運命は変わる。「婚約破棄だ!」と王子が叫んだ瞬間。

桃瀬ももな

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「アスカ・フォン・ローゼン! 貴様との婚約は、今この瞬間をもって破棄とする!」

王立学園の卒業記念パーティー。

シャンデリアが煌めく大広間に、カイル第二王子の声が響き渡った。

オーケストラの演奏がピタリと止む。

グラスを傾けていた貴族たちが、驚愕の表情で振り返る。

その視線の中心にいるのは、壇上で勝ち誇った顔をする金髪の王子と、その背後に隠れるように震える小柄な少女、レイナ男爵令嬢。

そして、彼らに対峙する、冷ややかな美貌の公爵令嬢アスカだった。

周囲の令嬢たちが扇子で口元を隠し、ヒソヒソと囁き合う。

「まあ、とうとう……」

「アスカ様の嫉妬深さには、殿下も耐えきれなかったのね」

「レイナ様へのいじめも酷かったと聞くわ」

そんな雑音が渦巻く中、断罪された当のアスカは、無表情のまま懐中時計を取り出した。

チ、と小さな音が蓋を開ける。

彼女は文字盤を一瞥し、パチンと蓋を閉じた。

「……予定より三分遅れですね」

「は?」

カイル王子が間の抜けた声を上げる。

アスカは静かに時計をポケットにしまうと、冷徹な事務官のような声で続けた。

「殿下。この断罪劇の開始予定時刻は一九時ちょうどだったはずです。入場の手順を間違えたせいで進行が押していますよ」

「なっ……貴様、何を言っている! 悲しくないのか! 長年連れ添った僕に捨てられるのだぞ!?」

カイルが顔を真っ赤にして叫ぶ。

アスカは小さくため息をついた。

その仕草すら、計算されたように優雅で、そして恐ろしく冷たい。

「感情論は後回しにしましょう。非効率です」

「ひ、非効率だと……!?」

「はい。まずは事実確認を。殿下は私との婚約を破棄したい。理由は、私がそこのレイナ嬢をいじめ、殿下の愛を独占しようと画策した……というシナリオでよろしいですか?」

「シナリオではない、真実だ! 貴様はレイナの教科書を破り、ドレスにワインをかけ、階段から突き落とそうとしたではないか!」

カイルがレイナの肩を抱き寄せ、守るように一歩前へ出る。

レイナが潤んだ瞳で王子を見上げ、震える声で言った。

「カイル様……私のことはいいのです。アスカ様も、きっとお寂しかっただけなのですから……」

「おお、レイナ! なんて優しいんだ! それに比べてこの悪女は!」

会場中が感動(と一部の呆れ)に包まれる中、アスカは懐から一冊の手帳を取り出した。

パラパラとページをめくる音が、静まり返った広間に妙に響く。

「ええと、まず教科書の件ですが。あれはレイナ嬢が授業中に居眠りをしてヨダレで汚損したものを、私が自費で新しいものに取り替えて差し上げた件ですね。領収書があります」

「は?」

「次にドレスのワイン。あれは他国の外交官との会食中、レイナ嬢がナイフとフォークを落として暴れ出しそうになったのを止めた際、給仕とぶつかって濡れたものです。私の動きがなければ、外交官の顔にソースが飛んでいました。クリーニング代の請求書はこちら」

「え?」

「最後に階段の件。あれはレイナ嬢が『手すりを滑り台にして遊びたい』と言って身を乗り出したのを、私が襟首を掴んで引き戻しただけです。目撃者は多数。警備兵の報告書もここに」

