探偵尾賀叉反『騒乱の街』

安田 景壹

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『騒乱の街』2

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 鉛を抱えているようだった。ひどく気分が悪い。体は浮上する事を許されず、どこまでも深く沈殿していく。
 叉反は暗闇の中にいた。一切の明かりが遮られた空間に。そこでは他に何人もの人間がいて、横になったり、うずくまったりしている。大半は言葉を発さなかったが、中にはぶつぶつと呟き続けたり、叫び声を上げたりする者もいた。空間は暗闇だったが、奇妙な靄のような物が充満しているのを肌で感じる。その靄を一口でも吸い込むと、叉反の体はさらに闇の中へ沈んでいくのだった。


 だーん、という音が耳元で繰り返されていた。一度だけ響いた、全く同じ音が何度も再生される。そうして音が聞こえると、あの赤い液体が噴き上がるのだ。だーんという音と共に、心臓が破裂して穴から噴出したのだ。だーん、だーん、だーん。同じ音、同じ血、同じ死。何度も何度も目の前で繰り返される。限りなく。時間さえ忘れて。
 靄を吸い込む。背筋がぴんと張って、生きる活力のようなものが湧いてくる。だが、それも一瞬で、すぐに足元に穴が開き、叉反は闇の中へと落ちていく。無明の地獄への落下。俺にはそれが相応しいのだ。愛すべき者を救えなかった自分には、それ以外ない。


 ふと誰かの声が聞こえた気がした。靄を啜る者達の声ではない、別の人物の声。まだ幼く、闇とは無縁なはずだ。
 ――起きて。起きてよ、探偵
 声が聞こえる。しかしそれだけだ。叉反の体は、すでに虚無となっている。
 ――起きて、起きてってば
 声は、しかし諦めない。どこまでも叉反に呼びかけ続ける。
 ――ああ、もういい加減に……
 その声に聞き覚えは――
「起きろ!!」

 唐突に叩き込まれた鳩尾みぞおちへのパンチで、叉反は目を覚ました。うげえ、という実に情けなき声が自分の口から漏れるのがわかった。痛くはない。決して痛くはないが鳩尾に深く突き刺さった。あまりの出来事に脳は覚醒ではなく混乱し、殴られた、目覚めた、夢ではないという三点を認識するまでにしばらくかかった。
「起きた? 探偵」
 誰かの声がした。子供の声だ。聞き覚えのある声。
 ふと、眼前に顔が現れた。少年の顔が。少し長めの髪に、額から触角が生えている。
「――……じん?」


「うなされているみたいだったから、悪いけど強硬手段に出たよ。汗ひどいけど、平気?」
「平気じゃない」
 およそ目覚め方としては最悪だろう。腹を抑えながら、叉反は落ち着くのを待った。
「ごめん、あんまりに苦しそうだったから。痛かった?」
「……大した事じゃない」
 一応、そう言っておいた。
「お前、学校は?」
「今日は土曜」


 言って、少年――明槻あかつきじんはベッドから離れた。
「塾行くまで、少し暇でさ。帰っているみたいだったから、様子を見に来た」
「なるほど……」
言いながら、叉反は体を起こして、頭を振った。シャツもスーツも脱ぎ捨てて床に入ったから下着姿のままだ。
案の定、仁が嫌そうな顔をした。
「うわ。おっさんかよ、叉反」
「うるさい」
 生意気な言葉を切って捨て、顔を擦って目を覚ます。おもむろにカーテンを開けると、ちょうどツバメが横切っていくところだった。



 ナユタ駅での逃走劇から、すでに二日が経っていた。
 あの後――警察署に連れて行かれた叉反と深田は、直後から取り調べを受け、二十四時間のうちのほとんどを質問攻めで過ごした。叉反が解放されたのは夜中だったが、深田はそのまま留置所に入れられているらしい。元々組を抜けていた人間が、再び組織に戻ったのだから、すぐには出て来られないだろう。
とはいえ、深田は組織に戻ってから数日後に『計画書』を盗んで逃走している。その間、何か事件を起こした形跡はない。
 警察が知りたいのは刀山会と犯罪組織《ゴクマ》の関係だろうから、その辺りに加えて、『計画書』についても話さえすれば、そう時間はかからずに解放されるはずだ。


