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追憶の中で微笑む彼女

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「もしものことがあったら困るから…だからね、アスレイには会えないよ」
「ミリア…!」

 今までに聞いた事のない、彼女の弱弱しい声にアスレイは心臓が締め付けられた。
 彼女の苦しむ声をこのまま聞くくらいなら、自分も厄災に罹りたいと願った。
 同時にこんなにミリアのことが大好きだったのだと、アスレイの感情は激しく昂っていった。生まれて初めて、彼は強く強く、全てに懇願した。
 だがアスレイの気持ちに反して、ミリアは強く強く拒絶する。

「この厄災ね、全身が青黒く硬直していって…まるで枯れ木のように痩せて衰弱していくのよ…そんな姿、アスレイにだけは見て欲しくないのよ…お願い! 約束、して…?」
「嫌だよ、ミリア…」

 涙を堪え、振り絞った声でアスレイは彼女の名をもう一度呼ぶ。
 一方で扉越しに聞こえてくる彼女のか細い声もまた、静かに震えていた。泣いているのがわかった。
 アスレイは静かに、その手を扉から放した。




「ミリアには夢があったじゃないか。それを諦めるのか…?」
「私は……諦めてなんかないよ」

 彼女の言葉にアスレイは目を見開く。

「呪いかもしれない。運命かもしれない。不治の病かもしれない。でもね…それでも私は絶対、元気になって、ここから出て天才魔槍士様に会うの。会えるって信じてるの」

 現在置かれているその状態で、それでも尚、彼女は天才魔槍士の名前を口にした。
 アスレイは苦笑を洩らすしかなかった。

「アスレイもあの日の約束、忘れないでね…信じてるから」

 扉の向こう側で、ミリアが掌を此方に向けているような気がした。
 返すようにアスレイも、自身の拳を扉に付きつける。

「―――ああ、わかっているよ。絶対ミリアが会うより先に、天才魔槍士に会って勝利してやるから」

 出来る限りの平常心を装い、アスレイはそう言った。
 だが本当は、今すぐこの戸を蹴破って、嫌がるだろうミリアを無理やりにでも抱きしめたかった。
 このまま、もう二度と会えなくなるかもしれないだなんて、信じたくはなかった。
 しかし、アスレイはそれ以上にミリアが言った言葉を
 ミリアと交わした『約束』を破るわけにはいかなかった。
 だからアスレイはそのまま帰る事にした。もうそれしか、彼には選択肢がなかった。
 去り際に、微かにミリアの声が聞こえてきた。

「―――ありがとう」

 それが何を意味するのか、尋ねたかったがアスレイはそうしなかった。
 尋ねてしまえば彼女へ誓った気持ちを、彼女の信じる気持ちを、裏切ってしまいそうだった。
 アスレイはそれ以上何も言わず、黙って集会所を後にした。
 それから数日後、アスレイは父親からミリアの死を聞いた。





 厄災によるエダム村の犠牲者は二十五人。百人程度の人口でこの村から考えれば1/4も失う大惨事であった。
 スレーズ領としても大勢の犠牲者が出たのだが、起こった場所が村々ばかりであったせいか、大事に扱われることもなく。虚しくも大陸中へ知れ渡ることはなかった。



 犠牲者たちは丁重に扱われ、埋葬されたと聞いた。
 アスレイは参列しなかった。
 薄情と思う村人もいたが、家族を含めた大半は彼の心情を察していた。
 集会所については話し合いの末、取り壊されることとなった。




「お前は参加しなくてもいいぞ」

 集会所が取り壊される日。せめて解体作業にはと参加していたアスレイへ、父親はそっと優しく告げる。
 だがアスレイは苦笑を浮かべながらかぶりを振った。

「父さん…心配しなくても俺は別に大丈夫だから」

 笑みを浮かべるも哀しみは消えず、その内心は虚無というべきところであった。
 大切な存在を失ったことで、アスレイの心は空っぽだった。涙を流す事も堪え過ぎたせいで忘れたようだった。

