上げた。

「容認できかねます。僭越ながら、わたしのみならばまだしもメアさん、彼女にまで危害を加えるというならば、それは看過できません。わたしにはメアさんを巻き込んでしまった責任がありますので」

「ああそう。ホント、ナメられてんだな……」

 少年は一度目を伏せながら声のトーンを落とすと、

「その余裕ぶった態度がイラつくつってんだよぉ!」

 次の瞬間には勢いよく拳を振り上げ、胸ぐらを掴んだままのユウリの顔に目掛けて鋭い一撃を放った。「もう駄目だ」と、メアは短い悲鳴を上げながら目を覆ってしまう。

「あがっ!」

 だがメアの耳に入ったのは殴りかかった筈の少年の呻きであった。恐る恐る覆っていた手を退けてみると、先程までユウリの胸ぐらを掴んでいた少年が腹部を押さえてうずくまっているのが視界に入る。

 メアは思考が追い付かずにいたが、数秒経ってようやくユウリが手にしていた和傘の先で少年の腹を突いたのだと理解できた。だが、しっかりと目撃していた筈の周りの少年たちですらその事実を受け入れ難いのか、しばらく固まってしまっていた。

「クソ……このガキやりやがった……。おいてめーら! 何してんだ! ほらっ! とっととそいつらボコれっ!」

 その指令を確認するなり、ユウリは手にしている和傘を横薙ぎにブンと振り、少年たちを無理矢理下がらせ、距離を取る。一度避けるように下がった少年たちが再びじりじりと近づこうとすると、ユウリは和傘をまるで中国拳法か雑技団のように巧みに振り回し、周囲を牽制した。

「あ、あんた……」

 メアはその様子はただただ見ていることしかできない。この隙に逃げ出そうにも腰が砕けてしまっており、まともに動ける自信がない。

「杖術の成績は良い方だと自負しているのですが、さすがにこの数を同時に相手するのは現実的ではありませんね……」

 表情は相変わらず余裕を保っているように見えて、ユウリの顔には汗が滲んでいた。絶体絶命であることには変わりないようであった。

「どどどーすんのよ! 余計に怒らせちゃったじゃない!」

「そうですね、あまりよろしくない状況です。ですから……奥の手です」

「奥の手ってなに!?」

「魔法を使います」

 ユウリは視線を左右に忙しなく動かし、周囲への警戒を切らさないままそう答える。

「あんたもう魔法は使えないって、このあいだ言ったじゃない!」

「ええ、〝フラクタ〟に電気的な誘導をかけての魔法はもう不可、という意味では真実です。ですが、魔法はそれだけがすべてではありません。呪文による身体能力の補強……」

 ユウリはそう言うなり、両手で握る和傘の先端を天に向け、そのまま前に突き出すようにて構える。

「これは呪文を唱えることで自己の脳へ変化を与え、本来の資質以上の身体能力を引き出す術です。魔法とは必ずしもフラクタを利用するものだけではありません。元来魔法とは魔術師が心血を注ぎ研究して得た叡智の結晶。そのすべてが魔法と定義されます。元より戦う為の技術ですから、フラクタが利用できない時の為の術というものも当然考案されているわけです。ただ、呪文それ自体の言葉もこの世界の言葉に変換されてしまってますから、少々不格好に感じるかもしれません。至極真剣な局面ですのでくれぐれも笑ったり馬鹿にしたりしないでくださいね」

 説明を終えたユウリはずっと真顔だった表情をメアだけに見えるように一度だけ綻ばせると、和傘を構えたまま両の目を閉じる。

「わたしは強い……わたしは強い……わたしは強い……わたしは強い…………」

 そして念じるように何度もそう呟いた。何度も何度も……。

「例えこの身を犠牲にしてでも、メアさんあなたは、あなただけは守ってみせます。他でもない、わたし自身の正義を証明する為にも」

 ユウリは両の瞳を見開き少年たちを見据える。

 和傘を構え前に出ようとした瞬間、ユウリの胸のあたりからキュウと短いネズミの泣き声がした。

「ふふっ、そうかもしれませんね。でも、これで良いんです。ですから師匠、見ていて下さい。これがわたしの信じる正義のカタチです」

 鳴き声に応えるようにブラウスの胸ポケットに向かってそう言い終えるのと、少年の一人が拳を振り上げながら飛び掛かるのはほぼ同時であった。

 ユウリは少年の右の拳をすんでのところで躱すと、勢い余って態勢を崩したその少年のみぞおちに和傘の柄を食い込ませる。少年が苦しみの声を漏らしながら蹲ると、その頭上をかすめるように空いた空間を大きく横に薙いだ。その一激は背後で期を伺っていた別の一人の頬にヒットする。そのまま体を回転させるようにして勢いそのままにまた別の少年の顔面を傘の腹で殴りつけた。