 先に警察署を出た叉反は、依頼人に現状を報告し、心配しないように伝えておいた。こちらの連絡先は深田に教えてあるし、尾賀探偵事務所としては、あとは深田が出て来るのを待つばかりである。
 そういうわけで、叉反は昨晩帰宅すると、そのまま衣服を脱いでベッドに沈んだのだった。
 ベッドから出て、シャワーを浴びた。夢を見ていた。まだナユタに来る前の夢を。悪夢だ。疲労が蓄積されると、嫌な記憶ばかりが甦る。熱い湯水を浴びて、それらを洗い流していく。
浴室から出て体を拭き、新しい着替えを取り出す。私服ではなく、仕事用のスーツだ。深田の案件が無事終わるまで休日はない。


 スーツの下着を手に取って、まず尻尾を臀部部分に開いた穴に通す。それから、足を入れてベルトを締める。
 ダイニングに行くと、コンビニで買ったパンがいくつか並んでいた。一人分ではない。
「ついでに買っといた」
 ぶっきらぼうに仁は言って、缶コーヒーを叉反の前に置く。
「ありがとう」
 言いながら席に着いて、ポケットを探って財布を取り出す。
「代金を」
「いいよ。ちょっと小遣い使っただけだし」


「小学生に奢らせるわけにはいかない」
 小銭入れからいくらか取り出して、仁の手に握らせる。
「……多いよ」
「カンパだ」
「意味がわかんないだけど……」
「小遣いは多いほうがいい」


 それ以上は言わせず、叉反はソーセージが挟まったパンを取ると、その前で両手を合わせる。
「いただきます」
「召し上がれ」
 仁も同じくパンを手に取って食べ始める。
 しばらく無言で、二人は買って来たパンを食べ続けた。仁がサンドイッチを口に運び、ブラックの缶コーヒーを飲む。
「……小学生が飲んで旨いか、コーヒー」
「コーヒー牛乳、嫌いだから」
 言いながら、仁はくぴりとコーヒー缶を呷る。
 ――ナユタに来てしばらく経った頃、叉反はとある依頼を受けて、新設されて間もない市立小学校を訪れた。
 仁とは、その時知り合って以来の仲だ。年齢よりは大人びているために仕事の邪魔はしないが、時にはこうして遊びに来る。


 どちらからでもなく、テレビをつけた。
『――新市街開発から二年になるナユタ市では、今日、人工・世帯数の推移についての発表があり、総人口が前回の調査から八七八人増した、一五〇万九〇七八人である事がわかりました。
 市には、このうちの約半分が《フュージョナー》であるとの報告があり、ナユタ新市街開発計画の第一目標である、『あらゆる人間が住める街』は、着実に達成されつつあるとして、関係者は喜びの声を上げています』
 普通の人間であるアナウンサーが、いつも通りの落ち着いた抑揚で原稿を読み上げた。画面には開発に関わった者達のインタビューが映り、次いでナユタ新市街の街並みが映し出される。

 ――《ナユタ市》

 四十年前の内戦によって都市機能を失っていた関東圏の一地帯を再統合、再開発して生まれ変わらせた、新たなる巨大都市。その一番の特徴は、世界でも有数の、《フュージョナー》との共存を主眼に置いた街である、という事。
 《フュージョナー》身体のどこかに他生物の一部分を持って生まれた人間達。その存在が最初に認知されたのは一世紀以上前で、異質な点が外見として現れる事から、旧来の人間達との間に軋轢が生まれる事は、誰もがどこかで予見していた。
 その体に顕れる生物の特徴は多種多様。どういった理由で、彼らが生まれくるかは解明されておらず、その『得体の知れなさ』は、フュージョナー差別に拍車をかけている。
 生まれつき蠍の尾が生えていた叉反も、生まれつき触角と翅が備わっていた仁も、この街に生きるフュージョナーの一人だ。


「あらゆる人間が住める街ねえ」
 子供らしからぬ醒めきった目で、仁がテレビ画面に呟く。その言葉の端々に小さな棘が見え隠れする。
「あり得ないよ。そんなのあるわけないじゃん」
「だが、現に住人は増えている」
 あくまで淡々と答えて、叉反はメロンパンの袋を開けた。じと、と仁の目が叉反を向く。
「そりゃ新しい街だし、一応は『フュージョナー歓迎』を看板にしているからだろうけど。
住みやすいかどうかは別問題だし、ましてや、ずっと住みたいと思うかどうかもわからないでしょ。現に差別はあるわけだしさ、叉反も僕も新市街には住んでいないし」
「俺は職業柄だ」