「ミリアが亡くなったことはショックだったけど、俺はもう大丈夫だよ。妹たちが代わりに泣いてくれたし…もう気にしてないよ」

 無理矢理に笑っているその横顔を、父は理解していたようだった。
 だからこそ、アスレイの父はを手渡す事にしたのだろう。

「これを見ろ」
「え?」

 それは一冊のノートだった。

「いいから見てみろ」

 強い口調でそう告げる父に渋々と従い、アスレイは言われた通り手渡されたノートを開く。
 するとその1ページ目には日付と、起こっただろう出来事が書かれていた。
 それは間違いなく誰かが書いた手記であった。
 その書いた人物とは誰なのか。
 そんなこと、父に尋ねるまでもなく、アスレイは直ぐに察した。

「これはミリアの…」
「おそらく、厄災によって息絶えた皆のことを遺そうと…遺された者たちを励まそうと、この手記を書き残していたんだろう」

 父の言う通り、その手記には犠牲となった村人たちの名前や、彼らが伝えたかった言葉、遺したかった言葉が書かれていた。
 更にページを捲っていくと、ある日を境にミリアの字は徐々に弱々しくなっていた。
 それでも無理矢理力を込めて書いたのだろう。文字自体も乱雑になっていく。
 と、最後のページにようやく、彼女の自身のことがそこに書かれていた。
 しかしそれは最早文章ではなく、大切な人に宛てた、切実な想いの言葉だけであった。




『大好き、アスレイ』
『会いたい』

 最期の文字はそこで終わっていた。

「なんで……こんなの遺したんだよ、こんなの…書かれたら…!」

 眠っていた、忘れたはずだった感情が湧き上がり、爆発しようとしていた。
 平気だと、大丈夫だと信じ込ませていたアスレイの想いが、ミリアの強い願いによって破裂しそうだった。

「思ったことを遺すことの何が悪い」

 背中から聞こえてきたその言葉に、アスレイは父へと振り返った。

「最も辛いのは、思いを伝えられないまま死ぬことだ。だからミリアは罹った者達の想いを、自分の想いを遺そうとしたんだろう」

 瞼の奥が熱くなり、胸の奥が張り裂けそうで、思わずアスレイは自身の胸元を強く掴んだ。

「彼女のためにも自分に嘘をつくな。後悔をするな。馬鹿呼ばわりされようが自分に正直に生きるんだ」

 そう言って優しく肩を叩く父。
 その瞬間、自然とアスレイの目からホロリと涙が零れ落ちていった。一つ二つと零れ出て行く涙は、次第に止め処なく溢れ出た。

「此処にはイリーナもナナリーも居ない。思う存分思ったことを叫べ」

 そう言い残し、父は解体作業へと去って行った。
 一人残されたアスレイはその場に力無く座り込み、そして何度も力無く地面を叩いた。

「なんで…なんでミリアなんだよ。なんで俺じゃないんだよ…なんで今頃大好きって……なんで俺は―――目の前に居たのに、何も出来なかったんだよ……約束なんか破って、それでもミリアを抱きしめてやればよかったッ!!」

 絞り出した声でアスレイは何度も叫んだ。
 彼女にもう認められることはないんだと嘆いて。
 彼女にもう二度と会えないんだと悲しんで。
 彼女が憧れていた天才魔槍士も、所詮は全てを救える英雄ではないんだと恨んで。
 そんな妬みしか考えられない、情けない自分を何度も何度も問い詰めて。
 彼は叫ぶように泣いた。
 取り壊されていく集会所の片隅で、声が嗄れるまで、泣いて叫んで、叫んで泣いた。



 そうして涙さえも枯れ果てたとき。
 アスレイはあることを決意した。
 全てが壊され更地となってしまった大地に立ち上がり、やがてゆっくりと歩き出した。






   
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