アスカは淡々と事実を列挙し、その都度、どこからともなく取り出した羊皮紙の束をカイルに見せつけた。

カイルの目が泳ぐ。

「そ、それは……貴様の歪んだ解釈だろう! レイナがそんなことをするはずがない!」

「事実確認は数字と証拠で行います。殿下の『はずがない』という希望的観測は、国政において最も排除すべき要素です」

アスカの言葉は鋭利な刃物のようにカイルへ突き刺さる。

彼女は一歩踏み出した。

その迫力に、カイルとレイナが思わず後ずさる。

「そもそも、いじめなどという暇なことをしている時間はありません。私は忙しいのです」

「い、忙しいだと? 公爵令嬢が何を……」

「殿下の公務です」

アスカの声が、一段低くなった。

広間の空気が凍りつく。

「昨年四月、隣国との通商条約締結。殿下は『めんどくさい』と言って逃げ出しましたね? あれをまとめて署名したのは誰だと思っていますか?」

「う……」

「昨年七月、夏季の治水工事計画。殿下は視察に行くと嘘をついて避暑地で遊んでいましたね? 現場監督と折衝し、予算を組んだのは私です」

「そ、それは……アスカがやりたいと言ったから……」

「言っていません。殿下がやらないから、私の婚約者としての管理責任が問われるのを避けるために代行しただけです。この三年間、殿下が決裁すべき書類の約八割を私が処理してきました」

アスカは背後に控えていた従者に目配せをした。

従者が恭しくワゴンを押してくる。

そのワゴンには、うず高く積まれた書類の山が載っていた。

カイルが引きつった笑顔を浮かべる。

「な、なんだそれは……」

「過去三年間の、私の労働記録および代行業務に関する請求書一式です」

アスカは一番上の書類を手に取り、突きつけた。

「婚約破棄、謹んでお受けいたします。これ以上、無給で殿下の尻拭いをするのは労働基準法(私のマイルール)に違反しますので」

会場がざわめき始める。

「おい、あれ本当か?」

「殿下の公務を全部アスカ様が?」

「そういえば、最近の政策は妙に合理的で隙がないと思っていたが……」

カイルは脂汗を流しながら、必死に虚勢を張った。

「金か! 結局は金目当てだったのか! 愛はないのか!」

その言葉を聞いた瞬間、アスカは初めて感情を見せた。

呆れ果てた、底冷えのするような冷笑を。

「愛? 殿下、契約書もなしに労働力を搾取することを、世間では『やりがい搾取』と呼ぶのです。あるいは奴隷労働とも」

「ど、奴隷……」

「私は公爵家の娘として、王家への忠誠心から働いてきました。ですが、婚約破棄となれば話は別。私はただの他人になります」

アスカはパン、と手を叩いた。

「よって、本日この瞬間より、私は殿下の業務代行を一切停止いたします。そして、これまでの未払い賃金、および不当解雇……いえ、不当な婚約破棄に対する慰謝料を請求させていただきます」

彼女はニッコリと微笑んだ。

それは、商談を成立させた敏腕商人のような、有無を言わせぬ迫力に満ちていた。

「総額、金貨三億枚。分割は認めません。即金でお願いします」

「さ、三億!?」

カイルが裏返った声を上げてのけぞる。

国家予算の一角を削り取るような金額だ。

しかし、アスカは涼しい顔で内訳を説明し始めた。

「政策立案費、外交折衝費、書類作成費、深夜早朝の割増賃金、精神的苦痛に対する慰謝料、そしてレイナ嬢が破壊した備品の補填費……全て正規のレートで計算しております。安いくらいですよ」

「ふ、ふざけるな! そんな金、払えるわけが……」

「払えないのであれば、国王陛下に直接請求書を回させていただきます。その際、殿下がこれまで職務放棄していた事実も全て報告書として添付されますが、よろしいですね?」

「待て! 父上に知られたら僕は廃嫡されてしまう!」

「でしたら、ご自身でお支払いください。あるいは……」

アスカはチラリと、怯えるレイナに視線をやった。

「そちらの真実の愛(笑)で、なんとかしてみせたらどうですか?」

その言葉はトドメだった。

カイルは言葉を失い、パクパクと口を開閉させるだけ。

アスカは勝ち誇ることもなく、ただ淡々と「業務終了」の空気を漂わせて背を向けた。

「では、支払い期限は明日正午までとさせていただきます。……ああ、せいせいした」

最後の一言は、誰に聞かせるでもない、心からの本音だった。

重たいドレスの裾を翻し、颯爽と出口へ向かうアスカ。

その背中は、これ以上ないほど晴れ晴れとしていた。

誰も彼女を止められない。

圧倒的な論理と、物理的な請求書の山を前に、会場中の貴族たちが道を開ける。

(これでやっと、あの馬鹿王子の世話係から解放される。明日は久しぶりに朝寝坊ができるわ……!)

