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第一部 記憶喪失と竜の子

街での出会い

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 潮の薫りが心地よい港には、穏やかな風の流れに合わせて複数の帆がはためいている。
 海沿いに行けとスーには言われたのだが砂浜を歩くには人間の足では途方も無さすぎる。
 街の中は足元こそ砂浜と同じで、石畳の同じような景色が続くが、顔を上げた先には海と違って人々が存在する。その分、自分には安心が出来るからこの道を選んだ。

 また、理由はもう一つあった。

「あいつ、絵下手だなぁ……」

 手渡された地図が余りにも難解だったのだ。
 逆の意味で。非常にシンプルに、否、地図とは言い難く。細長い線が、何処が始まりで何処が終わりかわからないようなひょろひょろの線が、ある。たったそれだけ。
 スーから貰った紙は地図としては役目を果たせそうにない。

 となれば、宛の無い道よりも人が通る道の方が効率的だった。俺は心の隅の方でスーに謝って、街の中を進むのを選んだ。

 似通った家屋の先には色とりどりの建物。行き交う人々のように奇抜な形では無く、建造物や住居は区域に倣って整備されている。
 現代の日本に見られるようなものではないので、新鮮と言えば新鮮だが、俺にはよく見る絵ハガキの柄にも見えた。

 自分がここに来る前の職業がもし芸術家だったなら、この街並みを美しいと感動してキャンバスを掛けて歩いたりしていたかもしれない。
 そうではないから、すぐ側で絵の具を溢している絵描きを見てそんな風に思えるのだろうが。

 野良猫が横切る小路を覗く。
 家の裏側、白い壁の家族の談笑が聞こえる。
 レンガの街のありきたりな風景。

 暫く堪能していれば長くはもたず飽きてしまいそう。やっぱり俺は芸術家には向いていなさそうだ。
 だったら自分は何者だったのだろう。

 それを思い出そうとすると激しい頭痛が襲ってくる。脳を内側から乱暴に掴まれて髄を引き剥がされるような激震。
 内部がそうされている想像をする暇もなく、耳の穴に血が上って今にも噴き出しそうで、思考することも許されない。
 眉間に刻んでいた皺を解すように額をこすり、思い出そうとするのは辞めた。

 それよりも今は、俺のこの世界での唯一の頼みであり、マグの大切な教え子であるストランジェットとの約束を果たさなくては。

 しかし、本当に果たすべきなのだろうか。
 彼女を迎えに行くことは俺の義務ではないのではないか。

 彼女を置いて来ざるをえなかったのは、俺ではなく俺の体の主が無一文だった責任で、俺自身には関係ないと割りきってしまえるのではないか。
 このまま何も知らなかったふりをして彼女のことは忘れ、この世界に溶け込んで生きていく道もないわけではない。
 邪な考えが痛みに耐えた脳を刺激したが、俺は手にした紙切れを握り直してぐっと堪えた。

 やっぱり、スーを見捨てることは出来ない。
 
 彼女を手離したまま自分だけどうにかだなんて考えが浮かんだ自分を恥じた。
 俺がレストランのテラス席で意識を取り戻してからさっきまでずっと一緒にいてくれたスー。
 俺には今、彼女以外のアテがない。
 俺は何て馬鹿なことを考えてしまったのだろう。

 別れ際の愛らしい彼女の顔を思い出して、話を振り始めに戻そう。

「うわっ?!」

「ま、待てって……このっ!」

 そう思ったとき強い風が突如として吹き、何かが耳を掠めて通りすぎた。
 それから続けて腕への軽い衝突。
 俺は手に持っていたスーから貰った地図を取り落としてしまった。

「ご、ごめんなさい!」

 行き違いになった風の行方を追い掛けてこちらへ駆けてきた少年がぶつかったのだ。
 必死に伸ばした手が俺に当たり急停止した少年が向き直って謝罪する。

「いや、大丈夫だよ」

 俺がスーからのメモ紙を拾い顔を上げると、目の前の少年は顔を真っ青にして体を強張らせ、まるで俺のことを不気味な物でもみたかのような表情で見下ろしていた。
 青い髪の間に見える気の強そうなつり目が、恐怖と困惑で震えている。

