婚約破棄されたけど、実は「最高の隠居生活」を全力待機中

桃瀬ももな

文字の大きさ
5 / 28

5

王都、王立宮殿――。


昨夜の狂乱が嘘のように静まり返った執務室で、王太子ヴィルフリートは優雅に朝のコーヒーを啜っていた。


「ふふ……。ようやく、あの口うるさい女がいなくなったか。実に清々しい朝だ。なあ、マリアンヌ?」


隣で甘えるように寄り添うマリアンヌが、鈴を転がすような声で笑う。


「ええ、殿下! これでようやく、私たちを邪魔する人は誰もいなくなりましたわね。あんな怖い顔をしたルシア様なんて、最初から殿下には相応しくなかったのですわ」


「全くだ。今日からは、君のような愛らしい女性に囲まれて、楽しく公務に励むとしよう。……さて、今日の予定はどうなっていたかな?」


ヴィルフリートが机の上の呼び鈴を鳴らすと、顔を真っ青にした事務官の筆頭、ゼバスが飛び込んできた。


「で、殿下! 大変でございます! ルシア様が……ルシア様が本当にお姿を消されました!」


「何を騒いでいる。昨日、俺がこの手で追放したのだ。当然だろう。それより、今日の公務の書類を持ってこい。十枚くらいなら、ぱぱっと片付けてやるぞ」


ヴィルフリートが余裕の笑みを浮かべる。しかし、ゼバスの震えは止まらない。


「そ、それが……その、十枚どころではございません。こちらをご覧ください」


ゼバスが重い音を立てて机の上に置いたのは、高さ一メートルを超える書類の束、三セットだった。


「……何だ、これは。嫌がらせか?」


「いいえ! これでも、ルシア様が事前に『今週中に決裁が必要なもの』として整理してくださっていた分の、さらに半分でございます! 残りの半分は、まだ隣の部屋に山積みになっております!」


ヴィルフリートの顔から血の気が引いていく。


「な、なぜこんなにある!? 今までは、朝に三、四枚の書類にサインするだけだったはずだぞ!」


「それは、残りの数百枚をすべてルシア様が裏で処理し、殿下には『最終確認』の数枚だけを回していたからでございます! しかも、ルシア様が持っていた『専用印章』がないため、現在、王宮の全予算が凍結されております!」


「……凍結?」


「はい! このままでは、午後の晩餐会の食材すら買えません!」


ヴィルフリートが呆然と書類の山を見上げる。マリアンヌが慌てて「わ、私が手伝いますわ!」と手を伸ばすが、一番上の書類を見た瞬間に「……何、この呪文みたいな数字?」と白目を剥いて固まった。


一方、その頃。王都から遠く離れた辺境の別荘。


「……事務用魔法道具一式? ニートと言いながら、なぜそんなものを持っている」


カイル・フォン・ゼスティア辺境伯は、私の荷物から覗いている「高速計算宝珠」を不審そうに指差した。


私は、放り出した小説を拾い上げながら、平然と答えた。


「これは、万が一の自衛用ですわ。仕事という名の魔物が襲いかかってきた時、返り討ちにするための武器です」


「意味が分からん。……貴様、名は?」


「ルシアですわ。昨夜、王太子殿下に『真実の愛の邪魔だ』と追い出された、元・婚約者。……カイル様、でしたかしら?」


私が名を呼ぶと、カイルの鋭い眉がぴくりと動いた。


「私の名を知っているのか。……そうか、アストラル公爵家の。噂の『冷徹な毒婦』とは、貴様のことか」


「あら、光栄ですわ。毒婦と呼ばれるほど、私は熱心に働いておりましたのよ。……それで? 辺境伯様が、このようなボロ屋に何の御用ですの? まさか、ニートの私にサインでも求めに来られたのかしら」


