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【札幌民主自由国記】下の章

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調二十五話(マリアナ沖海戦・帝国日本制空権喪失・東条内閣総辞職)
勝和19年(1944年)3月31日、悪戦苦闘の続くさなか帝国日本に追い打ちをかける事件が起きた。
前聯合艦隊司令長官『山本五十六』をして、
「俺のあとを任せられるのは古賀しかいない」
とまで言わしめたその『古賀峯一』聯合艦隊司令長官が、二式飛行艇で移動中に原因不明の事態により行方不明となった。後日、殉職として処理されることとなり、この事件は『海軍乙事件』と呼称された。
相次ぐ帝国日本海軍現場トップの訃報に、海軍軍令部などのお偉いさん方も肝を冷やした。
「これでは我ら海軍の面子が丸潰れだ。何か打つ手はないのか?」
この危機を打開すべく建造が進められていた、新鋭装甲空母『大鳳』を編成に組み込んだ帝国日本海軍の空母機動部隊総力を投入する一大決戦を挑もうとしていた。
世に言う『マリアナ沖海戦』である。(マリアナ諸島沖とパラオ諸島沖の海戦)
勝和19年(1944年)6月19日、司令官・小沢治三郎の考案したアウトレンジ戦法(日本海軍の航空機の方が航続距離が長いことを活かして敵が味方に届かない距離から攻撃する意図を持つ戦法)をもって臨んだのだが米軍兵士は、
「七面鳥を打ち落とすように簡単に墜ちるぜ!」
などと揶揄し、『マリアナの七面鳥撃ち』という言葉も生まれた。
この一連の戦いで、期待の装甲空母『大鳳』と『翔鶴』の空母2隻が沈没し空母艦載機に必要な搭乗員の大多数がこの海戦で散った。帝国日本は維持しなければならない制空権を喪失した。
勝和19年(1944年)7月18日、この後に劣勢を挽回する方法などあるはずもなく、責任の全てを問われた東条英機内閣は総辞職に追い込まれた。
「絶対国防圏の喪失は我が責任であります」
東条は肩を落とし力なく国政から去った。
勝和19年(1944年)7月22日、小磯国昭内閣が発足した。組閣したという事実が全てで、それ以上でもそれ以下でもない内閣であった。
調二十六話(レイテ沖海戦・幸運艦神話崩壊『瑞鶴』沈没)
勝和19年(1944年)フィリピンの米軍撃滅を期して、残存艦艇の大多数を動員。レイテ島へ向かった。
10月23日、主力の栗田艦隊、別動隊の西村艦隊・志摩艦隊とこれらの艦隊の囮となるべくして編成された小沢艦隊によるレイテ沖海戦が始まった。
「幸運艦もここまでだな」
囮空母艦隊の内の一隻である空母『瑞鶴』は既に沈没した姉妹艦『翔鶴』が被害担当艦と呼ばれていたのに対して、幸運艦と呼ばれていたのだ。
しかし、もう『瑞鶴』に幸運の力は無かった。
真珠湾攻撃以来の空母はこれで全てが海中に没した。
「しかし、囮の役割はきっちり果たせたな」
小沢提督は無念さと満足さを混ぜ合わせたような複雑な表情で呟いた。
調二十七話(レイテ沖海戦・不沈艦神話崩壊『武蔵』沈没)
勝和19年(1944年)10月24日、シブヤン海において10時30分頃から米軍第一次攻撃隊が栗田艦隊を襲った。
『武蔵』は第一次攻撃から第六次攻撃までの猛攻を受け続けた。
帝国日本海軍の象徴的戦艦大和の2番艦として生まれたこの巨大戦艦に最期の時が訪れようとしていた。
注排水システムの限界や攻撃を受けた影響で『武蔵』は傾斜し、艦首から沈んでいく。
世界最強の戦艦と日本海軍が謳ったこの艦は、勝和19年(1944年)10月24日、19時40分に艦齢821日の生涯を終えた。
この後、栗田艦隊は反転してレイテ沖海戦は敗北に終わる。西村艦隊は死闘の末に壊滅状態となり、西村祥治提督も奮戦の中で戦死した。
もう、日本海軍に組織的な艦隊決戦能力は残されていないのであった。
この頃から特攻が始まった。
調二十八話(空母信濃撃沈を阻止せよ)
勝和19年(1944年)10月28日、未完成空母『信濃』が横須賀から出港した。
これより以前に札幌政府は、艦船修理に長けた技術者を多数派遣した。
それでも、護衛駆逐艦の修理を完遂するので手一杯だった。
「陰ながらのご助力感謝する」
阿部艦長から感謝を述べられた技術者たちは、
「ご無事で」
としか言えなかった。『信濃』の存在は機密事項であるために、知っていても言葉に出すのは憚られたのだ。
かくして、対潜哨戒能力を取り戻した護衛駆逐艦2隻は紀伊半島・潮岬(しおのみさき)を通過。翌日未明には呉に寄港することに成功した。
喜ぶ乗員たちを尻目に艦長は、
「しかし、載せる艦載機も搭乗員も居ないこの状況で『信濃』に役割があるのか?」
と、疑問を感じていた。
