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『嘆きの谷に、青い鳥は舞う』1

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 ニュー・ゴールデンバレーから、そのいけ好かない男がやって来たのは、街が雨期に入る直前の事だった。

 その頃、おれはウォルーメン・ハーレムの一画にある安アパートメントの、さびれた一室に構えた自宅兼事務所で慎ましく暮らしていた。つい先日、二千ギルヴィの収入があったっていうのに、その日も、朝食は買い置きのパンに目玉焼きだった。朝食があるだけましだって言う奴がいるかもしれないが、知った事じゃない。二千もあればセントラルの高級ホテルで優雅なひと時を過ごせるし、少々豪勢な船旅にだって出掛けられる。だというのに、大金はおれの懐に留まらずに消え去っていった。
 この面倒極まる、右腕のせいで。


 ――パチ、パチ、パチ。
 硬い鍵盤を操作すると、天井に設置した作業用アームの先端が精密ドライバーに切り替わる。作業台の電源である蒸気タービンはもう六時間フル回転だ。窓を開けていても部屋の中が暑い。部屋の隅で鎮座している小型のジュークボックスからは、気晴らしに少し古いジャズを流しているが、これじゃ雰囲気も何もあったもんじゃない。
手元の操作球(マウス)でアームを動かし、作業台上の、内部が剥き出しになったおれの〝右腕〟に近付ける。筋肉のように入り組んだ配線と骨に相当するメタルフレームの間に、注射針のようなドライバーを下していく。
神経接続が可能な、この《蒸気電駆動義腕(スチーム・エレクトリック・アーム)》は、とかく整備が面倒だ。特に、派手にぶっ壊したあとはパーツを揃えるだけでひと月近くかかる事も稀じゃない。今回はたまたま自分で修理出来るくらいの損傷で済んだが、それにしたって修理費は半端な額じゃなかったし、おれはもう三日も、こいつの修理に追われている。


 が、それもあとほんの少しだ。とっととこの義腕を直して次の仕事をしなけりゃならない。
とはいえ、私立探偵は基本的に依頼を待つ身だ。でかい探偵社からおこぼれの仕事を貰ったり、時には、とうてい探偵の仕事とは言えないような仕事をしたりする事もあるが、いちおうおれは私立探偵である自分に誇りを持っている。
誇りで飯は食えないが、誇りを無くした人間がどういう風になるかは見てきた。人生において大事なのは二つだけだ。一つ、おれの事を叩き潰そうとする輩の顔に、唾を吐いて中指を立ててやる事。もう一つ、おれの大事なものを嘲笑う奴の横っ面に、最高の一撃をお見舞いしてやる事。


「ベンジャミン、コーヒーくれ」
 おれがそう言うと、ジュークボックスが音楽を止めた。
 モーター音がして、ジュークボックスの下部に取り付けられたタイヤが動き出す。ジュークボックスの胴体から伸びた二本の腕が、すぐそばの机の上からコーヒーポットとステンレス製のマグカップを掴み、コーヒーを注いでおれのところに持って来る。
「ありがとうよ、ベン」
『少し休めば? タルボ』
 ジュークボックス型のスチームドロイド、ベンジャミンが少年のような合成音声で言った。カップを手に取り、一口飲んでからおれは答える。
「いや、もうすぐ完了だ」
 カップを作業台に置く。ガチ、とプレートを嵌め込み、螺子を締めて固定する。これでよし。
 左手でおれは義腕を取り上げる。特殊鋼の曇りない漆黒の腕。
修理は終わりだ。久しぶりの収入をほとんど持っていった、愛すべきおれの右腕。せいぜい今度は大事に使ってやろう。義手を生かして当の本人が飢え死にしたんじゃ元も子もない。