カイルは私を上から下まで値踏みするように見つめた。その目は、獲物を狙う鷹のように冷たく、けれどどこか知的な光を宿している。


「……貴様の父から連絡があった。『手に負えない娘をそちらへ送った。好きにしていい。ただし、殺さない程度に、だ』とな」


「お父様……! なんて余計なことを……!」


私は天を仰いだ。せっかくの隠居生活を邪魔されないよう根回ししたつもりが、逆に「監視役」を付けられるなんて。


「ここは私の領地の目と鼻の先だ。魔物の森から漏れ出た影が、この廃墟に住み着くことを懸念していたが……。どうやら、魔物よりも厄介なものが住み着いたようだな」


「厄介だなんて失礼ね。私はただ、ここで静かに本を読み、昼寝をして、たまに美味しい紅茶を飲むだけの、無害な存在ですわよ」


「無害、か。……昨夜の王宮での騒ぎは、すでに早馬で伝わっている。王太子の婚約破棄に対し、貴様は笑いながら会場を後にしたそうだな」


カイルが一歩、私に近づく。


彼の纏う威圧感が、埃っぽいリビングの空気を支配する。


「貴様が去った後、王宮の事務方はパニックに陥っているらしい。貴様が握っていた『権限』と『実務能力』の穴が、あまりに大きすぎたとな。……それを捨てて、なぜこんな場所で埃を被っている?」


「決まっているでしょう」


私はソファに深く腰掛け、最高に不敵な笑みを浮かべた。


「――飽きたんですわ。誰かのために、国のために働くなんてことは。これからは、私のためだけに時間を使う。それが私の新しい『正義』ですの」


カイルは数秒間、黙って私を見つめていた。


やがて、彼はふっと鼻で笑った。


「面白い。……だが、私の領地で勝手にのたれ死なれては、公爵家に顔が立たん。……おい」


彼が背後の部下に合図すると、籠に入った大量の……書類が運び込まれてきた。


「……何、それ」


私は嫌な予感がして、身を引いた。


「私の領地の今月の収支報告書だ。魔物被害の補償金計算が、担当者の無能ゆえに滞っている。……貴様、これを一晩で終わらせてみせろ。できなければ、明日この家を焼き払い、貴様を王都へ強制送還する」


「……なんですって?」


私は耳を疑った。


隠居。ニート。自由な生活。


それらが、目の前の「黒い塊(書類)」によって、無残に踏みにじられようとしている。


「……カイル様。貴方、私を誰だと思っていて?」


「王都一の有能な悪女だろう? 存分にその力、見せてもらおうか」


カイルは残酷な笑みを浮かべ、大剣をカチャリと鳴らした。


私の隠居生活、初日。


それは、想定外の「ブラック上司(辺境伯)」による、強制労働の始まりだった。


(……覚えてなさいよ、この死神辺境伯! 三時間で終わらせて、貴方の顔に叩きつけてやるわ!!)


私の瞳に、封印したはずの「社畜の魂」が、意に反して赤々と燃え上がった。
感想 0

あなたにおすすめの小説

悪役令嬢にされたので婚約破棄を受け入れたら、なぜか全員困っています

かきんとう
恋愛
 王城の大広間は、いつも以上に華やいでいた。  磨き上げられた床は燭台の光を反射し、色とりどりのドレスが揺れるたびに、まるで花畑が動いているかのように見える。貴族たちの笑い声、楽団の優雅な旋律、そして、ひそやかな噂話が、空気を満たしていた。  その中心に、私は立っていた。  ――今日、この瞬間のために。 「エレノア・フォン・リーベルト嬢」  高らかに呼ばれた私の名に、ざわめきがぴたりと止む。

本の通りに悪役をこなしてみようと思います

Blue
恋愛
ある朝。目覚めるとサイドテーブルの上に見知らぬ本が置かれていた。 本の通りに自分自身を演じなければ死ぬ、ですって? こんな怪しげな本、全く信用ならないけれど、やってやろうじゃないの。 悪役上等。 なのに、何だか様子がおかしいような?

悪役令嬢と転生ヒロイン

みおな
恋愛
「こ、これは・・・!」  鏡の中の自分の顔に、言葉をなくした。 そこに映っていたのは、青紫色の髪に瞳をした、年齢でいえば十三歳ほどの少女。  乙女ゲーム『タンザナイトの乙女』に出てくるヒロイン、そのものの姿だった。  乙女ゲーム『タンザナイトの乙女』は、平民の娘であるヒロインが、攻略対象である王太子や宰相の息子たちと交流を深め、彼らと結ばれるのを目指すという極々ありがちな乙女ゲームである。  ありふれた乙女ゲームは、キャラ画に人気が高まり、続編として小説やアニメとなった。  その小説版では、ヒロインは伯爵家の令嬢となり、攻略対象たちには婚約者が現れた。  この時点で、すでに乙女ゲームの枠を超えていると、ファンの間で騒然となった。  改めて、鏡の中の姿を見る。 どう見ても、ヒロインの見た目だ。アニメでもゲームでも見たから間違いない。  問題は、そこではない。 着ているのがどう見ても平民の服ではなく、ドレスだということ。  これはもしかして、小説版に転生?  