呉で最終工事を終えた『信濃』は、各地から強引に搭乗員と艦載機を揃える事で上層部を奔走させる効果をもたらした。
むやみやたらな特攻を抑制する一時的な効果はあった。
調二十九話(沖縄戦始まる)
勝和20年(1945年)に入り、大日本帝国大本営はとうとう札幌民主自由国に要求をしてきた。
「軍需用の燃料を提供されたし」というすがるような要求である。
3月には硫黄島を占領され、東京・名古屋・大阪・神戸などの主要都市が大空襲に遭い日本の防衛能力が無効化していることが露呈するとともに継戦能力は失われて行く一方であった。
4月1日、沖縄戦が始まった。この頃にソ連は日ソ中立条約延長の意思がないことを通達し、小磯国昭内閣は総辞職に至る。
調三十話(戦艦大和・空母信濃最初で最後の共演)
勝和20年(1945年)札幌民主自由国経由で工面された燃料により、かねてより計画されていた沖縄水上特攻の目途がついた。
「これで海軍の意地は見せられるだろう」水上特攻を強硬に主張した神重徳(カミシゲノリ)主席参謀はどこか満足気であった。その態度が本心であるかはわからない。
『大和』以下、この水上特攻を指揮する伊藤整一中将は当初はこれに反対したものの、草鹿龍之介参謀長の「一億総特攻の魁となってほしい」の一言に折れた。
その特攻に反対する艦長らを説得する際、伊藤が用いた言葉は「我々は死に場所を得たのだ」という一言であった。一同に反論する空気は失せていった。
「もう、『信濃』が共に出撃してくれたところで結果は明白だ。いたずらに、死にゆく若者を増やしたどこぞの同盟国様を恨むほかあるまい」
『信濃』の阿部艦長は呟いた。
「未完成の空母『信濃』として呉に入りそのまま朽ち果てる運命のはずが、沖縄目指して水上特攻の一翼を担うことになったことは軍人としては誉れとしなければならないが、付き従う招集された兵には気の毒でしかない。この時代に生まれた宿命だな。生き残れば未来を担っただろうに…」
艦長の独り語りはここで終わった。儚き命に思いを馳せた結果、変えられない結末を前にむなしさともの悲しさに襲われて思考が途絶えたのだ。
気持ちを切り替えた阿部艦長は軍人の顔に戻っていた。
勝和20年(1945年)4月7日、鹿児島県沖南方の坊ノ岬沖で、沖縄水上特攻部隊は米軍空母艦載機による襲来を受けた。
『信濃』の直掩機(艦隊を護衛する為に空中待機している戦闘機)は奮戦するものの、発艦するのが精一杯の予科練生も多く含まれており、死ぬまで飛ぶか撃墜されて死ぬかの二択に事実上なっていた。特攻を護衛する為の特攻だった。
重装甲の飛行甲板を持ち、大和型の船体を持つ『信濃』だが、艦載機も無くなり丸腰同然となると残された役割は囮艦として敵機を引き付けることで、時間を稼いで『大和』を延命させるしかなかった。
しかし、米軍は増援機を更に向かわせることであっさり対応したらしく、懸命な努力は水泡に帰した。
「『信濃』は軍艦としては望ましい最期を飾れたのかもしれん。それ以上でもそれ以下でもない」
阿部艦長は独り言を言った。
「総員退艦用意」
今度ははっきりと命令した。
『信濃』は既に注排水システムの限界を超えており、船体の傾斜が激しくなっている。
命令に従い退艦する者たちが居る中で、艦と運命を共にすることを望む者がいた。それらの部下たちを説得する時間はなく、艦長自身がそうするのだから説得力がない。
電信室から『大和』へ「シナノオサキニマイルヤマトゴブウンヲ」と送りそれ以降通信が行われることは無かった。
不沈空母として企図され、大和型から空母化された『信濃』は空母として戦いながら、戦艦並みのタフさを発揮することで存在感を示した。そして、派手に沈没した。
調三十一話(戦艦大和の最期・大日本帝国海軍の終焉)
勝和20年(1945年)4月7日、沈みゆく『信濃』を気遣う余裕がない程に、『大和』への米軍艦載機の来襲は続いていた。
もともとの計画が無謀である事を承知で行われている作戦ですらない行為である。特攻とはそういうものだ。
『大和』の乗組員は懸命に戦った。しかし、多勢に無勢であることは否めない。
機銃座に配置された兵たちは敵戦闘機の機銃に斃れていき、防空能力はどんどんと削がれていく一方だった。
『大和』は、左舷に雷撃を集中されて注排水システムの限界は既に始まっていた。継戦能力も失った結果残された選択肢は乗員の退艦命令を下す事のみとなった。
伊藤整一提督は、
「残念だがここまでだ。総員退艦を命ずる」
と指示を出したあと艦橋の個室に入り、鍵を閉めた。
「総員上甲板離艦用意」
伝声管を通して艦内全体に退艦命令が伝えられた。それでも、逃げきれない者や浸水で溺死していた者たちが犠牲となり、救助された乗員は全体から見たらごく僅かであった。