 しかし、そこでユウリの動きがピタリと止まる。

 いつしか取り囲んでいた他の少年たちは距離を取っており、それぞれ何かを手にしている。鉄パイプ、大きなプラスドライバー、モンキーレンチ、自転車のチェーンのようなもの、それらはどれも武器と呼ぶにはおざなりなものではあったが、当たれば最悪怪我だけでは済まないのも事実だ。それに武器としてならば、ユウリが手にしている和傘の方が数段心許ない。だが、ユウリは依然として少しも怯む様子を見せない。

 メアは震える手をぎりりと握り込んだ。ユウリの想像以上の頼もしさに戸惑う一方で、それによって僅かにできた心の余裕。それは砂粒のように小さな本当に僅かなものであったが、そのスペースは未だ微塵も動かずににいる自分へのもどかしさで埋め尽くされていた。

 目の前で一人闘う少女を前にただ立ち尽くす自分。

 これで良いのであろうか。本当に、これがメアにとって最善の選択肢なのであろうか。

 今動かないこと。これがメアが真に考える〝正しい〟行いなのであろうか。

 せめてこの場に燐華がいたならば、そう考えかけてこの期に及んでまだ他者を頼ろうとしている自分に、忸怩たる思いで握る拳に込める力を強めた。

「わたしは強い……わたしは強い……わたしは強い……わたしは強い…………」

 ユウリは凶器を手ににじり寄る少年たちを視界に捕らえながら、先程の呪文と主張する言葉を呟き続けている。まるで自身にそう言い聞かせるように。

 まず最初に動きを再開したのはモンキーレンチを持つ少年、加減など全くしていない勢いでユウリ目掛けて殴りかかる。が、ユウリはひらりと身体を半身にし、またもそれを最小限の動きで躱す。だがその時には既にユウリの背後から鉄パイプが振り下ろされていた。ユウリは気配だけでそれを察したのかその場で態勢を低くしながらくるりと振り返ると、和傘を両手で構え、鉄パイプが身体に届く前に受け止めた。ドッと、和紙が貼られた和傘に金属がぶつかる鈍い音を響かせて、そのまま拮抗する。片膝を付いたままの姿勢で鉄パイプを受けつつも、次第に別の少年たちがユウリを取り囲んでいく。

 今度こそ絶体絶命だ。
 自分が動かねば。

 メアがそう思い至ったその刹那、

「きゃっ!」

 メアの身体が重力に逆らってふわりと持ち上がった。

 先程ユウリの一撃を受け、地に伏していた少年の一人が立ち上がり背後からメアを羽交い絞めにしたのだ。ユウリの方へ気を取られていたばかりで、メアは一瞬自身の身に起こったことが理解できなかった。僅かに地面から離れた足をバタつかせてもがいてみせるが、体格差があり過ぎてどうにもなりそうもない。

「おい、それまでだ。動くなよ」

 メアを羽交い絞めにしている少年はそうユウリに警告する。

 ユウリは受けていた鉄パイプを乱暴にいなすと立ち上がり、和傘を放り投げ、降伏の意思を示した。

 動きこそ卓越していたものの所詮は女子供の腕力、加えて和傘という得物ということもあってその攻撃は決定打に欠けるものであったようだ。他の倒れていた少年たちも「たっく、いってーな」としきりに愚痴を漏らしながらよろよろと立ち上がる。

 先程マサと呼ばれた少年がユウリの正面に立つ。顔には下卑た笑みを張り付かせていた。

「おいおい、ずいぶんと頑張ってくれちゃって。まあ、その度胸は買うがよ、とーぜんそれなりの謝罪ってやつをしっかりしてもらわねーと。って言っても中坊だと金はあんまり持ち歩いてなさそーだしなぁ…………なぁっ、どーするよ?」

 マサという少年はそのいやらしい笑みをそのまま周囲に向け、他の少年たちに問う。

「マサ、とりあえず全裸で土下座なんてどう?」

「なにそれ、マジウケる。チクられねーよーに写メも撮っとかねーとな」

 少年の一人が提示した提案に対し、マサという少年は「かかかか」と掠れたような笑い声を上げると再びユウリに向き直る。

「おい、今日のところは素っ裸で土下座したら解放してやるよ。考えてみれば中坊にケガさせちまったら後々メンドそーだしな。でもそれで終わりじゃねーぞ、親とかテキトーに騙して金作ってこい。それでチャラにしてやる。写真撮っておくから逃げられねーぞ」