アスカがそんな平和な計画を胸に、大扉に手をかけた、その時だった。

「待て」

低く、しかしよく通る男の声が呼び止めた。

カイルの情けない声ではない。

もっと重厚で、聞く者の背筋を正させるような、絶対的な響きを持つ声。

アスカは眉をひそめた。

(まだ何か? 残業は断固拒否するけれど)

渋々といった様子で振り返ると、そこには意外な人物が立っていた。

黒髪に切れ長の瞳。

仕立ての良い漆黒の燕尾服を着こなし、氷のような無表情で佇む男。

この国の宰相であり、その冷徹な仕事ぶりから『氷の宰相』あるいは『城内の魔王』と恐れられる男、ジークフリートだった。

彼は群衆を割って進み出ると、アスカの目の前で立ち止まった。

その手には、先ほどアスカがカイルに突きつけた請求書の写しが握られている。

「……計算に誤りがある」

「はい?」

アスカは目を丸くした。

計算ミス?

この私が?

あり得ない。

「どこでしょうか。宰相閣下といえど、私の帳簿に難癖をつけられるのは心外ですが」

アスカが抗議の声を上げると、ジークフリートは鉄仮面のまま、淡々と言い放った。

「ここだ。深夜労働の割増率が規定より0・5パーセント低い。君ほどの能力者が、自身の労働価値を安売りするな」

「……は?」

「それに、これだけの業務を一人でこなしていたのなら、管理職手当も加算されるべきだ。再計算したところ、請求額は金貨三億五千万枚になる」

ジークフリートは懐から万年筆を取り出し、サラサラと書類に修正を書き込んでいく。

アスカは呆然とそれを見つめた。

(なにこの人……私の味方? それとも単なる数字オタク?)

修正を終えたジークフリートは、顔を上げてアスカを真っ直ぐに見据えた。

その瞳の奥に、怪しい光が宿っていることに、アスカはまだ気づいていなかった。

「アスカ・フォン・ローゼン公爵令嬢」

「は、はい」

「君の事務処理能力、および危機管理能力を高く評価する」

「はあ……恐縮です」

「よって、王家は君を失うわけにはいかない」

「いえ、ですから婚約は破棄されまして……」

「婚約はどうでもいい。私が言っているのは、労働力のことだ」

ジークフリートは一歩、アスカに歩み寄った。

距離が近い。

整いすぎた顔が目の前に迫る。

「カイル殿下では君の能力を使いこなせない。宝の持ち腐れだ。……だが、私なら」

彼はそこで言葉を切り、アスカの手を取った。

それは紳士的なエスコートのようでいて、逃がさないという強い意志を感じさせる握力だった。

「私の執務室に来てくれ。君に見せたい書類(みしよりのやま)がある」

「……はい?」

アスカが聞き返す間もなく、ジークフリートは彼女の手を引いて歩き出した。

「ちょ、ちょっと待ってください! 私は明日から自由な身で……!」

「権利を主張するなら、まずは義務を果たせと言ったのは君だ。私が正当な対価を支払おう」

「対価?」

「宰相補佐官としての地位。そして、先ほどの請求額の倍の年俸だ」

アスカの足がピタリと止まった。

「……倍?」

「福利厚生も完備している。有給休暇も取らせよう」

アスカの瞳が、チャリンという音とともにドルマークに変わった(ような気がした)。

「……詳しいお話を伺っても?」

「もちろんだ。馬車を用意してある」

ジークフリートは微かに口角を上げると、唖然とするカイル王子や貴族たちを置き去りにして、アスカを連れ去っていく。

それが、悪役令嬢(仮)アスカの、新たな、そしてもっと過酷な労働日々の始まりだった。
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