『仕上がりはどう?』
「ばっちりだ。アンドレの紹介も悪いところばかりじゃないな」
『今度はなるべく壊さないようにしてよね。仕事が出来なくなったら、ボクの燃料が買えなくなる』
「もしそうなったら、おまえはしばらく休暇だ。部屋の隅でゆっくりしてるんだな」
『電源が入っていないのに休暇も何もあるもんか。馬鹿な事言ってないで仕事取って来なよ。ちょっとはマシなご飯が食べたいだろ?』
「あーあー生意気なドロイドだ。『お疲れでしょう、ご主人様。どうぞおくつろぎ下さいませ』ってな事は言えないのか?」
『ジュークボックスにかしづいてほしいとはね。そういうのは大金持ちがやらせるものだよ。場末の貧乏探偵には似合わない趣味だね』
「つくづく口の減らない奴だ……。しばらく燃料切れはないから安心してろ。さて、片付けて本業に戻るとするかね」
 そう言って席から立ち上がり、特殊鋼で出来た腕を取り付けようとしたその時だった。ベンジャミンのランプが赤く灯り、
『――タルボ』
 小生意気なドロイドが警戒するような声を出した。


 ノックもなく、作業室のドアが開いたのはまさにその直後だった。
安い喜劇みたく、おれは慌てて義腕を取り落としたりはしなかった。ただ、ちょっとばかし今日は暑かったせいで、最高にクールな格好をしていただけだ。すなわち、シャツにステテコを履いただけの、ラフなファッション。
対して、ドアの向こうに立っていたのは、見るからに高そうなスーツを身に着けた、小柄な老人だった。
どこかで見た顔だ。だが、顔見知りじゃない。新聞か、テレビだったか……。
「タルボ・リーロイ・コールはいるか?」
 ノックさえせずにドアを開けやがった、骨ばった顔に執念をのぞかせるその老人は、ぎらついた目でおれを見つめた。
「……どうやら部屋を間違えたようだな」
「あー待て待て。頼むから待ってくれ」
 左手を挙げながら、おれは席を立ってドアまで駆け寄った。老人の後ろで控えていた眼鏡の若い男が途端に割って入る。
老人は不審そうな目でおれを見上げたが、この際手段に構っちゃいられない。
「あんたは間違っちゃいない。この街でおれを探し当てるなんて大したもんだ。姪っ子の不器用な料理みたいに、見てくれは悪くても味は最高さ。ようこそ、タルボ・リーロイ・コールの探偵事務所へ。おれが所長のタルボだ」
 老人は、おれが差し出した左手をきっかり三十秒、じっくりと見つめた。その目に猜疑心が急速に育っていくのをおれは見逃さなかった。老人が何か言おうと口を開きかけ、同時に体が部屋を出ようとする前に、おれは言った。
「五分待っていてくれ。ご期待の格好に着替えるから」



義腕の神経接続にもずいぶん慣れた。軍の施設で初めてを試した時は、繋ぐだけでみっともなく叫んだものだが、今や、なめくじが全身を這うのを耐えるのと同じくらいの忍耐力で、さっさと装着出来る。何事も慣れだ。人生の表面的な出来事は。
義腕のニキシー管モニターにモード【NORMAL】の表示が表れる。生体電流感応異常なし。指先の動きまでスムーズだ。
「お待たせしましたね」
 いつものシャツとジャケットにスラックス、手早く髪を整えたおれは、客人のために紅茶を淹れ、ティーポットとカップを三つ、トレイに載せてオフィスへと持ってきた。コーヒー、紅茶、それにニホン茶。客に出す物は気を遣って少し良い物を用意してある。
ベンジャミンが体内のタイマーで正確に時間を計って、ポットからカップへ紅茶を注ぎ、それを客人へと差し出した。


「ふん。野人にも茶を出す文化はあるのか」
 老人は香り立つティーカップを一瞥して、手を付けようともしない。おれは後ろで控えている眼鏡の男の分もカップを置いたが、こいつも主に倣ってカップには手を出さない。
 やれやれ。出だしが悪い。が、まあ、こんな客もいないわけじゃない。気を取り直して、自分のカップに紅茶を注ぎ、対面の席へと座る。
「さて……まずは、お名前を伺っても?」
 実のところ、着替えている間に目の前の老人が何者か思い出したのだが、念のため尋ねておく。案の定、老人は不満そうに眉を吊り上げた。
「わしを知らんというのか? 探偵というのは新聞にも目を通さぬ仕事らしいな」
「なに、他人の空似という奴がありますからね。ご本人から名乗ってもらうのが一番正確なんですよ」
 老人はふん、と鼻を鳴らし、
「エベネーザ・アルゲンスだ。マグニフィン伯と言えばわかるだろう」
 老人の言葉をフォローするように、眼鏡の男が名刺を差し出した。受け取って、文面を確かめる。紙自体に貴族院の紋章が印刷されており、それだけでこの老人が本物という事がわかる。


