アイより愛し~きみは青の王国より~

藤原いつか

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第4章 青の海賊

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 無意識だった。
 震える指先が、通話のマークをタップする。
 半透明のイルカが小さく揺れる。

『――もしもし?』

 画面の表示が通話中に変わり、携帯からは七瀬の声がした。
 携帯越しの振動に、体がびくりと震える。
 この世界に居るはずのない、七瀬の声。
 ――どうして…

『もしもし? 真魚?』

 もう一度呼ばれ、はっと慌てて携帯を耳にあてる。

「あ、ごめん、な、七瀬…っ?」
『……』

 あれ、沈黙? 
 もしかしてこれ、あたしの錯覚?
 そうか、そうだよね。
 だって電波が入るわけない。
 ここは世界が違うのだから。
 いくら心許ないからって、そんな都合の良いことあるわけ…

『…ごめん、俺、すっごくしつこかったよね、電話…』

 数秒の間を置いて、再び聞こえてきた七瀬の声はどこかくぐもっていて。
 その内容を理解して、あたしは慌てて首を振った。

「あ、ちがう…! あたしが、わるい…! ごめん、たくさん電話くれてたのに、その、出られなくて…」
『…いいんだ、その…心配だったし、いろいろ…真魚、家には着いたの? ちゃんとお風呂入った? 玄関の鍵閉めた?』

 電話の向こうで少し照れた様子の七瀬の顔が浮かんだ。ただでさえ今日は、心配かけてばかりだったのに。
 それにそう、七瀬は。
 あたしのこと好きだって、言ってくれた。抱き締めてくれたひとだ。

 あれから何時間も経ったわけじゃないのに、それがすごく前のことのように思えた。
 なぜだか懐かしいだなんて感じて、胸が締め付けられた。
 加南や早帆と放課後の教室でムダにおしゃべりしたり、三波や凪沙のいつも突発で無計画な企画に振り回されたり。
 あたしはいつも適当に合わせてるだけで、楽しいフリをして取り繕っていただけで。
 だけどきっとあたし以外のひと達はあの場所で、心から笑っていたはずだ。
 今ならそう思える。
 薄情だったのは、あたしだけだ。

「…七瀬、お母さんみたいだよ」

 くすりと笑いながら、知らず零れた涙を手の甲で拭う。
 どうして涙が流れたのかわからない。
 ううん、あたしはいつも。
 知らないフリ、気付かないフリをしていただけ。本当にこういうところは、お父さんそっくりだ。

『…真魚? 泣いてるの…?』
「ちがうよ、大丈夫。今日はいろいろと疲れちゃったから、もう寝るところだったんだ」
 『……本当に?』

 珍しく七瀬が、踏み込んでくる。
 でも、そうか。
 今まで七瀬はわざと、距離をとってくれていたんだ。
 あたしがすぐに逃げてしまうのを、知っていたから。

「大丈夫だよ、声、聞いたら…元気出た」
『……そっか。真魚がそう言うなら、わかった』

 耳元の声がくすぐったかった。
 単純に自分を心配して、気にかけてくれるその心が。

「電話、ありがとう。おやすみ、七瀬」
『…おやすみ、真魚。また明日ね』

 また、明日。
 明日、会えるの? 
 あたし達は。
 また、会えるの?
 でも、一度は戻れたんだ。
 理由は分からないけれど、戻れないことはないはず。
 戻りたいと、心から願う気持ちがあれば。

「また明日」

 最後の語尾が震えたのは、それが叶わないからじゃない。
 信じる心が唇を震わせた。
 通話の切れた少し熱を持った携帯を、両手で握りしめる。

 帰るんだ、あたしは。
 だってここは、あたしの世界じゃない。

「…あの、マオ? だれか、居るんですか?」

 背中からかけられた声に、はっと息を呑んで振り返る。
 そこには目を丸くしたジャスパーが、木戸に手をかけてこちらを見ていた。
 そうだ、こちらが。
 この世界が今の、現実だ。