【完結】メルティは諦めない~立派なレディになったなら

すみ 小桜(sumitan)
恋愛
 レドゼンツ伯爵家の次女メルティは、水面に映る未来を見る(予言)事ができた。ある日、父親が事故に遭う事を知りそれを止めた事によって、聖女となり第二王子と婚約する事になるが、なぜか姉であるクラリサがそれらを手にする事に――。51話で完結です。

聖女様と間違って召喚された腐女子ですが、申し訳ないので仕事します!

碧桜
恋愛
私は花園美月。20歳。派遣期間が終わり無職となった日、馴染の古書店で顔面偏差値高スペックなイケメンに出会う。さらに、そこで美少女が穴に吸い込まれそうになっていたのを助けようとして、私は古書店のイケメンと共に穴に落ちてしまい、異世界へ―。実は、聖女様として召喚されようとしてた美少女の代わりに、地味でオタクな私が間違って来てしまった! 落ちたその先の世界で出会ったのは、私の推しキャラと見た目だけそっくりな王(仮)や美貌の側近、そして古書店から一緒に穴に落ちたイケメンの彼は、騎士様だった。3人ともすごい美形なのに、みな癖強すぎ難ありなイケメンばかり。 オタクで人見知りしてしまう私だけど、元の世界へ戻れるまで2週間、タダでお世話になるのは申し訳ないから、お城でメイドさんをすることにした。平和にお給料分の仕事をして、異世界観光して、2週間後自分の家へ帰るつもりだったのに、ドラゴンや悪い魔法使いとか出てきて、異能を使うイケメンの彼らとともに戦うはめに。聖女様の召喚の邪魔をしてしまったので、美少女ではありませんが、地味で腐女子ですが出来る限り、精一杯頑張ります。 ついでに無愛想で苦手と思っていた彼は、なかなかいい奴だったみたい。これは、恋など始まってしまう予感でしょうか!? *カクヨムにて先に連載しているものを加筆・修正をおこなって掲載しております

誘拐された公爵令嬢ですが、なぜか皇帝に溺愛されています』

富士山麓
恋愛
舞踏会で王太子から婚約破棄を告げられそうになった瞬間―― 目の前に現れたのは、馬に乗った仮面の皇帝だった。 そのまま攫われた公爵令嬢ビアンキーナは、誘拐されたはずなのに超VIP待遇。 一方、助けようともしなかった王太子は「無能」と嘲笑され、静かに失墜していく。 選ばれる側から、選ぶ側へ。 これは、誰も断罪せず、すべてを終わらせた令嬢の物語。

すみっこ婚約破棄同盟〜王子様による婚約破棄のすみっこで〜

まりー
恋愛
   ある夜会で王子とその側近達の婚約破棄が行われた。腕に恋人をぶら下げて。所謂、王道断罪劇である。  でもこのお話の主役は麗しのヒロインでも、キラキラ王子でも、学園一の秀才や騎士団期待のホープでもない。これは王道のすみっこで行われた、弱小貴族と商人の子息たちの婚約破棄のお話である。 _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ 「もう俺ら、恋なんてしない!」と言う小学生の息子の話を参考に書きました。登場人物の男子たちの頭は小学生レベルだと思って読んでください。    

『お前の顔は見飽きた!』内心ガッツポーズで辺境へ

夏乃みのり
恋愛
「リーナ・フォン・アトラス! 貴様との婚約を破棄する!」 華やかな王宮の夜会で、第一王子ジュリアンに突きつけられた非情な宣告。冤罪を被せられ、冷酷な悪役令嬢として追放を言い渡されたリーナだったが、彼女の内心は……「やったーーー! これでやっとトレーニングに専念できるわ!」と歓喜に震えていた!