「……は? 嘘だろ……? は……?」

「だから平気だって。俺は何ともないから……」

 怪我も何もしていないよ。と少年にぶつかった部位を見せながら言ったが、彼はそれに収まらず、

「お前! 誰だよ!! なんで先生と同じ顔してるんだ?!」

 風を起こした小さな正体の白い光の玉が少年の手の中に戻ると、彼は背中に背負った大きな鉄剣の鞘に手をあてて驚きを声に出した。

 今、目の前で恐怖によって怯えている少年を見て思い返してみれば、スーよりも彼の反応のほうが常識的だったかもしれない。
 この世界の普通の基準や概念をまだ十分には理解できていない俺が言うのもおかしな話だけれど、俺が最初に出会ったドラゴンの娘は能天気が過ぎたと思う。

 死んでしまったと聞かされた相手が突然目の前に現れたら、会いたかった!と抱きついて喜ぶ前にまずすることがあるだろう。

 そう。ちょうど目の前の少年がしているような反応をするのが普通なのではないだろうか。

「マグ先生は死んだはずだろ? お前は何で先生の格好をしてる? 何が目的だ?!」

 怯えて震えながらも強い語気を振り絞って少年は俺を見据える。
 剣の鞘の上で転がる光の玉も彼の声に呼応してチカチカと電気のような輝きを散らし、俺を警戒していた。
 スーのような歓迎とは正反対に、ちょっとやり過ぎとも思えるような警戒心を爆発させている彼に、

「まぁ、待って。落ち着いてくれ。これには事情があって……」

「事情って何ですか? って、いうか動くな、お前……!」

「いやいや。君、話を聞いてくれよ……!」

 興奮で俺の話を聞く耳も持てないらしい。
 幸い、彼は鞘に触れて光で威嚇をするだけで背中の大剣を抜いて斬りかかってくるようなことはしなかったが、このままでは拉致があかない。何か彼を落ち着かせて会話を成立させるには……と、困っているところで、

「アプス。そのくらいになさいな。そちらの方が困っているでしょう?」

 温暖とした優しい女性の声が俺らの間に割り込んできた。

「ビアフランカ先生。でも……」

 アプスと名前で呼ばれた青髪の少年が振り返ると、石畳の地面をヒールでカンッと大きめに鳴らし声の主の姿が俺の視界にも入ってきた。

 それは、ゆったりとした法衣に身を包んだ、たおやかな仕種の大人の女性だった。長い髪を腰より下まで伸ばし優しげに目を細めていて、服装のために体の線ははっきりとは見えないが、大きく開けた胸元だけは道行くどんな人の視線も奪えそうだ。

 それというのも非常に豊満で、さぞかし自由な発育をしてきたのだろうと感心するほどたわわな果実。
 その大きさもさることながらそれ以上に惹き付けられるのは、美しい白肌の玉の間に歪な骨のようなものが剥き出して付いているところにあった。

 動物の鋭い牙のような物体が胸の谷間を縦に裂いて交互に生え揃い噛み合って閉じている。まるで別の生き物の口がそこに在るような作りだ。

 少年からビアフランカと呼ばれた女性もまた、人間とは異なる種族なのだろう。それを見れば誰もがすぐに解る。

「ビアフランカ……? 貴女が?」
「はい。どうなさいました? マグ教諭によく似たそちらの御方」

 ビアフランカ。何処かで聞いた名前だと思っていたが、別れる前にスーが言っていた名前だったんだ。
 彼女は魔法学校の関係者だ。それも、俺と同じ立場の教師で、俺が学校まで行って探すつもりだった人物だ。
 まさかこんなところで出会うことになろうとは。

 彼女の登場でアプスは渋々剣から手を離し、俺に向けていた警戒を解いた。
 その様子を見守ってから、ビアフランカは俺のことを見、

「まぁ。本当によく似ていらっしゃるのね。まるで本人のよう……そっくりではありませんか」

 少し遅れて上品な素振りで驚いた。
 スーのような感激もアプスのような恐怖もなく、ただ穏やかな表情のまま口元をゆるめて笑う。

「ビアフランカ先生。実は俺、本人なんです」

「あらあら、まぁ」

「先生、騙されないでくださいよ?!」

 表情の変化が解りづらいビアフランカに代わってアプスが側で言葉を差す。
 聞いているのかいないのかが非常に感じ取りにくいが、俺はスーが渡してくれたメモを開いて彼女らに差し出し、

「俺が蘇ったことについてはまた今度説明します。スーがレストランで待ってるんです。ちょっとお金を貸してもらえませんか?」

「はぁ?  あんた何を……確かにこれはストランジェットの下手くそな絵と字だけど……」

「お金ですか。困りましたねぇ」

用件を伝えると、ビアフランカはのんびりとした口調で頷き自分の懐を探った。
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