 エベネーザ・アルゲンス・マグニフィン伯爵。
永遠燃石フロギストン〉の広大な鉱脈を有する西部、マグニフィン地方を治める領主。ニュー・ゴールデンバレーを始めとする多くの鉱山の採掘権を所有し、〈採掘王〉の呼び名で知られる。それに加えて、領地とこの街、〈ウリエルシティ〉を繋ぐ鉄道会社を経営し、蒸気科学時代において最も重要なエネルギー資源と社会インフラの一翼を担う、まさしく希代の大金持ち。
 何度か写真は見た事があったが、実物の迫力は別格だった。確か七十を越える爺さんだったはずだが、常に他者を圧するかのような気迫が滲み出ていて、油断すればこちらの心臓にも食らいついてきそうだ。偏屈そうな両目に白髪の残る禿頭は老獪なハゲワシを思わせる。黒檀のステッキには銀細工が凝らしてあり、それを持つ細長い指には金の指輪が二つ、エメラルドとサファイヤの指輪が一つずつ。ベストの腹辺りのボタン穴には、懐中時計の金の鎖が通されていて、全身に金を纏っているとでも言うべき装いだった。


 金持ちは好きじゃないが、おれは丁重に挨拶した。
「お会い出来て光栄です、マグニフィン伯爵。しかし伯爵ともあろうお方が、こんな探偵事務所に一体何の御用です?」
「仕事をくれてやりに来たのだ。いちいち言わせるな」
 老人は苛立たしげに手を上げた。眼鏡の男が無表情のまま、手持ちのケースから一葉の写真を取り出し、机の上に置く。
 写っているのは、少女だ。年齢は十八か、もう少し上ってとこだろう。気品を漂わせる黒髪の乙女がカメラに向かって微笑んでいる。ただ、その表情はどこか硬く、無理して作り上げているようにも見える。
「娘のルシアだ。今年で十九歳になる」
 眼鏡の男がドライシガーのケースを開けて、伯爵へ差し出す。エベネーザは無造作に一本を手に取り、慣れた手つきで火を着ける。
 葉巻の甘ったるい香りが部屋中に広がる。おれは黙って、伯爵の手元へ灰皿を置いた。


「ルシアはこのウリエルシティの大学へ通っておった。だが一週間前から連絡が取れなくなり、下宿先へも帰っていないらしい事がわかった。わしは仕事の都合で、三日間この街へ滞在する。その間に、娘を見つけてもらいたい」
 ひと息にそう言って、エベネーザは旨くも何ともなさそうに葉巻を吹かす。
 爺さんめ。なかなか無理難題を吹っ掛けてきやがる。
「三日で、このお嬢さんを探せと?」
「そう言った」
「彼女が消えた理由は?」
「知らんな」
「彼女の行く先に心当たりは?」
「それを探るのがきさまの仕事だ」
「もし三日で探せなければどうなります?」
 紫煙の向こうで、伯爵の両目が細められた。
「わしは三日で探せと言ったのだ。失敗した時の事など、今は考える必要がない」
 おいおい……。こっちも煙草が吸いたくなってきた。相手がおれなんぞとは比べるまでもない大人物という認識が、瞬時に頭から吹っ飛ぶ。


「いいですか。失せ物を探すんじゃないんだ、相手は自分の意思で動き回る人間ですよ。もうとっくにこの街を出ているかもしれない。何か事件に巻き込まれている可能性だってある。期間を三日に限定されたところで、見つけられる保証はない。どうしても三日で見つけたいなら、もっと大きな探偵社に行って、さらには警察を頼る事です。おれ一人があくせく動き回るより、人手を増やしたほうがまだ可能性があるってもんだ」
 伯爵はぴくりとも表情を動かさなかった。
「それは出来ん。わしはこの件に、極力人を関わらせたくないのだ。それから……事件に巻き込まれている可能性と言ったな。もし仮にこれが誘拐ならば、今の今まで身代金を要求された事はない。あり得ない事だが、人から恨みを買った事もない」
「何故そんな事が言い切れるんです。怨恨なんて、それこそどういう経緯で湧いてくるかわかったもんじゃない」
「娘は弱い人間だ」
 伯爵は言い切った。