『大和』は断末魔の叫びの如く真っ二つに船体が割れて爆沈した。
ここに至り、大日本帝国海軍は日清・日露と続いてきた栄光の歴史に幕を閉じ、その歴史は終焉を迎えるに至った。
この日、鈴木貫太郎内閣が組閣された。
調三十二話(戦争終結に向かう世界情勢)
勝和20年(1945年)4月12日、米国大統領のルーズベルトが急逝。副大統領のトルーマンが昇格し、大統領となった。
一方、欧州戦線では4月30日に独逸第三帝国総統として君臨していた、ヒトラーが自殺した。5月2日にベルリンが陥落し、5月7日にヒトラーが後継に指名していたデーニッツが無条件降伏を受諾した。これによりヒトラーの野望で始まった独逸第三帝国ことナチス・ドイツは滅亡するに至った。
ここに欧州戦線は終結を迎えた。
ドイツとの戦いを終えたスターリン書記長の牙は日本へと矛先を変えようとしていた、
札幌民主自由国自衛隊は安全圏確保と邦人警護・同盟国民支援及び生命の保護を名目に南樺太に戦力を集中して迎撃態勢を整えて水際でソ連軍を撃退する方針を執った。
田ノ浦真守は、
「我々が初めて経験する戦争の中の防衛戦が、とうとう始まるか…もう後には退けんな」
時空転移当時と違い、明確に戦闘意思をもって戦闘行為に及ぶのは田ノ浦たち自衛隊にとってはこの時が初めてだった。
刻一刻と戦いの時は迫りつつあった。
調三十三話(南樺太へ侵攻するソ連軍を屠れ!)
勝和20年(1945年)8月9日、ソビエト連邦は対日参戦を開始した。8月11日からソ連軍の南樺太占領に向けた戦闘の火蓋が切られたのである。
「いくらオーバーテクノロジーとは言っても10式戦車だけでソ連軍を追い払えるほど甘くはないぞ」
眼前に迫る敵を前に田ノ浦一佐が呟いた。
矢矧須津香大首領より南樺太防衛体制の構築を命じられた田ノ浦真守は、この日に備えて自衛隊と日本陸軍との連携強化に励み、現代兵器の扱い方も積極的に訓練を行った。
「なぜ、もっと早くこれらの兵器を提供してくれなかったんですか?!」
「帝国陸海軍上層部のお偉いさん方が堅物でね。メンツにかかわるから助けはいらん!と言われたのさ」
この言葉は、半分は本当だがもう半分は田ノ浦の嘘が混じっている。
大日本帝国政府も軍部の中枢を占める人物たちも、札幌民主自由国に対して、再三の支援要請を重ねて打診していた。それを矢矧須津香大首領をはじめとする札幌政府首脳陣があの手この手でのらりくらりとかわしていたのだ。
ソ連を南樺太で屠り、札幌民主自由国の爪痕を残す
その一念が込められていた。それが札幌民主自由国政府大首領『矢矧須津香』の最終目標に戦局の変遷が影響した結果、本人も無自覚なままに目的となにかが入れ替わってしまっていた。
南樺太防衛戦は、勝和20年(1495年)9月5日まで続き、ソ連軍は事実上の撤退をせざるを得なかった。継戦と撤退を自分のメンツとの天秤にかけたスターリン書記長は現場指揮官の責任を強調することで責任を回避した。
一方で、田ノ浦真守たちと旧日本陸軍の混成軍は、ソ連軍を撤退させることには成功したものの被害は甚大だった。
武器弾薬の大半は使い尽くしてしまい、継戦能力は皆無でありソ連軍が強硬姿勢を崩すことなく戦闘行為の継続を選択していたならば南樺太防衛どころか北海道制圧作戦の実行を許しかねない瀬戸際だったのだ。
なにより、これらの戦場の現場指揮官である田ノ浦真守一佐が戦死した為に詳細を語れる人間がもういないのである。
或いは田ノ浦自身が自ら自分の口を封じたのかもしれない。
勝和20年(1945年)10月15日、日本軍の全ての武装解除が終了。名実ともに戦争は終結した。ソ連は南樺太割譲をアメリカ側から提示され、受け入れる形で戦争終結を宣言した。
調エピローグ(札幌民主自由国記)
その後、連合国による軍事裁判が札幌でも開かれた。いつどのようにどんなやりとりが行われたのかその詳細は一切公式資料が残されていない。
戦後、一冊の日記が発見された。『札幌民主自由国記』と記されたその日記は大首領『矢矧須津香』の日記であった。
札幌民主自由国の成り立ち、そこに生きた人間の生き様、それらの全てがこの一冊の日記に込められていた。
矢矧須津香たち札幌民主自由国政府の主要人物・政府高官たちは、戦犯ではなく混乱を招いた罪人としてその全てが絞首刑に処された。
『札幌民主自由国記』は矢矧須津香のせめてもの抵抗だったのかもしれない。
しかしながら、この日記は米軍に接収された上で機密文書扱いにされ公表されることは無かった。
民衆は伝承として密かに語り継いでいった。
札幌民主自由国は名を隠しながら民話として残ったのである。(了)
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