「…あ、その、ちょっと、啓示が…おりてきて…」

 引き戻される現実に自分の設定を思い出しながら、しどろもどろと答える。
 どうして携帯が通じたのかは分からない。
 だけどこれ以上余計な印象を与えるべきではない。
 そっと後ろ手に携帯の電源を切った。

「そうなんですか、ぼくはぜんぜん魔力を持って生まれなかったので、そういったことは分からないのですが、本当に魔導師さんなんですね」

 無垢な笑顔を向けられて、僅かに胸が痛んだ。
 だけど仕方ない。
 生きる為の嘘だ。

 それからひとまずお風呂を再開する。
 脱いだ制服はジャスパーが洗って塩を落としてくれるというので預ける。
 携帯だけは、手元に残して。
 結っていた髪を解くと、塩の粒がざらざらと手につく。
 限られた湯で少しずつ洗って、顔と体はさっと洗って流した。
 それから少し覚めた湯に体を沈める。
 冷え切っていた体に、温度がしみわたる。
 手足の指先からじんわりと。
 湯船の中で体を縮めて、瞼を伏せた。
 湯嵩が減って、届かない肩がひやりと冷えていく。

 シアの手をとった。
 それからこの世界に来たいと思った時、シアの元に行きたいと。シアの力に、なれたらと――
 だけどやっぱり、あたしには無理だ。そんなこと、できるわけない。
 こんな、自分の身を守るだけで、精一杯なのに。

 シアに抱くこの感情は、もうわかっていた。
 幼い自分と重なるその影。
 同情だ。
 それじゃひとは、救えない。

 温かな水面が揺れる。
 お守り…お母さんの石だけは、絶対に取り戻したい。あたしにとっての一番はそれだ。
 だってあたしには、何もできないよ――

 ぎゅっと、掴んだ指間でお湯が撥ねる。
 それがそのままゆっくりと、ふわりと浮かび上がった。それが淡い光を放つ。
 視界の端でそれを見つけた時にはもう、浮かび上がる滴の群れに囲まれていた。

「な、に…?!」

 その光景に思わず身をひくも、そこは狭い木槽で。
 自分の一動で作り上げる湯の滴は湯船に落ちず、重力に逆らってふわりと漂う。
 微かに香る花の香りは、石鹸に練りこまれたもの。湯にも染みたそれが、充満する。

 ――マオ

「…! この声」

 旧校舎の、プール。あたしを導いた、あたしの内から聞こえた声。

「あんた、なんなの一体…っ」

 予感はしていた。
 予想はしていた。
 だけどそれを確かめるのも認めるのも、自分で口にするのも。
 イヤだった。
 確かめるのがこわかった。

 ――知っているはず、ボクの名前

「……卑怯よそれ…!」

 滴の漂う虚空を睨みつける。
 姿はない。見えない。だけど確かに、ここに居る。
 それが分かって、受け入れてしまう自分もイヤだった。
 平凡な女子高生で居たかった。
 あの世界にまた、帰る為に。

 ――王の末裔は約束を違えた

 王の、末裔…一族? シア達のことを言っているの?

 ――人間は思いあがりをたださない限り、加護も叡智も得られない。待っているのは亡びだ

「……間違いを、おかしたっってこと…?」

 ――ボクは、約束を守る為に王と契約した

「……約束…」

 シアの話に、似たような言葉が出てきた気がする。約束を、守るために――

 ――その約束は、マオ、君でなければ叶えられない

「…っ、そんなはずない、やめて…!」

 思わず耳を塞ぐ。
 ムダだと分かっていても。

 叫んだ声に弾かれるように、漂っていた滴が一斉に落下した。
 ばしゃばしゃと勢いよく、肌と水面を激しく打つ。
 声が、消えていく。自分の中に。

『呼べば、力を貸してあげる。ただしく使う意思があるなら』

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