 叉反が事務所兼住居を構えるこの場所は、開発計画以前から存在している旧市街と呼ばれる地帯の一角にある。
「確かに新市街に比べて旧市街に住むフュージョナーは圧倒的に多いが、それを全て差別で片付けるのは乱暴だ。まず近くに住んで、適度な距離感を計るだけでもいい。大事なのは歩み寄る事だと、俺は思う」
 こういう時に、言葉に感情を乗せるのはうまくない。特に仁相手では。素知らぬ素振りで、叉反はコーヒーを口に運ぶ。
 話を聞く仁の顔は不満げだ。


「そういうものかな。どうせ争うなら最初から関わらなければいいのに、と思う」
 フュージョナーは己の容姿を嫌でも意識させられる人間だ。そして、ある一部の人間達は、そのコンプレックスに触れるのを楽しむかのように、土足でこちらの心を踏み荒らしていく。話に聞いただけでなく、自身もまたそういう事をされてきたせいで、仁は他人を信用しない。
仁の年代だけに限った話ではない。おそらく全てのフュージョナーが、多かれ少なかれ嫌われ、迫害された経験をしている。


 だがこの世界は、そんな事をする人間ばかりではないのもまた確かだ。
「……それは、あまりに悲観的だ」
 言ってから、少し後悔する。良くない答え方だったかもしれない。声音を抑える事が出来ず、感情が滲み出た気がした。
「フュージョナーだもの。難しいよ」
 くぴ、と仁はコーヒーを飲み干す。その声から、彼の感情を察する事は出来ない。
 と、そこでテレビの画面が切り替わった。


『――……番組の途中ですが、臨時ニュースが入っております。先ほど、午前十時半、ナユタ中央街道で、重要参考人を護送していた警察の護送車が、何者かによって襲撃されました。襲撃犯は護送していた参考人を連れ去り、逃走した模様です』
 中継カメラが現場らしい中央街道の様子を映し出す。横転した護送車からは火の手が上がり、ガードレールに突っ込んだ車両や、玉突きにぶつかったパトカーの影に隠れる警官の姿が画面に映される。彼らの手には拳銃が握られ、時折銃撃らしい火花が散っているのがわかる。
 襲撃犯の姿も見えた。黒塗りのバンが二台、その近くでサブマシンガンをぶっ放している覆面の人間達。
「ゴクマだ……」


 仁が驚きを含んだ声を上げた。近頃国中を騒がせる犯罪集団の名だ。確定した情報があるわけではない。だが、昨今警察に対して、白昼堂々ここまでやる組織といえば、ゴクマだけだ。
『……今、新しい情報が入りました。襲撃犯によって誘拐された参考人は、元《刀山会》構成員、深田慎二氏である事が判明しました。深田氏は先日起こった刀山会の内部抗争に深く関わっていたとされ、今回の事件はその件に関連したものであると推測されています』
「深田さん……!?」
 我知らず、叉反は立ち上がっていた。
テレビに映っている襲撃犯達がゴクマだとすれば、彼らが深田を攫う理由は一つだ。
 ――計画書。死亡した西島やレインコートが血眼になって探していた、謎の書類。


 ポケットの中で携帯電話が震える。画面を見ると依頼人からだった。
 席を立って、叉反は電話に出た。どうやらテレビを見たらしい。声がひどく動揺している。とにかく落ち着くように伝え、決してそこから動かないように言い含める。ゴクマの連中が依頼人の居所を知っているとは思えないが、もし万が一にも知られてしまった場合、利用されるのは目に見えている。
「ちょっと叉反、どこ行く気?」
 電話が切れた途端、身支度をし始めた叉反を見て、仁が上ずった声を上げる。
「仕事だ」
 ネクタイを締めて、コートを着る。必要そうな物を見繕い、ポケットに仕舞う。


「どこに行くのか知らないけど、今の攫われたって人を追う気ならお門違いだよ。警察が動いてるのに、探偵がしゃしゃり出てどうするのさ」
 仁の言葉はもっともだ。だが、妙な予感は拭えなかった。
「……その人は護送されるような人じゃない。聴取にしても二日あれば終わるはずだ」
「……つまり?」
「妙だ。安易に解決を待っているだけだと、こちらの手が届かないところに行ってしまう気がする」
 依頼人の顔を思い出す。その依頼を引き受けた者として、人任せにする事は許されなかった。
 まだ言いたい事がありそうだったが、結局仁は首を縦に振った。
「わかった、戸締りはしておく。気を付けて」
「すまない。頼む」
 車のキーを手に、叉反は自宅を飛び出した。
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