「何言ってんのよ! そんなこと許されるわけないでしょっ!」

 あまりの提案内容に、メアは立場を忘れてそう叫んだ。

「許されるわけないだぁ? はっ、勘違いしてんじゃねーよ。お前らはどうしたら俺らから許して貰えるか、それだけを真剣に考えな。正真正銘絶体絶命の大ピンチってやつだ。よけーなこと考えてるよゆーなんてねーぞ、こら。それとも眼鏡、お前からにするかぁ?」

「いえ、大丈夫です。そのようなことで済むのであれば……」

 狼狽えるメアとは対照的に、ユウリは微塵も躊躇う素振りを見せなかった。徐に自身のスカートの中に両手を入れると、スルッと一息に穿いている下着を脱いで見せる。

 この廃墟に乗り込む前にメアが見たブラジャーと対になる淡いピンクのショーツがはらりとユウリの足元に落ちた。

「「なぜそこから脱ぐ!?」」

 図らずしてメアとマサの声がハモってしまう。

「ま、まあいい……。続けろ」

 あまりの潔さと、予想外の手順での脱衣に一瞬当惑を露わにしてしまったマサであったが、気を取り直して語気を強めた。

 ユウリは足に掛かったショーツを軽く蹴るように地面に放ると、今度はスカートから仕舞っていたブラウスの裾を出し、下から順にボタンを外していく。

「ね、ねぇ! 本気なの!? やめてよ! ねぇってば!」

 メアは羽交い絞めにされながらも必死にもがきながらユウリに喚き声を送る。必死になるあまり、それは最早悲鳴に近いものであった。

 ユウリは構うことなくブラウスを脱ぎ捨て白い肩を曝け出すと、下に着ていたキャミソールをゆっくりと捲り上げていった。少年たちの一人が囃し立てるようにヒュウと口笛を鳴らす。

 腰部を過ぎ、やがてキャミソールの裾は胸のあたりに差し掛かる。何物にも隠されていない白く柔らかな双丘の一端が今まさに露わになろうとしていた。

「やめてーっ!!」

 メアは喉を潰さんとする勢いで力の限り叫ぶ。

「――――おい、やめてやれ」

 メアの叫び声の余韻に微か、別の何者かの声が重なった。

 短く発せられたその言葉は妙な落ち着きがありつつも、強固な重みを含む不思議な力が感じられるものであった。

 声の主は羽交い絞めにされているメアの後方、この廃墟の入口の方からだ。

「聞こえなかったか? やめてやれって言ったんだ」

「「「「うっす」」」」

 そこで初めて少年たちは動きを止め、入口の方を確認するなり姿勢を正した。メアを羽交い絞めにしていた少年もその手を放し、ようやくメアは自由になる。

 メアは掴まれていた両腕を労わりながらも、少年たちに続き、後方を確認した。

 そこには一人の少年が立っていた。

 腰の辺りまで下げたズボン。裾をだらしなく出したシャツ。学ランのボタンは全開。肩に担ぐようにしている学生鞄は年季が入ったようにボロボロでおまけに長らく何も入れられていないのか、ぺしゃんこに潰れたままクセが付いてしまっているようであった。五円玉のようにくすんだ色の金髪はサラリとしたミディアムヘアー。よくよく見れば幾分整った顔立ちと言えるが、両耳にはシルバーのピアスとカフスがはめられ、その眉は異様に薄かった。

「総長! このガキどもが先に喧嘩吹っ掛けて来たんすよー」

 マサに総長と呼ばれた少年は眠そうに胡乱な眼を向けていたが、その言葉を受けるなりユウリとメアに一瞥をくれる。

「あぁ? 喧嘩だぁ?」

「そうっすよ! 総長の首を取りに来たって」

 マサは未だキャミソールの裾に手を掛けたままのユウリを指差しながら言う。

「ほう……。俺がこの〝緋龍〟を仕切る三代目総長、久世翼くぜつばさだ」

 久世と名乗った少年は、肩に担いだ真っ平な鞄を奥に置かれたソファー目掛けて放り投げながら大股でゆっくりとユウリとマサの元へ歩み寄る。そして固く結んだ拳を勢いよく振り上げた。
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