「さんざん教育を施したが、一人では何も出来ん。大学にしても、ほかにろくなところがないから仕方なく下宿させて通わせていたのだ。わしがいなければ何一つ為せない小娘が、人から恨まれるような大それた真似が出来るはずないだろう」
 実に、実にクソみたいな言い分だった。吐き出す言葉の一つ一つが毒物だ。
「さて、話を聞いた以上は引き受けてもらうぞ」
「冗談じゃない。悪いがお引き取り願いますよ。無理矢理やらされるのはごめんでね」
「リチャード!」
 エベネーザが大声を上げると同時に、若者が黒い銃口をおれの胸元に向けていた。コルト・パイソン六インチ。引き金に指はかかっていないが、すぐに撃てるよう沿わせてある。まったく貴族は手下の銃まで高い物を揃えてやがる。
「そうそう簡単に銃を向けるもんじゃないぜ。あんたの価値が下がる」
「引き受けてもらう、と言ったのだ。命を投げ出してまで突っ撥ねるような話でもあるまい」
 老人は全く変わらない調子で言った。本気か、この爺。
 嘆息しておれは懐に手を入れる。途端に、
「動くな」
 と、若者が緊張した声音で言った。


「慌てるなよ。一服つけるだけだ」
 残り少なくなったプエブロを一本取り出して銜え、火を着ける。ゆっくり、時間をかけて一服を味わう。若い執事の銃を持つ手が緊張で凝り固まっていく。伯爵は依然として不機嫌そうに葉巻を吹かしている。
 おれはルシアの写真を見つめた。金も力も持っている男の元から消えた娘の顔を。
 ――クソったれ。
「……特急の仕事なら、少しばかり報酬を弾んでもらわなきゃなりませんね」
「四千」
 すかさず、エベネーザは言った。
「もちろん経費は別で支払ってやろう」
「全く足りませんね。こちらはありとあらゆる手を尽くす必要がある。場合によっては、少々危ない橋を渡る事もあり得る」
「いくら欲しいんだ、探偵?」
 エベネーザが結論を急ぐ。
「五万ギルヴィ」
「ふざけるな」
「ふざけちゃいません。理由もわからず消えた人間を三日で見つけて来いというんだ。四千なんてはした金で使われちゃ、今後の評判に関わる。五万いただきましょう。それなら、三日以内にお嬢さんの行方を探り当ててみせますよ」


 普段の料金設定からすればふっかけ過ぎもいいところだったが、おれは思い切って言ってやった。
 老人は葉巻を手に持ったまま、じっとおれを睨んでいた。老人の脳内で、感情よりも損得の計算が働いている。突き刺すような視線を受け流しながら、返答を待った。
「……五万なら三日で娘を見つけ出すのだな?」
「二言はない。お伝えした通りです」
「失敗した時はどうなるか、わかっているのだろうな?」
「失敗をイメージしないのが成功の秘訣でね」
「銃を下せ、リチャード」
 老人が言い終わるより少しばかり早く、リチャードは銃を下した。
「名刺をよこせ」
 さっき貰った名刺を返すと、老人はその裏にペンで走り書きをした。
「前金で一万やろう。どこの銀行でもいい。それを渡せば口座に金が振り込まれる。必要経費も支払ってはやるが、成果が出なければ代償はその分大きくなるからな。忘れるなよ」
 そう言って、エベネーザは名刺を投げ返した。ふっかけた甲斐があったのか、前金の額も破格だ。
「わしはエウリュノメホテルに泊まっている。夜の七時に必ず報告を入れろ。このリチャードが連絡係になる。――資料を渡しておけ」


 おれはリチャードから封筒を受け取った。
「ありがとよ。よろしくな、リチャード」
 おれは握手を求めたが、若者は応じようとしなかった。ふん、まだ緊張してやがるのか。
「話は終わりだ」
 葉巻を揉み消し、老人は立ち上がった。帽子掛けから古風なハットを取って無造作に被る。
「ではな。期待はしとらんが、渡した分だけは働け。妙な事は考えるな」
 金を持ち逃げする事を言っているのだろう。おれは精一杯の礼を尽くして返答した。
「三日後にお会いしましょう」
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